西方未踏領域
ゴブリンの王不在の王の座す都の行政と軍事を取り仕切るのは、プエル・シンフォルアである。黒き太陽の王国全軍の軍師であると同時に、王の補佐として内治にも参与する。
彼女の考えでは、既に大陸を制覇する為の大局は決している。大陸の半ばを支配する強大な国家が存在し、かつそれを果断で勇猛な王が治め、更にはそれを支えているのは忠誠心篤く、補充の容易な兵士達である。大過なく進めば、熟れた果実がその身を落とすように、自然と大陸制覇という名の果実はアルロデナの手元に転がり込むだろう。
戦術が如何に効率良く敵を殺すのかを追求したものであるとするなら、戦略とは戦場に到着する前にどれだけ自軍に優位な状況を整えられるかというものだ。そして、戦略という面で言えばアルロデナは他の国々より圧倒的に有利に立っている。
彼女は戦術面では大陸屈指であるが、戦略面では同時代に二人の先駆者を持つことになった。赤の王の軍師カーリオン・クイン・カークスとシュシュヌ教国の戦姫ブランシェ・リリノイエである。
広大な南方を舞台とした争覇戦でカーリオンの見せた広い視野から齎される軍略は、戦う前から既に勝利を掴み取るものであった。草原の覇者たるシュシュヌの戦姫が見せた虚実を織り交ぜた軍略は相手の裏をかき、戦場での優位を決定的にするものであった。何れも天才の成せる業である。余人に真似が出来るような類のものではない。
故に彼らの才能に自身が劣ると意識して、プエルは堅実な路線を取る。
将軍達が十全に力を発揮できるように補給を絶やさず、常に相手よりも豊富な戦力で戦えるように前線に兵力を送り込む。これがプエルの考える堅実な戦略である。
つまりは国力の増強と戦力の充実。
人間が中心となった経済の振興や妖精族が中心となった長期に渡る都市建設計画などは、その最たる例である。また、増える人口に対応する為の農業施策への振興も忘れてはいけない。アルロデナの主戦力たるゴブリンの数は、人間に迫る勢いで増加している。
過酷な戦争の連続で数が減っているにも関わらずである。肉食をこそ至上と考える彼らであるが、パンなども食えないことはないのは剣王ギ・ゴー・アマツキやゴブリンの王が実証済みである。
東部において未だに主力の戦いは続いているが、大陸中央から西部については平穏を取り戻しつつある。そうなれば、必然的に人間の人口も増加の一途を辿るだろう。
文官の代表格たる西都総督ヨーシュ・ファガルミアやエルレーン王国宰相エルバータ・ノイエンなどを中心とした改革の中で、税収官吏の帳簿には戸籍の記載が義務付けられている。
その統計を確認するまでもなく繁栄を続ける西都を一目見れば、人口が急速な曲線を描きながら増加しているのは明らかであった。
人が増えて経済が回れば税収が増え、国力は増強される。今まで手の届かなかった南方蛮夷の地や南方未踏領域へと手を伸ばし、開発を進めることも可能になってくる。
新たな鉱山の開発や魔窟の発見・攻略など、アルロデナを繁栄させることが即ち国力の充実となるのだ。内治の面でヨーシュら文官の不足が漸く落ち着いてきた頃合いである。
また、プエルは軍事面での人材の育成を掲げていた。
ゴブリンの4将軍とそれに率いられる者達の、更なる強化である。
4つの軍はそれぞれの将軍の特徴と適正を考慮して、王の下で最大限の力を発揮出来るように特色を持たせた軍である。機動力であったり、攻撃力であったり、消耗を恐れない蛮勇であったり、諸種族の協調であったりだ。勿論、東征に加わっていない弓と矢の軍には例外的に他の役割が与えられてはいるが。
だが、彼女は彼らにそれ以上のものを求めている。一つは単独で小国を落とすことが出来る程の柔軟性。もう一つは統治までも計算に入れた広い視野である。現状でそういった柔軟性を保持しているのはギ・グー・ベルベナの斧と剣の軍であり、広い視野を持って戦を進めているのはギ・ガー・ラークスの虎獣と槍の軍である。
