第29話:六月の雨と、銀色の落とし物
これは、ミヤコが育ったロシロ村のお話。このとき、ミヤコ五歳。
空は朝から、鉛を溶かしたような鈍色に閉ざされていた。
ノザリア王国の最果て、深い山々に抱かれたロシロ村には、六月の長雨がひたひたと降り続いている。軒先から滴る水の音が、村の低い石壁を叩いては湿ったリズムを刻んでいた。
村の家々の煙突からは、朝食の準備を告げる薄い煙が立ち上っている。けれど、その空気はどこか重く、村人たちの顔には緊張の影が差していた。
それもそのはず、今はユニコリザードの産卵期。村の貴重な現金収入源である「卵」を獲るための書き入れ時であると同時に、最も幻獣たちが神経質になり、森の危険が増す時期でもあった。
村の外れにある質素な石造りの家。
獲卵屋を生業とするジョゼクは、仕事に欠かせない頑丈な革靴を丁寧に点検していた。
彼の顔には、山での厳しい冬と夏の陽光を幾度も越えてきた証である深い皺が、目元や口元に深く刻まれている。白髪が混じり始めた髪は短く刈り込まれ、節くれ立った大きな掌は、樹皮のように硬く、分厚い。
何十年もの間、この森と共に生きてきた男の身体は、言葉よりも雄弁にその経験を語っていた。
「……ジョゼク。こんな天気なのに、今日も行くのかい?」
隣家の老婆、エマが不安げに声をかけてきた。彼女は雨よけの布を被り、朝の井戸水を汲みに来たところだった。
「ああ。巣穴の状態が気になってな。雨が強くなれば、卵が流される恐れもある」
ジョゼクの声は低く落ち着いている。彼は獲卵用の網と、鋭い長めの鉈を腰に差した。
「あんたももう、若くはないんだよ。無理はしなさんな。今朝の森は、なんだか鳥たちも騒がしくて……嫌な予感がするんだ」
「なに、いつものことだ。……帰りに、あんたの孫にやるための甘い野イチゴでも見つけたら持ってくるよ」
不器用な微笑みを僅かに浮かべ、ジョゼクは雨の中へと踏み出した。
村を去る際、他の男たちからも「仕事熱心だな」「気をつけろ」と声がかかる。ロシロ村にとって、ジョゼクの確かな技術と目利きは、村の命運を握るほど重要だった。
けれど、ジョゼクの背負った防水コートを叩く雨脚は、彼の決意を嘲笑うかのように、次第に勢いを増していった。
村を離れ、森の深部へと続く獣道に入ると、視界は急激に暗くなった。
生い茂る広葉樹の木々の葉が幾重にも重なり、雨音は頭上でパチパチと弾けるような騒音に変わる。足元の土は粘土質で、一歩踏み出すたびに靴が泥に沈み込み、ジョゼクの体力をじわじわと奪っていった。
けれど、ジョゼクの歩みは揺るがない。
彼は森の呼吸を感じ取っていた。どの木の根が滑りやすく、どの岩影に毒蛇が潜んでいるか。
だが、今日の森は、彼が知るどの危険な日とも違っていた。
「……シュルル、って声が聞こえねぇな」
ジョゼクは足を止め、周囲を警戒するように見回した。
本来なら、巣を守るユニコリザードたちが、侵入者を威嚇して喉を鳴らす音が聞こえてくるはずの距離だ。
ところが、今日の森は、耳の奥が痛くなるほどの深い静けさに支配されていた。
鳥の声も、小動物が落ち葉を掻く音も、一切が消失している。
風が凪いだ、その刹那。
湿った腐葉土の匂いに混じって、別の匂いがジョゼクの鼻腔を突いた。
それは獣の匂いではない。
どこか鉄の錆びたような、冷たくて、重苦しい「死」の匂い。
「……っ、この匂いは」
ジョゼクの喉がひきつった。
彼は剣鉈を握り直し、茂みを強引にかき分ける。
目の先に広がっていたのは、想像を絶する惨劇の光景だった。
土砂降りの雨ですら消しきれない、どす黒い沈殿物が地面を覆っていた。
広場の中央には、都から来たものと思われる紋章の入った豪奢な馬車が、巨大な力で踏み潰されたかのように大破していた。
砕け散った木片、引き裂かれた絹のカーテン。それらは泥にまみれ、見るも無惨な屑となって散乱している。
そして、その傍らに、二体の亡骸が横たわっていた。
男女のものと思われる、血の色のマントを纏った旅人。
ユニコリザードの鋭い爪によって深く切り裂かれた肉体は、雨に洗われ、生気を失った白さを晒している。
ジョゼクは息を呑み、思わず目を逸らしそうになった。
「なんてこった……。弔いもできねぇほど、無惨に荒らしやがって」
それは、単なる死ではなかった。
