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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
エピローグ
55/55

(2)

 伊織は二階に上がり、真穂を連れて再び菜月のところに戻ってきた。「この子が山本真穂です」と紹介すると、菜月は驚いたが、「初めまして」と挨拶しただけでそれ以上は何も言わなかった。


 海未がやって来たのはそれから15分ほど経ってからだった。まだ髪には寝ぐせがついていたが、菜月の姿を見ると「おはよう」と手を上げた。しかし、そこに真穂の姿を見つけると、ハッとしたように伊織の方を振り向いた。


「なっ、何でこの子もいるのよ。菜月にまで恥をさらす気? アンタ、どういうつもりなのよ」


「いや、そうじゃなくて……何か関係ありそうだったから」


「関係って、どういうことよ」


 海未は真穂の方をジロジロ見ながらソファに体を沈める。伊織はその前にインスタントコーヒーを入れたカップを差し出した。彼女はそれを一口飲んでため息をつく。


「ごめんね。朝早くから。昨日の話のことで、少しでも早く見てもらいたくて」


「ううん……。ええと、何の話だっけ」


「ウチの古文書の話よ」


 ああ、と海未は言いながらカップに口を付ける。覚えているのかいないのか、曖昧な反応のように見えた。きっと飲みすぎて覚えていないのだろう。すると、菜月はテーブルの上に一枚の紙を広げた。


「これがその古文書の中身を先生が現代語に訳したものなんだけどね」


「ふうん——」


 海未も体を乗り出す。伊織もその隣に座った真穂も、横からその中身を目で追って読み始めた。



******



 春の日差しが温かくなっています。


 武田家が滅亡してから、はや1年が過ぎました。武田を滅亡させた織田信長も既に亡く、この地は徳川の統治となりましたが、私達の暮らしも自然も、何も変わることはありません。国破れて山河ありとはこのことでしょう。


 武田家滅亡の折には、勝頼公だけではなく、たくさんの者たちが犠牲になりました。私も多少傷を負いましたが、幸いにも、この里にある湯治場がよく効くようで、すぐに跡形もなくなりました。夫の支えもあり、以前のように、いえ前よりももっとたくさんの仕事で、忙しい日々が続いています。


 娘はあの日からまるで人が変わったように、真面目に鍛錬するようになりました。あのような危険な戦いの場面に出くわしたことで、自らの役割を強く自覚したようです。隣にはかの者も常にいてくれます。彼らはきっと私達の跡を継ぎ、良き夫婦として、この里が為すべき事をしっかりとやってくれるでしょう。


 先日、梓姫様から半年ぶりにお手紙を頂戴しました。菊姫様のご配慮もあって、上杉家での暮らしにもすっかり慣れてきたということで、喜ばしい限りです。それに手紙の中で、嬉しい知らせを二つ伝えてくださいました。


 一つは、蓮姫様が無事に姫君をご出産されたということです。最後にできた勝頼様とのお子。そしてあの大変な逃亡の中でもお育ちになった姫君ですから、きっとお元気にお育ちになることでしょう。


 そしてもう一つは、梓姫様がご結婚されるということです。勝頼様の喪も明けて、ようやく実現することになったようです。しかも、相手はかねてから望まれていたかの者。この戦国の世の中で、私が自分の娘のように見守ってきた姫様が、本当に思いを寄せる者とご結婚できる。私にとって、これ以上嬉しいことはありません。天におられる姉上もさぞお喜びでしょう。


 武田家滅亡に際しては、私達を取り巻く状況は本当に厳しいものでした。私の大切な娘はもちろん、娘以上に大切にしておりました梓姫様には、命を落としてもおかしくない危ない場面がいくつもありました。しかしそれを避けることができたのは、かの者たちがいてくれたおかげでしょう。


