EP,Summer ~section3:『迷宮と、拾得物』~
「遠慮する。先程も言ったが、非科学的な見世物に時間を割くつもりはないぞ」
プラスチックのカップを両手で持ったまま、瑠璃さんは冷ややかな視線を一瞥しただけで、翡翠さんの提案をきっぱりと拒絶した。その紫の瞳には、目の前の巨大なお化け屋敷に対する一切の興味も関心も浮かんでいない。
「えー、本当は怖いんじゃないの。瑠璃ってば、そういう暗くて狭いところ、昔から苦手だもんねえ」
翡翠さんが、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべ、わざと挑発するように瑠璃さんの顔を覗き込む。からかうようなその言葉の裏には、妹の反応を楽しもうとする姉としての余裕が透けて見えた。
瑠璃さんの美しい眉間が、ピクリと不機嫌に動いた。彼女は手に持っていたメロンクリームソーダの空のカップを、近くにあったゴミ箱へ正確に放り投げる。
「行けばよいのじゃろう、行けば。幽霊や怨霊などという非論理的な概念の存在を、わしが物理的かつ論理的に、完膚なきまでに論破してやろう」
完全に売り言葉に買い言葉だった。瑠璃さんは踵を返し、一切の躊躇なく、ずんずんとお化け屋敷の入り口の方へ向かって歩き出してしまう。
僕は絶望的な気分で、深く天を仰いだ。お化け屋敷など、できれば一生関わりたくない。しかし、言い出した翡翠さんはすでに楽しそうに瑠璃さんの後を追っており、僕だけがここに残るという選択肢は存在しなかった。
重い足取りで二人の後を追いかけようとした僕は、ふと、背後を歩く巨大な壁の異変に気がついた。
振り返ると、周囲の客を睨みつけて威圧していたはずの黒田さんの足が、完全に石畳の上に縫い付けられたように止まっていたのだ。
街灯の光の下でもはっきりとわかるほど、彼の屈強な顔面から血の気が失せ、土気色に青ざめている。凶悪犯やテロリストと素手でやり合い、どんな銃火器を向けられても微動だにしないはずの歴戦のボディガードが、まるで迷子になった子供のように怯えた目で、あのチープな手書きの看板を見つめていた。彼の広い額には、晩夏の暑さとは全く違う、脂汗のような冷たい汗がびっしりと滲み出している。
「あの、黒田さん。もしかして、こういうの苦手ですか」
僕が恐る恐る尋ねると、黒田さんはロボットのようにギクシャクとした動きで首を横に振った。
「い、いえ、そのようなことは。お嬢様方の警護は、私の至上命題。いかなる過酷な環境であろうとも、お供、いたします」
声の震えが隠しきれていなかった。どうやら彼は、物理的に殴れない得体の知れない存在、いわゆるオカルト的なものが極端に苦手らしい。僕と黒田さんという、恐怖の対象は違えど極度に怯える男二人は、まるで互いを慰め合うように重い足取りで、入り口の受付へと向かった。
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受付に座っていた愛想の悪い老婆にお金を支払い、分厚く重い黒の暗幕をくぐる。
その瞬間、外界の祭りの喧騒や熱気が、分厚い壁によって完全に遮断された。
中は、驚くほどの静寂と、息苦しいほどの暗闇に支配されていた。古い木材が放つ強いカビの匂いと、埃っぽいドライアイスの白煙が、閉鎖された空間に充満している。どこからか、お経のような、あるいは女性のすすり泣きのような、耳障りで不気味なBGMが絶え間なく流れており、足元は歩くたびにギシギシと嫌な音を立てる不安定なベニヤ板だった。
「ひゃっ」
突然、暗闇の天井から、生温かく濡れた何かが僕の顔面にべちゃりと直撃した。
強烈な生臭さと、ぬるりとした感触。
「うわああああっ。な、何か顔に、顔にっ」
「ヌウッ。こ、光太郎さん、伏せてください!敵の奇襲、いや、見えない攻撃です」
僕の情けない悲鳴と、背後を歩いていた黒田さんの野太く裏返った呻き声が、狭い通路に響き渡る。黒田さんは僕の肩を乱暴に掴み、壁際に身を寄せようと必死に身構えていた。見えない敵に対して完全にパニックを起こしている。
