第15話:終焉の獣の「運搬」と騎士の驚愕
膝をついたグレンの指先は、不自然なほど白く震えていた。
指の隙間からこぼれ落ちた荷車の取っ手が、カラン、と乾いた音を立てて土の上で跳ねる。
それは彼が積み上げてきた限界が、音を立てて崩れ去った瞬間でもあった。
「動け……、動け、動けっ……!」
グレンは呪文のように自分を叱咤した。
怪我と疲労による不自由さに苛立ちの表情を浮かべる。
山道を一人で、数百キロにも及ぶグリフォンと荷車を引き続けたことによる、筋肉は断裂寸前。
腕は熱を帯びてパンパンに腫れ上がり、心臓が爆ぜるような激しい拍動が脈打つ。
視界が白く霞む。
目の前にいるはずの、どこか浮世離れした少女の姿が、陽炎のようにゆらゆらと滲んでいく。
それでも彼は、最後の手を振り絞るようにして、荷台の上の相棒――グリーへと指を伸ばした。
「グリー……、今……運び、入れる……から……な……」
声は掠れ、言葉の端から血の味がした。
折れた翼を抱え上げようと、力を込める。
けれど、感覚を失った腕は鉛のように重く、泥の中に縫い付けられたかのようにピクリとも動かなかった。
「……騎士様、もう十分ですよ」
ふわり、と。
鉄と泥の匂いに支配されていた鼻腔を、石鹸と干したばかりの薬草を混ぜたような、ひどく清らかな香りが掠めた。
震えるグレンの肩に、小さく温かな手が添えられる。
その感触は、死の瀬戸際で戦い続けてきた彼にとって、あまりにも柔らかく、あまりにも無防備なものだった。
「これ以上無理をしたら、一生、剣も持てなくなってしまいます。それに……」
ミヤコは困ったように眉を下げたが、毅然とした瞳で、グレンの泥だらけの全身を見つめた。
「そんなに無理をして動いては、あちこちに血が飛び散って、お店の床まで汚れてしまいます。貴方も大切なお客さんなのですから、あとのことは私に任せて、大人しくしていてくださいな」
(……お店の床が、汚れる……?)
グレンは呆然と、自分を見下ろす少女の言葉を反芻した。
自分の命よりも、お店の清潔さ。
けれど不思議と説得力のある物言いに、グレンの肩からふっと力が抜けた。
張り詰めていた糸が切れ、彼はその場に崩れ落ちる。
「モップ! お昼寝はもう終わり。お客さんを案内しなきゃいけないの。……出番よ。優しく運んであげて!」
少女がくるりと振り返り、店先で呑気に欠伸をしていた銀色の犬へと声をかけた。
グレンは朦朧とする意識の中で、その光景を眺めていた。
ミヤコに呼ばれた銀色の犬が、ゆらりと立ち上がる。
その瞬間、世界の色が変わった。
夕闇のオレンジに溶けていたはずの空気が、急激に冷え込んでいく。
犬の輪郭が、深い霧の中で陽炎のように揺らぎ、膨らみ始めた。
背中から溢れ出した白銀の魔力が、きらきらと光の粉を撒き散らしながら、一頭の巨大な獣を形作っていく。
「…………なっ……」
グレンの喉が、引き攣った音を立てた。
目の前に現れたのは、もはや犬ではない。
月光をそのまま凍らせたかのような、神秘的な白銀の毛並み。
空を裂く三日月のような鋭い爪。
そして、全てを見透かすような黄金の瞳。
肺を押し潰さんばかりの圧倒的な魔力圧。
これまで数多の戦場を駆け抜け、狂暴な魔獣とも刃を交えてきたグレンだったが、これほどのプレッシャーを感じたことは一度もなかった。
それは生物としての格の違い。食物連鎖の頂点に君臨する、絶対的な捕食者の気配だ。
「フェ、フェンリル……!? 伝説に謳われる、災害級の幻獣……!?」
