第23話:新人飼育官の戦慄と、伝説の「手」
「メェェェッ!」
タオルは歓喜に震える声を上げると、私の頬にその大きな頭をぐいぐいと擦り付けてきた。
久しぶりに触れるその黄金の毛並みは、相変わらず極上の手触り。けれど、指先を沈めると、毛の奥に蓄積された微かな「魔力の澱」がピリリと指を突く。
(あらあら……。しばらく会わない間に、随分とお手入れをサボっていたみたいね)
お掃除好きとしての血が騒ぐのを感じていると、足元で銀色の影がゆらりと揺れた。
タオルの甘える姿に、ほんの少しのやきもちを焼いたのか。モップがタオルの横腹へ鼻先を突っ込んだ。
「わふんっ!(おい、俺の主にベタベタするな!)」
「クルルッ?(なんだ、やるのか? 犬っころ)」
終焉の幻獣フェンリルと、聖獣麒麟。
二頭が視線を交わした次の瞬間、放牧場の空気が爆ぜるように揺れた。
彼らにとっては、単なる「久しぶり」の挨拶代わりの遊びだったのだろう。けれど、草原を転げ回る二頭が巻き起こす衝撃は、もはや自然災害に等しいものだった。
ズゥゥゥン!!
お腹に響く重低音と共に、地面が大きく波打つ。
土煙が舞い上がり、草原の草が一瞬にしてなぎ倒されていく。
周囲で見ていた飼育官たちは、「世界が終わる……」とでも言いたげな絶望の表情を浮かべ、腰を抜かして震えていた。
「もう、二人とも! 皆の前で土埃を立てちゃダメでしょ!」
私はパンパン、と力強く手を叩いた。
「ほら、お座り! お掃除チェックをしに行くわよ!」
私の声が、破壊の嵐を切り裂く。
すると、先ほどまで大地を揺らしていた二頭の巨躯が、嘘のように動きを止めた。
モップとタオルは同時にシュンと耳を伏せ、私の目の前で行儀よく「お座り」をした。
「…………」
飼育官たちの、魂が抜けたような沈黙が、凪いだ空気の中に漂っていた。
「タオル、そんなに服を引っ張らないで。あっちのユニコリザードたちの様子を見たら、お手入れしてあげるって約束したでしょ?」
「メェ、クルルッ……」
私の袖を口に含んで、甘えるように足を止めるタオル。
一歩歩くたびに五色の光を振りまく黄金の麒麟と、その隣を威風堂々と歩く白銀のモップ。
歴史上類を見ないほど贅沢で、そして周囲から見ればひどく畏れ多い「お散歩」が始まった。
他の幻獣たちのエリアを通る際、柵の近くにいたペガサスやワイバーンたちが、二頭の圧倒的な威圧感を察して、次々と地面に平伏していく。
エリア全体が、不自然なほどの静けさに包まれる中、私は施設の衛生状態に目を光らせていた。
「……あら。あっちの柵、錆びているわ。あんな状態じゃ、柵に触れた子たちの肌が荒れてしまう。むぅ」
私は眉をひそめ、風に乗って流れてくる匂いに意識を向けた。
草の香りに混じって届く、鼻を突くような澱んだの匂い。
それは、生命の循環が滞った時に放たれる、ひどく不快な汚れの予感だった。
――ガァァァァッ!!
ユニコリザードの飼育エリアに近づいた瞬間、喉を引き裂くような咆哮が耳を打った。
巨大な柵がミシミシと悲鳴を上げ、金属が擦れ合う鋭い響きが響き渡る。
「ミヤコ様、危ない! 近寄らないでください!」
ベテラン飼育官が悲鳴のような声を上げた。
そこでは、一頭の大型ユニコリザードが、我を忘れたように暴れ狂っていた。
本来、この種族は鏡のように美しい鱗を誇る、極めて「綺麗好き」でプライドの高い幻獣。
それなのに、その子の鱗は自身の爪で掻きむしられ、無惨に剥がれ落ちていた。
濁った瞳には、自分自身が誰なのかすら分からなくなっているような、絶望的な混乱が張り付いている。
「殺処分……。こうなったら……もう、それしかありません!」
震える手で槍を構える飼育官たち。
けれど、私は迷わず、暴れる巨躯の鼻先へとその指先を差し出した。
「……静かに。この子、ただ苦しくて、自分が壊れてしまいそうで怖いだけよ」
私の指先から、淡い桃色の魔力が溢れ出した。
それは不浄を焼き切るための光ではない。対象の自尊心を優しく呼び覚まし、心のしわを伸ばすための穏やかな香りの生活魔法。
「不潔なものは、今すぐ綺麗にしてあげますからね。……『生活魔法・鱗磨き』」
。
魔法の泡が鱗の隙間へと滑り込み、こびりついていた黒い澱を一瞬で浮かせる。すかさずクロスで拭き上げる。
磨き上げられた鱗が本来の輝きを取り戻すにつれ、ユニコリザードの荒い呼吸が、次第に穏やかなものへと変わっていった。
「あ……ああ……」
ユニコリザードは嘘のように大人しくなると、私の手のひらに、熱を持った頬をそっと寄せてきた。
(ユニコリザードは、本来おとなしい子たち。……昔、教わった通り、綺麗にして落ち着かせてあげればいいの)
幼い頃に学んだ、あの温かな「洗浄」の記憶。
けれど、安堵したのも束の間。私の指先は、ある「異変」を捉えていた。
「……? おかしいわね」
鱗をなぞる指先が、微かな震えを感じ取った。
命の火が吸い取られて、腐敗が始まっているような不気味な感覚。
「一体、何が起きているの……?」
ユニコリザードは私の手元で震え続けている。
この静かな悲鳴の正体が、国家の犯した恐ろしい「過ち」であることに、私はまだ気づいていなかった。