彼らに一つの方面を任せ、小国を飲み込むだけの将器を備えさせることがプエルの当面の目標となっている。少なくともその為の権限を与え、失敗した場合の補填を考えられる程度には、アルロデナの国力は他の国々に比して隔絶したものがある。
各方面の軍の動向を確認した後、彼女は一息付いて紅茶を啜り、柳眉を顰めた。
「……冷めていますね」
元冒険者出身の彼女からすれば趣向品の部類に入る紅茶である。大貴族であった戦姫も紅茶を好んでいたそうだが、ブランシェ・リリノイエが最高級の茶葉を求めたのに対して、プエルはそれ程拘りは無かった。例え冷めていても気にする必要はないと、そのまま飲み干す。
再び視線を書面に落とせば、彼女の目に飛び込んでくるのは東方諸国の情勢だった。
「聖王国アルサスに小国支援の動き有り、ですか」
中心となって動いている者の氏素性、或いはその勢力の動向などが書き加えられた文章は、彼女が指揮を執る自由への飛翔と傘下の商人達から齎される情報をソフィアが統合したものだった。
400年以上の王政を維持している“老大国”であるとゴブリンの王に説明したのを思い出し、僅かに苦い思いをする。シュシュヌ教国のように周辺に覇権を唱える訳でもなく、経済の中心は東の海洋国家ヤーマに譲り、軍事力は領土を維持する為の最小限の常備兵しか居ない。
更には安定した外交関係に胡座をかいていた事が災いして内紛が絶えないという情報だったが、意外にも早く動いてきていた。
「……改革派のティムル派ですか」
国王に小国支援を訴え、働きかけている勢力は若手の貴族中心の派閥である。その背後には、“教会”の影も見え隠れしている。国生みの祖神アティブへの信仰は人間発祥の地とされる東方を中心に強固な根を張っており、それを纏めるのが教会──東方最大の宗教団体である。
神話を広めることにより影響力を保っている教会の存在は、アルサスが老大国と呼ばれる一因でもあった。
「今時神権政治など、アルサンザークでもないでしょうに」
現在、聖王国アルサスは教会による宗教的な権威を王が兼ね備えているからこそ正当性を保持出来ている面がある。人間こそ至上の存在であると吹聴するその教義が、妖精族であるプエルに心地良い筈がない。
「……何れ処置は必要ですか」
支援をしている派閥がいるということは、それに反対する派閥も存在するということだ。先ずは、それを掴むことから始めなければならない。ソフィアに出す指示を確認すると、隣国ヤーマの情勢にも目を通す。
大陸最東部に建国され、離れた海洋諸国との交易で栄えるヤーマは、大陸と群諸島を結ぶことで富を得る交易の国である。そればかりではなく、海岸沿いにある小国と海上貿易を通じて利害関係を持つ大国でもある。
ただし、その力の源泉は大陸の側ではなく海洋貿易に因る。
当然ながら、その貿易網は聖王国アルサスにも及んでいる訳だ。
「戦になる前に敵を疲弊させることが出来れば、これに勝る策はありませんね」
既にヨーシュ経由で傘下の商会にヤーマでの販売量の拡大を指示させている。冷徹なる軍師の視線は小国家群へと向いていた。小国家群は、未だ西部をアルロデナに侵略されたに過ぎないが、その影響は着実に現れてきている。
まるで運命の女神がその糸を手繰るように、プエルは残る大陸諸国に謀略の糸を巡らせようとしていた。
◆◆◇
人間が足を踏み入れた領域の最北端である北稜山脈。火山帯が連なるその地を抜けると、逆に冷涼たる気候が支配する大地となる。溶岩石の間に根を張った木々は魔素の影響もあって岩を取り込みながら深緑の梢を空に伸ばし、火山灰を堆積させた大地には背の低い草が生える。
