【番外編】竜神スヴァローグはかく語りき
珍しいこともあるものだ、とそのときスヴァローグは思った。
昔馴染みの竜が世界を越えて語りかけてきたのだ。彼女と言葉を交わすのは、何百年ぶりのことだっただろうか。
盛大に喧嘩別れをした相手のことだ。向こうから声をかけてくるとは、思ってもみなかった。それでも、スヴァローグは鷹揚な竜だ。女からの呼びかけを無視するほど、器の小さな竜ではない。
ゆっくりと頭をもたげて、彼女の訴えに耳を傾けた。
「清き輝きよ、私の声が聞こえるだろうか? 昔のよしみで、あなたに一つ頼みたいことがあるのです」
ただしは、少しばかり目を眇めながら。
「というのも、助けてやってほしい人間がいるのです。なかなか清い心根の人間だから、きっとあなたも気に入るでしょう」
「異世界人を招くことについては、問題ない。それよりもお主、なぜそうも弱っている? その有様、まるで蛇のようではないか」
蛇とはなんだ、蛇とは! と彼女は肩を怒らせた。とはいえ、スヴァローグの言うとおり、彼女は今やすっかり蛇の有様。蛇の彼女には、目で判別できる肩はない。
「……仕方がないのです。最近は信仰というものが流行らないらしくて。社を管理する血筋が途絶えてしまったが最後荒れる一方で、そうなると訪れる者もまた減る。昨今では、SNS映えのしない神社では、駄目なのです……」
スヴァローグには、えすえぬえす映えというものがよくわからない。が、そこは黙っておいた。
それから、彼女の言うところの人間を遠目からしげしげと眺めた。
心根が清い。確かに、言われてみればそのようではあった。だが、あまりに凡庸。一つ世界を統べる神たる彼が、特別に目をかけてやるほどの輝きは、ない。
「取るに足りない小さき者のように見えるが……」
「む、そのようなことはありません。あれは磨けば光る。言わば原石だ」
「ふむ? そなた、相手が若い男だから贔屓目に見ているのではないか?」
「失礼な! そのようなことはありません! 年下の男にうつつを抜かしてヒモにする女かのように言うのはやめてください!」
そこまでは、言っていない。
そのようにきゃんきゃん喚くほどのことではないだろう。
スヴァローグは、すでに面倒くさくなってきていた。かつて大喧嘩して別れた相手なのだ、やはり根本から相性がよくない。顔を突き合わせれば、いずれ喧嘩に発展する運命なのだろう。
「いい、いい。とにかくそなたの言いたいことはわかった。我の世界でその小さき者を引き取る。それでいいのだろう、それで」
「いきなり危ない場所に放り出すのはやめてあげてくださいね! できれば、異世界人に寛容な文化のあるところがいい。それから、その者がすぐに死んだりしないよう、多少の加護は授けてやってください。あ、でも過剰な加護は駄目です。それが原因で争いに巻き込まれてしまうから。まぁ、昨今ではそうした設定が流行のようですが、この者はそうしたことを好まないようなので……。あくまでも目立たぬように、さりげない加護を授けてやってくださいね! くれぐれも、よくしてやってください。なにせ彼は久方ぶりの祈願者! 彼の祈願がなければ、私はあのまま神格を失っていてもおかしくなかったのですから。いいですか、くれぐれも! ですよ」
注文が、多い。その上、喧しい。
スヴァローグの大きな尾が感情の起伏に釣られ、ゆらゆら揺れ始める。だいたい、この者はいつも話が長いのだ。そして長いわりに要点を得ない。話を聞いているだけで苛々してくる。昔からそうだった。
「ええい、わかった。お主は本当に小うるさくてたまらん。適当な加護をつけて、平和な国に落としてやればいいのだろう!」
……だから、その人間を転移させる際に引っ付いていた、更に取るに足りない存在がいることに気がつかなかった。そういえばなにか余計なものがくっついていたな、と気づいたときには、すべての事が済んでしまっていた。
人間の願いを根本から勘違いしていたのもまた事実だ。
彼が、その「余計なもの」と共にいる現状を憂いていたとは……、あの竜は注文が多かったわりには肝心のところを一つも言っていなかった。
もう少し冷静に話を聞いてやればよかった。少なくとも、人づてならぬ竜づてで済ませてはいけなかったのだ。
人間は、異世界へ転移することなど最初から望んでいなかったというのに。
そのように後悔していたこともあり、スヴァローグは少し手間をかけて人間との間に界を一つ造った。現世よりも時という物差しを長く設定した、特殊な界だ。その界でどれだけ長時間話し込んでも、人間が現世に戻れば瞬き一つの時も経っていない。そういう界だ。
竜と人間は、そうしてしばしば話をするようになった。
「すまなかった。我があの折、もう少し冷静に話をしておれば……」
「別に。済んだことですし、俺はもう向こうに帰れないんでしょう? 諦めてますよ」
まっ平らな口ぶりで、人間──礼人は言う。
「帰せぬことはない。だが、短期間で世界間転移を繰り返すと、お主の肉体と精神に負担がかかりすぎる。時間が必要なのだ」
「……それを帰れない、ってヒトは言うんです」
礼人の言うとおり、彼ら竜と人間とでは時間の感覚が違う。竜にとっての短期間を、人間である礼人は短期間とは感じないだろう。
「……すまぬ」
スヴァローグががっくりと項垂れると、礼人は小さなため息をついた。
「そんなことより神様、お願いがあるんです。俺に修行をつけてもらえませんか?」
「ふむ?」