グレンの記憶の底から、古文書の挿絵が飛び出してきた。
一体で一国を揺るがすと言われる、冬と死を象徴する伝説の魔獣。
なぜ。どうして、こんな山奥にそんな怪物がいるのか。
しかも、それは自分の主を守るかのように、真っ直ぐに自分を睨みつけている。
「グルル……」
獣の喉の奥で鳴る重低音が、グレンの五臓六腑を震わせた。
死の予感が、冷たい汗となって背中を伝い落ちる。
グレンは本能的に、感覚の消えかかった右手を腰の剣へと伸ばした。
せめて、グリーだけでも守らなければ。
――ペシッ。
乾いた音が、緊迫した空気を一瞬で霧散させた。
「ダメよモップ、そんなに睨んだらお客さんが怖がっちゃうでしょ。いつも言っているじゃない。お店の第一印象は、笑顔! 穏やかな顔が大切なのよ」
グレンは、自分の目を疑った。
今、目の前の少女は。
国をも滅ぼすと言われる災害級の魔獣の鼻先を、まるで行儀の悪い子犬でも叱るかのように、軽く叩いたのだ。
「わ、わふん」
伝説の巨獣は、あろうことか不貞腐れたように首を振り、小さく鼻を鳴らした。
その態度は、恐ろしい怪物というより、姉に小言を言われて拗ねている弟のそれだった。
グレンの手が、剣の柄から力なく滑り落ちる。
「優しく運ぶのよ? この子の毛並みを傷つけたら、あとでシャンプーの時間を二倍にするからね」
「わふぅん……」
モップと呼ばれる白銀の幻獣は、しぶしぶと荷車の方へ歩み寄った。
グレンの目前を、その巨大な足が通り過ぎる。
あまりの大きさに、地面が微かに揺れた。
モップはグリーの首根っこを、大きな口で器用に咥え上げた。
体重数百キロに及ぶはずのグリーが、まるで羽毛布団か何かのように軽々と宙に浮く。
モップはそのまま、ミヤコが指差す洗い場の方へと、ゆったりとした足取りで向かっていった。
「…………あ、あのフェンリルを、躾けているのか……?」
グレンは、泥の上にへたり込んだまま、呆然とその背中を見送った。
神話の中の存在が、エプロンをつけた少女に叱られ、素直に力仕事をこなしている。
理解の限界を超えた現実に、グレンの頭はどうにかなりそうだった。
「さあ、騎士様も。冷たい地面に座っていては、体に障りますわ」
ミヤコが、再びグレンに手を差し伸べた。
夕陽を背負った彼女の輪郭は、淡いオレンジ色に縁取られ、まるで精霊のようにも見えた。
汚れ一つないその手。
グレンは一瞬、自分の血塗れた手でそれに触れていいものかと躊躇った。
けれど、ミヤコはそんな迷いなど意にも介さず、ぐい、と彼の腕を引き寄せ、無理やり立ち上がらせる。
「まずは貴方を拭いて、それからグリーちゃんのお掃除です。お湯が冷めないうちに、さっさと済ませてしまいましょうね」
「……ああ……。すまない……、感謝する……」
グレンはふらふらとした足取りで、少女の後に続いた。
背後で、夕闇が静かに森を呑み込んでいく。
山あいに佇む小さな『トリミング店』。
そこから漏れるランプの灯火は、絶望の淵にいた騎士にとって、この世で最も温かな救いの光に見えた。
洗い場からは、ジャバジャバという水の音と、巨大な獣が「ふぅ」と溜息をつくような音が聞こえてくる。
グレンは自分の傷だらけの胸を抑え、熱に浮かされたような心地で、その不思議な光景の中へと足を踏み入れた。
(この娘は、一体……何者なんだ……)
彼の常識は、たった数分の出来事によって、修復不可能なほど粉々に砕かれていた。
けれどその破片の隙間には、これまでに感じたことのない、淡い好奇心と期待が芽吹き始めていたのだ。