「あははっ。光太郎くんも黒田も、面白すぎ。ほら、ただの濡れた糸とコンニャクの仕掛けよ」
前方を歩いていた翡翠さんが、スマートフォンの微かな明かりで僕の顔を照らし出し、腹を抱えて笑っている。
「ただのコンニャクじゃ。静かにせい、サクタロウ。お主らの無駄に大きな悲鳴で鼓膜が破れるわ。黒田も、己の任務を忘れて取り乱すでない」
暗闇のさらに前方から、瑠璃さんの冷ややかで容赦のない声が飛んできた。
彼女は銀の懐中電灯を取り出すこともなく、ただ暗順応した目だけで、このチープな迷宮をまるでつまらない博物館でも歩くかのように、淡々と一定のペースで進んでいる。突如鳴り響く雷鳴の音響にも、壁を突き破って飛び出してくる血まみれのマネキンにも、彼女の歩みはミリ単位たりともブレることはなかった。
「ほれ、あそこを見ろ。飛び出してくるマネキンの関節部分に、安っぽい空圧シリンダーが露出しておる。あのような旧時代的な機械仕掛けで人を驚かせようなど、片腹痛いわ。空気の圧縮音が先に聞こえるゆえ、飛び出してくるタイミングなど一秒の狂いもなく予測できる」
暗闇の中で、瑠璃さんの論理的で冷徹な解説が続く。彼女にとってこの空間は、恐怖の対象ではなく、いかに非論理的でチープな作りであるかを観察し、論破するためのただの材料に過ぎないのだ。
僕と黒田さんは、その後ろを互いに身を寄せ合うようにして、這うような速度で進み続けた。足元を不意に掴まれる仕掛けに遭遇するたびに、黒田さんはビクンと巨大な体を跳ねさせ、僕はその反動で壁に激突する。ボディガードとしての機能は完全に停止しており、ただの怯える巨漢と化していた。
お化け屋敷も中間地点を過ぎ、最も暗く、道幅が狭く、そしてカビの匂いが一段と強くなるエリアに差し掛かった頃だった。
そこは、かつて蔵の地下牢として使われていたのではないかと思わせるような、石垣のような壁に囲まれた少し開けた空間だった。
不規則に、そして暴力的に赤い点滅を繰り返す裸電球に照らされたその小部屋は、どうやら『処刑場』をモチーフにしたエリアらしかった。天井からは太い縄の輪がいくつもぶら下がり、壁には赤黒い塗料で無数の手形がつけられている。
その部屋の中央に、最も目を引く、悪趣味なオブジェが置かれていた。
古く赤黒い染みがついた木製の拷問椅子のようなものに、一体の骸骨の模型が乱暴に座らされ、太い革のベルトで何重にも縛り付けられているのだ。骸骨が着ている和服はボロボロに引き裂かれ、あばら骨が露出している。赤い照明が点滅するたびに、頭蓋骨の窪んだ眼窩が不気味な影を作っていた。
しかし。
その骸骨の模型の前を通り過ぎようとした瑠璃さんの足が、そこでピタリと、まるで映像が停止したかのように急激に止まった。
「サクタロウ。少し照らせ」
暗闇の中で、静かな、しかし有無を言わせぬ絶対的な命令が下る。
僕はビクビクと周囲を警戒しながら歩み寄り、言われるがままにスマートフォンのライトを点灯し、骸骨の模型に向けた。
白いLEDの強い光が、処刑場の赤い照明を掻き消し、プラスチックでできた骸骨の表面の不自然な艶と、積もった埃を容赦なく照らし出す。
瑠璃さんは浴衣の袖が邪魔にならないように少し捲り上げると、常に持ち歩いている純白の軍手を両手にはめた。そして、懐からあの美しい装飾が施された銀のルーペを取り出すと、骸骨の右手、肘掛けに固定されたその骨ばった指の先へと、顔を極限まで近づけた。
彼女の長く美しい黒髪が、骸骨の無機質なプラスチックの腕にハラリとかかる。
僕も彼女の視線の先へと、恐る恐る目を向けた。
スマートフォンの光が照らし出している、模型のプラスチック製の右手の中指。
そこに、あった。
薄暗いお化け屋敷の、チープな骸骨模型の指という、この世で最も不釣り合いな場所に。
それは、明らかに骨のサイズに合っておらず、ぶかぶかで今にも抜け落ちそうになっている、一つの指輪だった。
しかし、それはおもちゃの指輪などでは断じてなかった。くすんだプラスチックの骨輪郭とは対照的に、スマートフォンの光を受けて強烈な、そして圧倒的な存在感を放つ本物の白金の輝き。