 内藤伊織殿と山本真穂殿。


 彼らの行方は分かりませんが、きっと幸せに暮らしていることでしょう。私はこれからの人生の中で、いえ、我が子々孫々まで、彼らに感謝の気持ちを伝え続けたいと思います。


 本当にありがとう。伊織殿、真穂殿。



******



 海未が「伊織、真穂」と口に出した。


「……って、どういうこと?」


 海未は紙から顔を上げて、伊織の方を向いた。


「ハハ……ど、どういう事だろうね。同姓同名?」


「でも、二人ともよ。あなたは、山本真穂って言うんでしょう?」


 菜月が真穂の方を向いて言うと、海未も「ええっ」と叫んで彼女に顔を向けた。


「何それ? じゃあ、要するにあなたたち二人の同姓同名ってこと」


 海未は再び伊織を見て尋ねた。その視線から逃げるように、伊織はコップに注いだ水を一口飲む。すると、菜月はその紙に書かれた伊織と真穂という名前の部分を指差しながら言った。


「本当に不思議よね。これって、400年以上前の文書よ。だけど、そこに現代で生きる二人の名前がある。偶然にしては、出来すぎてる」


「まあ、確かに何だか怖くなるくらいよね」


「うん……不思議でしょう?」


 菜月は伊織と真穂を順番に見ながら続ける。


「これを書いたのは、たぶん私のご先祖様よ。武田家の滅亡に際して、自分達もここに書かれているお姫様たちにも、危ない場面がたくさんあった。ご先祖様とお姫様との関係はよく分からないけど、自分の子供のように大切にしていたようだし、よほど深い関係があったんでしょうね。そのお姫様をこの伊織と真穂という人が守ってくれた。……そうしたらたまたま、内藤伊織っていうのは海未の弟の名前と同じだって聞いたから、何だか他人に思えなくてね。それで、見てもらおうと思ってこうして持って来たの」


「そうですか……まあ、ねえ」


 返す言葉が思い浮かばず、伊織は隣にいた真穂の方に顔を向けた。すると彼女は菜月に向かって言った。


「あの……菜月さん」


「何?」


「ありがとうございます」


 真穂は突然頭を下げた。菜月は不思議そうな顔をしたが、次にハッとしたように真穂の顔を見つめた。


「どうしたの? ……泣いてるの?」


「ごめんなさい。私も、何だか、他人に思えなくて……」


 真穂の頬を涙が流れていく。驚いて、テーブルの上にあったティッシュペーパーを取って彼女に渡した。真穂は「ありがとう」と言ってそれを瞳に当ててから、しばらくして口を開いた。


「戦国時代って、本当に大変な時代だったんだと思います。殺し合ったり、騙し合ったり。そういう世界の中で、みんな必死に生きなければならなかった。でも、そういう中でも、自分だけじゃなく、誰かのことを思いやっている人達もいた」


「真穂——」


「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり……ですよね」


 真穂がそう言うと、菜月はハッとしたような顔つきになった。


「今の時代に、そんなの意味はないって言う人もいるかもしれない。でも、私たち人間はお互いを大切にするべきなんです。人を救うのは、結局、人でしかない。時代が変わっても、私たち人間が生き続ける限り」


 ふと海未の方を見ると、彼女も真穂の方を真面目な表情でじっと見つめていた。 


「だから……もし、私達と同じ名前のこの伊織と真穂という人が、この手紙に書かれている人達のために何か手助けができたんだとしたら、同じ名前の人間として、私は本当に嬉しいです」


 そう言って真穂は菜月の方に笑顔を向けた。菜月もじっと彼女の顔を見つめていたが、フウとため息をついて、伊織の方に顔を向けた。


「伊織くん」


「なっ、何ですか?」


「真穂ちゃんも」


 菜月はそう言って、伊織と真穂を交互に見た。


「同じ名前の人間であるあなた達にお願い。この手紙を書いた私のご先祖様の願いを、絶対に叶えてあげて」


 海未が「どういうこと?」と不思議そうに尋ねる。すると、菜月は笑顔になって答えた。


「今度は、あなた達が幸せになってね、ってこと」

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