高貴であったはずの命が、泥と力の暴走に巻き込まれ、ゴミのように放置された、あまりにも理不尽な光景。
ジョゼクは震える手で十字を切り、亡骸の傍らへと歩み寄った。
周囲には、銀の食器や美しい刺繍の入った着替えが泥に埋もれていた。
本来ならば煌びやかであったはずのそれらが、命の尊厳を汚す不純物にしか映らない。
その時だった。
積み上がった荷物の残骸、泥の山の中から、ぴくりと動く「光」がジョゼクの瞳を射抜いた。
それは、濁った雨水の中でも、毅然とした白銀の輝きを放っていた。
泥まみれの布切れの下から覗く、透き通るような銀色の髪。
「……おい、生きてるのか?」
ジョゼクは夢中で泥をかき分けた。
掘り起こされたのは、五歳ほどの小さな少女だった。
白銀の髪に、青白い肌。彼女は冷たくなった亡骸の服の裾を、小さな手で必死に握りしめていた。
少女の瞳は薄く開いていた。
けれど、その黄金色の瞳には何も映っていない。
激しいショックで感情のすべてを心の奥底へ封じ込めたような、ガラス細工のような空虚。
「……おい、しっかりしろ! 俺の声が聞こえるか!?」
ジョゼクが彼女の肩を抱き上げると、少女はびくりと身を震わせた。
けれど、彼女はジョゼクを見ようとはしなかった。
「……きたない。……きたない」
掠れた、消え入りそうな声。
少女は、雨水が溜まった泥濘に手を伸ばし、自分の服についた血の汚れを必死に擦っていた。
指先が赤く腫れ、泥が爪の間に入り込んでも構わずに、呪文のように同じ言葉を繰り返す。
「お父様も、お母様も……泥だらけ。洗ってあげなきゃ。……綺麗に、してあげなきゃ。……こんなの、だめなの……。不潔なのは、許せないの……」
その仕草は、弔いというよりも、目の前にある惨状という現実を否定しようとする痛々しい足掻きだった。
ジョゼクの胸の奥が、熱いナイフで抉られたように痛んだ。
この幼い少女は、両親が殺された瞬間から、この地獄のような光景を「汚れ」としてしか処理できなくなっている。
「……わかった。もういい、もういいぞ、お嬢ちゃん」
ジョゼクは少女の名前を知る術を持たなかった。
彼は少女の泥だらけの手を、自分の大きな掌で優しく包み込んだ。
「ああ、わかった。全部、俺が綺麗にしてやる。だからもう、その手を休めろ……こんなに冷たくなっちまって。すぐきれいな場所に連れていってやるからな」
ジョゼクは自分の厚手のコートを脱ぐと、泥だらけの少女を包み込むようにして抱き上げた。
あまりの重みのなさに、ジョゼクの心に憐れみが湧く。
「……きれいな、ところ……?」
少女が初めて、ジョゼクの胸元を見上げた。
その瞳に、ほんの一筋だけ、生きた者のまたたきが戻る。
雨脚は、なおも激しさを増していた。
ジョゼクは、冷え切った少女を胸にしっかりと抱き直すと、亡骸に向かって深く一礼した。
今は彼女を救うのが先決だ。けれど、必ず村の衆を連れて戻り、彼らをこの泥の中から救い出すと、静かに誓った。
卵を獲りに来たはずの自分が、ちいさな命を拾うことになるとは、夢にも思わなかった。
泥にまみれた少女を見捨てられないのは、ジョゼクという男の、不器用なほどの優しさだった。
ジョゼクは一歩、また一歩と、ロシロ村へと続く泥道を歩み始めた。
雨が彼の頬を打ち、寒さが骨まで沁みる。
けれど、腕の中で少しずつ体温を取り戻していく少女の鼓動だけが、今のジョゼクにとっての道標だった。
「……安心しろ、お嬢ちゃん。俺の家は、この村で一番綺麗にしてあるつもりだ。汚れているもんなんて、一つもありゃしねぇよ」
少女は何も答えなかった。
ただ、ジョゼクの胸に顔を埋め、微かな安堵を覚えたように、その小さな呼吸を整え始めた。
雨の向こう側、雲の切れ間から、極めて微かな光が射し込む。
それはまだ、救いと呼ぶにはあまりにも頼りないものだった。
けれど、泥にまみれた石畳の道には、二人分の確かな足跡が刻まれていく。
銀色の髪を雨に濡らした少女と、無骨な男。
後に「特別宮廷飼育官」と呼ばれることになるトリマーの物語は、この無惨で、悲しい六月の雨の中から始まったのである。
「……きれいな、お家……。……いきたい」
微睡みの中で漏れた少女の声。
ジョゼクは何も言わず、ただ力強く頷き、泥濘を蹴って先へと進んだ。
森は再び静けさを取り戻し、雨音だけが世界の汚れを洗い流そうと響き続けていた。