台座の中心には、極めて精巧なカットが施された、素人目に見ても尋常ではない大きさのダイヤモンドがあしらわれている。周囲にも細かなメレダイヤが散りばめられた、重厚で、歴史を感じさせるアンティークの婚約指輪だ。
ありえない場所に、ありえないものがある。
なぜ、祭りの屋台の安っぽいお化け屋敷の模型に、こんな高価な本物の指輪が嵌められているのか。
誰が、どういう経緯でここへ持ち込み、なぜわざわざこの骸骨の中指に嵌めたのか。落とし物にしては不自然すぎる。誰かが意図的に、この場所にこれを配置したとしか思えない。
瑠璃さんの意識が完全にその指輪の鑑定という深い思考の海へと潜り込み、周囲の環境情報が彼女の脳内から完全にシャットアウトされた、まさにその時だった。
骸骨の模型が縛り付けられている木製の椅子の台座。その裏側の、スマートフォンの光が届かない深い影の暗がりから。
ずるり、と。
湿った、重い布が床を擦るような、ひどく不快な音が聞こえた。
仕掛けのマネキンが動くような、空圧シリンダーの人工的な音ではない。
お化け役の人間が客を驚かせるための、計算されたタイミングでもない。
僕の足元、わずか数十センチ先の暗がりから、何かが床を這いつくばって、こちらへ向かって滲み出してきているのだ。
「ひっ」
僕の喉の奥から、先程の恐怖とは全く質の違う、声にならない悲鳴が漏れた。
スマートフォンのライトを持つ僕の手が小刻みに震え、光の円が床の上で激しく踊る。その踊る光の円が、這い出してくる『それ』を捉えた。
服は泥と、得体の知れない赤黒い染みでひどく汚れ、引き裂かれている。
暗闇に響く、ヒュー、ヒューという、気道に水が詰まったような荒く不規則な呼吸音。
べちゃり、べちゃりと、粘度の高い液体を床に擦り付けながら、一本の腕が、僕の靴の先端に向かって力なく伸ばされてくる。
腹部を真っ赤に染め、苦痛に顔を歪めながら床を這う、本物の瀕死の人間の姿だった。年齢は五十代後半だろうか。着ているのは、神社の関係者が着るような白衣と袴のようだが、その大半が赤黒い血を吸って重く変色していた。
「あ、ああ、血……本物の、血だ」
僕は恐怖と混乱で完全に腰が抜け、その場にへたり込んでしまった。スマートフォンの光が明後日の方向を向き、再び処刑場は赤い点滅照明に支配される。翡翠さんも口元を両手で覆い、青ざめた顔で息を呑んでいた。
異常事態に、怯えていた黒田さんが一瞬でプロの顔を取り戻し、前へ飛び出そうとした。
「黒田、救急車の手配を。サクタロウはそのままライトで患部を照らせ。姉よ、少し下がっておれ」
パニックに陥る空間の中で、瑠璃さんの低く、氷のように冷静な声が響き渡った。
彼女は銀のルーペを素早く懐にしまい、直立していた姿勢から流れるような動作で屈み込むと、血まみれの男の横に片膝をついた。その高価な浴衣の裾が血で汚れることなど、微塵も気にする素振りはない。
「脈拍は微弱、出血量はすでに致死量に近い。救急隊が到着するまで、わしが直接圧迫止血を行う」
瑠璃さんはそう短く告げると、両手にはめた純白の軍手ごと、男の腹部の最も血が溢れ出ている傷口を、躊躇なく、そして正確な位置で強く圧迫した。男が短い悲鳴を上げるが、彼女の手の力は決して緩まない。真っ白だった軍手が、瞬く間に赤黒い血を吸って変色していく。
「安心せい。止血点は押さえた。すぐに応援が来る」
彼女の声には一切の感情の揺らぎがないが、その的確な行動と無駄のない処置は、目の前の命を繋ぎ止めるための最善の手だった。
僕は震える手でスマートフォンを必死に構え直し、血まみれの彼女の手元を照らし続けた。
彼女の目は、重傷を負った男の顔と、そして自分の手元を冷静に見つめている。しかし、その硝子細工のような紫の瞳の奥深くでは、先程発見したあの『場違いな高級指輪』のルーツと、目の前で起きているこの血生臭い惨劇とのリンクを、すでに恐るべき速度で計算し始めているようだった。




