第25話:実践!泡とブラシと生活魔法
一夜明けて、舞台は高い鉄柵に囲まれた屋外の飼育場へと移った。
踏みしめる砂地からは乾いた土の匂いが立ち上り、周囲を囲む弓兵たちの張り詰めた気配が、ここが「命がけの現場」であることを物語っている。
けれど、周囲に座る百人のエリート飼育官たちの様子は、昨日までとは劇的に変わっていた。
彼らの首元で揺れているのは、昨日私が配った「特製・匂い玉」。
飼育場には、本来漂うはずの鼻を突く「臭い」はなく、代わりに春の野原を思わせる柔らかなハーブの香りがふわりと満ちていた。
「ギャァァァァッ!!」
突如、鼓膜をつんざくような咆哮が響き渡った。
檻の中で暴れているのは、空の王者グリフォン。
鋭い嘴で柵を叩き、巨大な翼を荒々しく羽ばたかせるその姿は、近づく者すべてを拒絶する暴力そのものに見える。
(……空の王者と呼ばれていても、こんなに羽が逆立っていては、飛ぶのも一苦労ね)
私は一人、その狂暴な影へと歩み寄った。
周囲から「危ない!」「グリフォンは誇り高く、従魔契約をしていない相手には攻撃をするんだぞ!」と悲鳴のような声が上がるけれど、私の足取りは凪いでいた。
「今日は少しだけ、お話を聞いてくれるかしら」
私は首元の匂い玉をそっと揺らし、香りを風に乗せた。
狂暴に暴れていたグリフォンが、ふと動きを止める。くちばしの上にある鼻から空気を吸い込み、どこか懐かしい香りを確かめるように首を傾げた。
血走っていた瞳の輝きが次第に潤みを帯び、あろうことか彼は、自分から首を寄せ、甘えるような仕草を見せたのだ。
「……信じられん。あの気性の荒い個体が、自分から人間に歩み寄るなど……」
背後でベテラン飼育官が絶句する音が聞こえたけれど、私は構わずグリフォンへ手を差し出した。
「ほら、いい子ね。嫌な臭いがしないから、怖くないでしょう? ……さあ、お掃除を始めましょうか」
私はエプロンのポケットから、特製の「羽毛用の銀のブラシと、魔蜜オレンジの成分を限界まで高めた石鹸を取り出した。
「生活魔法・魔蜜オレンジ洗浄」
指先から溢れ出したのは、一つ一つが小さな真珠のように光を湛えた、極上の泡。
綿菓子のように柔らかい泡が、グリフォンの巨大な翼を包み込んでいく。
シュワシュワ……。
泡が羽毛の隙間に滑り込むたび、雪が解けるような心地よい音が響く。
グリフォンは、あまりの心地よさに「クルル……」と喉を鳴らし、完全に脱力して地面に伏せた。
「羽の付け根に溜まった魔力の澱……これを放っておくから、体が重くてイライラしてしまうのです。……ほら、浮いてきました」
昨日の講義で語った「十五度の角度」を完璧に守り、私は流れるような動作でブラシを滑らせた。
魔法の泡は、みるみるうちにどす黒く変色していく。それはグリフォンの体から引き剥がされた、溜まった汚れの不快感の結晶だった。
「見てくれ、あの泡……汚れを吸い取って、どんどん色が変わっていく……! まるで、宮廷錬金術師の解呪魔法のようだ……」
新人飼育官の震える声が聞こえるけれど、私はその作業に全神経を注いでいた。
羽の奥深くに潜んでいた魔吸シラミや、魔力を喰らう不気味な半透明の害虫たち。
それらが魔法の泡に触れた瞬間、苦しむ様子もなく、たださらさらとした光に溶けて消えていく。
煤けていたグリフォンの羽が、内側から発光するように本来の黄金色を取り戻していく。
「ただ洗うだけ」という、あまりにも純粋な行為がもたらす、完璧な救済。
「……仕上げですよ。生活魔法・温風」
濡れていた羽が一本一本、誇らしげに立ち上がる。
グリフォンが大きく翼を広げると、周囲に金色の粉が舞い、飼育場全体が神域のような輝きに包まれた。
先程までの凶暴さはそこにはいない。目の前にいるのは、美しく気高い空の王者だ。
「我々は……今まで、何をを以て飼育と傲っていたのだ。これこそが、命を磨くという……飼育の真髄じゃないか……っ」
ベテラン飼育官が、崩れ落ちるように膝をついた。
グリフォンは私の手に大きな頭を寄せ、深い感謝を込めて一度だけ、私の頬を舐めた。
「ほら、ピカピカになりましたよ。……さあ、遊んでらっしゃい」
飼育場全体が、まるで神殿のような、清らかで澄んだ空気に満たされていた。
誰に促されることもなく、百人の飼育官たちが私に向かって深く、深く頭を下げる。
一言も漏らさぬよう書き留められた羊皮紙は、これからの幻獣のお世話の聖書となるのだろう。
「皆さん、今日学んだことを忘れないでくださいね。不潔な環境は、あの子たちの心を汚してしまいます。……けれど、しっかりとお掃除さえすれば、どんな子だって笑顔になれるんですから」
私は穏やかな達成感に包まれながら、飼育場を後にしようとした。
その時だった。
――ガァァァァッ!!
成功の余韻に浸る空気の中で、その声は響いた。
遠く、離れた獣舎の方角から届く、地響きのような咆哮。
それは昨日、私が「鱗磨き」で心を鎮めたはずの、あのユニコリザードの悲痛な叫びだった。
誰もが目の前のグリフォンの輝きに目を奪われ、その声に気づく者はいない。
けれど、私の耳には、風に乗って届いたその絶望が、冷たい雫のように心に落ちた。
私はモップの背を強く握りしめ、声のした方角を見つめた。




