第14話:苦しみの咆哮と羽音と、血の匂い
山あいに差し込む午後の光は、まるで薄く透いた蜂蜜のように甘く、穏やかだった。
軒先に吊るしたハーブの束が、風に揺れては爽やかな香りを振りまいている。
私は、足元で丸まっている銀色の大きな塊――看板犬のモップを、お気に入りのブラシで丁寧に梳いていた。
「いいお天気ね、モップ。今日は平和で、なんだか微睡んでしまいそう……」
私の独り言に、モップは「わふん」と短く鼻を鳴らした。
かつては世界を喰らう終焉の獣なんて呼ばれていたけれど、今の彼は、ブラッシングを心待ちにするただの甘えん坊な家族だ。
銀色の毛並みが太陽の光を反射して、きらきらと眩しく輝く。
このふかふかの手触りに癒やされている時が、私にとって何よりの幸福だった。
(……このまま、お湯を沸かして、ゆっくりお茶でも淹れられたら最高なんだけど)
そんなことを考え、小さく欠伸を噛み殺した、その時。
――グケェェェェ!!
山麓の方から、空気を震わせるような咆哮が響いた。
窓ガラスをビリビリと伝う微かな振動。
平和な鳥のさえずりが一瞬で止まり、森全体が息を潜めたような緊張感に包まれる。
「あら……? 今の音、雷かしら」
空を見上げても、そこには雲一つない紺碧の景色が広がっているだけ。
それまで私の膝に顎を乗せていたモップが、鋭く耳をそばだてて立ち上がった。
彼の金色の瞳が、険しい山道を真っ直ぐに見据えている。
「グルルル……」
喉の奥で鳴る、地鳴りのような唸り声。
モップが、私を庇うように一歩前へ出た。
「モップ? どうしたの、そんなに毛を逆立てて」
「……グルルル(……血の匂いだ。それも、ひどく澱んだ、死の気配)」
モップの声に、私の指先が微かに震えた。
彼がこれほどまでに警戒するのは、ただ事ではない証拠。
森の奥から、冷たい風が吹き抜けていく。
平和な午後のまどろみは、その一瞬で不穏な色彩へと塗り替えられてしまった。
それから数十分が過ぎた頃。
店の前の急な坂道を、何かが這い上がってくる音が聞こえ始めた。
重い鉄が擦れる音。荒い呼吸。
そして、荷車が小石を弾く不快な音。
霧の向こう側から現れたのは、泥と返り血に塗れた、一人の男だった。
深い藍色のマントはあちこちが引き裂かれ、身に纏った銀の鎧は光を失い、どす黒く汚れている。
彼は、自分の体の数倍はあろうかという巨大な荷車を、折れそうな腕一本で必死に引いていた。
「はぁ、はぁ……っ、ここか……。噂に聞く……『幻獣の聖域』というのは……っ」
男は力なく膝をつき、血走った眼で私の店を見上げた。
整った顔立ちは青白く、額からは汗と血が混じった雫が滴り落ちている。
彼の腕からは、今も絶え間なく赤い雫が溢れ、足元の土を汚していた。
けれど、私の視線は彼の背後にある荷車へと釘付けになった。
「なんてこと……!」
荷台の上に横たわっていたのは、一頭の巨大なグリフォンだった。
黄金色のはずの羽毛は、正体不明の黒い粘液にまみれて固まり、不気味な腐臭を放っている。
左の翼は無惨に折れ曲がり、その付け根からは黒い霧のような煙がゆらゆらと立ち上っていた。
「助けて……くれ……。グリーが……俺の、相棒が……っ」
男の声は、今にも消え入りそうなほど掠れていた。
必死に荷車を引いてきたせいか、彼の指先は爪が剥がれ、無惨に剥き出しになっている。
それでも彼は、自分自身の痛みなど眼中に無く、グリフォンの冷たくなっていく体を必死にさすっていた。
(……ひどい。こんな状態になるまで、どれほど辛い思いをしてきたの?)
私の胸を締め付けたのは、恐怖ではなく、あまりにも「不憫」なその姿だった。
幻獣が、こんなにも汚れたままにされているなんて。
かつて宮廷の地下で、ボロ雑巾のように扱われる幻獣たちを見てきた私にとって、それは何より許しがたい光景だった。
(この汚れ……ただの泥じゃないわね。魔力の循環を止めて、内側から腐らせようとしている。……なんて強情で、意地の悪い汚れなのかしら!)
お掃除好きとしての私の矜持が、静かに火を吹く。
絶望に染まった騎士様の瞳には、今の私はどのように映っているだろうか。
憐れみでも、恐怖でもない。ただ「汚れへの怒り」を湛えた、風変わりな店主にしか見えないかもしれない。
「モップ、すぐに準備を! 大急ぎでお湯を沸かさなきゃ!」
私は迷わず、泥にまみれた男の元へと駆け寄った。
男の瞳に、絶望の中に差し込んだ一筋の光のような、微かな希望が宿るのを私は見た。
「大丈夫ですよ、騎士様。……そんなに悲しい顔をしないで。まずは、そのひどい汚れを全部綺麗にしましょう」
私の言葉に、王国の騎士団長・グレンと名乗った男は、震える唇を噛み締め、そのまま力尽きるようにして地面へ伏した。
山あいの静かな午後は、血の匂いと、強い決意の泡の音に上書きされていった。
「モップ、その子《グリフォン》を洗い場へ。……騎士様は、私が奥へ運ぶわ!」
私は袖を捲り、手慣れた手つきで「洗浄」の準備を始めた。