別に、修行をつけてやるのはいい。だが、何故にそのようなことを言い出したのか、少し気にはなった。
「……力が必要です。この世界で、俺が自分の尊厳を守るためには」
そのときの礼人の瞳に輝くものは、瞋恚ではあった。言うなれば、己を不遇たらしめる者への憎しみと憤りだ。
「……ふむ」
力を与えていいものか。それがこの者をいずれ滅ぼすことになるのではないか、とスヴァローグは懸念した。懸念しつつも、あの馴染みの竜がかつて「磨けば光る原石」と称したことに納得がいく心地だった。
例え始まりが負の感情によるものだったとしても、それをここまで純粋な炎として育てられる者は、早々いない。
「いいだろう。だが、我とそなたでは大きさが合わぬ。ヒト型の分身を創る故、少し待て」
復讐のために牙を研ぐ──それもまた、原石を輝かせる一つの材料にはなるだろう。この礼人という小さき者がどのような宝石に仕上がるのか、スヴァローグはにわかに興味が湧いてきた。
であるならば、とことん鍛え上げてやろう。
「後になって、よせばよかったとは言うてくれるなよ」
待たせるほどもなくできあがったヒト型の口でそう言うと、礼人はますます瞋恚の炎をたぎらせた。
後から聞いたところによると、「その髪と目の色、あいつと同じでムカつく」ということらしかった。
そのときから、もうずいぶん経つ。
礼人の背も伸びた。初めて会ったころは、少年らしいところもまだ残っていたものだったが、今となっては立派な青年と言っていい。
「よろしくお願いします」
スヴァローグから少し距離をとったところで相対し、礼人は頭を下げた。その腰からは彼の愛刀がぶら下がっている。
「うむ。して今日はどうする?」
「……『とて強』で」
ヒト型をとったスヴァローグは、器用に片方の眉だけを上げた。
「とて強」というのは、「とても強い」の略だ。現世のごく一般的な人間の兵力を「普通」とした際の、強さの基準だ。
当初、スヴァローグと礼人との間で強さの認識が大幅に食い違っていた。そのことに気づかず訓練を始めたところ、生死に関わる事故が起こりそうになり、慌てて取り決めたという経緯がある。
「ほお。いいのか、『とて強』で。後悔しないだろうな?」
「しない。でも、結界は頑丈にしておいて欲しい。万一があって庭が荒れたら、カナハが悲しむから」
確かに、礼人の嫁が手塩をかけて育ててきた庭は、いまや見事な出来栄えだった。四季折々の花が咲く。そのどれもが嫌味でなく、あるがままに自然だ。派手な花ばかりでなく、かといって特定の季節で物寂しくなることもない。
この界隈ではちょっとした名物となっていて、他の浮島から見物客が訪れて茶会を開くほどだった。
「よかろう。ならば現世最強くらすの『とて強』もーど、しかと味わうがよい!」
封じていた真なる力を「とて強」に相応しい段階にまで引き上げ、開放する。途端に礼人の顔が引きつったが、望んだのは彼だ。
スヴァローグはにやりと口端をつり上げて笑った。
「今更やめるとはぬかすまい? 男に二言はないはずだな」
「だからッ、その顔は腹が立つんだって!! 言い方まで似てるし、わざとやってるだろ!」
もちろん、なぜ腹が立つのかの理由を聞いてからは、わざとだ。
礼人の強さの本質は、やはり虐げられる者の怒りなのだ。憤ってこそ、この男はより輝いて強くなる。であるならば、師匠であるスヴァローグがするべきことは一つ。怒りを思い出させ、この宝石をより美しく磨き上げることだった。
一合目は無事に凌いだ。二合目は、寸前で避けた。三合目、ついに血が流れた。
そうしてしばらくの後、
「とて強……半端ない……」
案の定、使い古しの雑巾のごとくくたくたになった礼人は、芝生の上に仰向けになったままそのように呟いた。
「まだまだ鍛錬が足りん」
だから後悔しないか、とあらかじめ尋ねておいたのに……。
言いながら、ふんと鳴らした鼻が草花以外の香りをとらえた。
茶と菓子の香りだ。
礼人の嫁が、昼下がりから菓子を焼いていた。おそらくそれを運んできてくれたのだろう。
「喜べ、アヤト。カナハがこちらへ来るぞ」
「カナハが? スヴァラ、早くもとに戻って! カナハにあいつ似の姿を見せたくない!」
はいはい、と呆れながら注文どおりの幼生体へ戻る。
まったく、一途なことだ。嫁のほうは、礼人ほどあのころのことを気にしていないだろうに。嫁への配慮は万全を期す、彼らしいところでもあるが……いつまで経ってもベタ惚れで、はたで見ていて恥ずかしくなるほどだ。
「二人とも、そろそろ休憩になさったら? おやつを持ってきたの。三人で食べましょう」
木陰から礼人の嫁がひょっこり顔を出した。
竜神の基準で言っても、ちょっと見ないような美しい娘だ。だが、特筆すべきは外見の美しさだけではない。彼女の美しさの本質は、むしろ内面のほうにある。
相手がこの嫁では、骨抜きになるのもわからないではなかった。
起き上がるのも難しそうな礼人に気がついた嫁が、膝枕などしながら汗を拭ってやっている。それが落ち着けば、焼き菓子を手ずから食べさせてやりそうな雰囲気だ。
視界の中に収めていたくないような、胸焼けのしそうな甘ったるい光景だった。
やれやれ。
視線をそらして見上げた空は、穏やかな晴れ模様。時折そよぐ風もまた心地よく、いかにも眠気を誘う。
「……お邪魔虫はそろそろ退散するべきかな」
竜神スヴァローグはあくび混じりにそのように呟くと、とぐろを巻いてそっと眼を閉じた。
今度こそ終わり。ありがとうございました!