人の手が入っていないということは、道すら無いということだ。
ゴブリン達は獣が通った僅かな痕跡を探り当て、一路進路を北に取る。地図の上では北に向かって進めば海岸線へ到達出来る筈である。それを目印に西方未踏領域を回ろうというのが大まかな方針であった。
ギ・ゴー・アマツキ配下のゴブリンが邪魔な木々を交代で切り分け、雪鬼の一族もそれを助ける。ギ・ゴーから命じられた彼らは、これも修行の一つなのだろうと張り切って立ち塞がる木々を薙ぎ倒していった。
まるで妖精族の森の樹海のように捻れた木々が絡まり合い、蔦がそれを補強している。道とも言えない獣道だが、帰路の事を考えれば拡大しておくに越したことはない。何せ、一行は森で生きてきたゴブリンだけではなく、雪山出身の蛮族ユグシバや人間のレシアなども混じっているのだ。
緊急の事態が起こり得ると想定して備えておくのは当然である。
以前、敵対者である聖騎士ゴーウェン・ラニードが森を開こうとした時のように、土魔法の遣い手を多数率いれば話は違うのだろうが、今回同行している人員の中で土魔法が使えそうなのは土の妖精族ぐらいであり、彼らは数名の戦士のみだった。
祭祀を率いるギ・ザー・ザークエンドなども風を扱うことには長けているが、土の魔法は扱いかねている。自身が有する属性と異なる魔法を操るのは非常に難しい技術であるし、常よりも膨大な魔素を必要とする。
火山地帯から北側に広がる未開の森を3日程歩くと、その北側には開けた大地と広がる湖が見えた。彼らがそれを湖と理解出来たのは、遠く向こう岸が見えたからだ。
「……随分と広い湖ですね」
「それに不自然なまでに開けている。まるで、この一帯を植物が避けているようだな」
目を丸くするレシアに、ゴブリンの王も疑問を口にする。
草一本すら生えていない不毛の大地の中央に、湖面が顔を覗かせているのだ。訝しげに眉を顰めるゴブリンの王と、鼻をひく付かせて首を傾げるレシア。
「何だか妙な香りがしますね」
「そうか?」
ゴブリンの王の嗅覚は殆ど機能していない。レシアの言う香りも、王には感じられないものだった。乗っていた馬から降りると、彼女は湖に近付く。何をするのかと思えば、湖面の水を掬って舐めていた。
「……しょっぱい」
「ほう? 成程」
レシアの感想に頷く王。目を丸くして驚いたレシアは、妙に納得したような顔になって頷いた。
「分かりました! これがう──」
「塩湖か」
「──みぃ?」
説明を求めるような視線がゴブリンの王に集中するが、王は平然と周囲を見渡して言った。
「この辺りは遥か昔、海だったのだろう。だが、何らかの理由で海と隔絶されて湖となった。故に湖のような形をしているが、塩水を湛えているのだろう」
王が指差す先には白い塊が漂着している。恐らく塩分が高過ぎるが故に結晶化した塩だろう。人間の生活に塩は不可欠である以上、この塩湖は宝の山と言っても過言ではない。
「海とは、もっと広大で終わりがないものだ」
言葉を締め括った王を全員が注視していたが、ギ・ザー・ザークエンドが王の博識を褒め称えると、他の者達も納得して頷いた。
「確かに、海というのは広大なものだと聞いたことがあるな」
「流石は王だ」
王は、賞賛の言葉を受けても平然として道を進むことを命じる。確かに塩湖の存在は魅力的だが、今は日の高い内に進むことの方が先決だった。嵩張る荷物は戻る時に取って行けばいい。
「……うん? どうしたレシア?」
全員が王の指示に従って前進を再開する中、“推”の後ろ足を蹴っているレシアに王は首を傾げた。蹴られている“推”は蚊に纏わり付かれているような迷惑そうな顔をしていたが、かと言って主の想い人に牙を突き立てる訳にもいかず、そっぽを向くに留めていた。
「別にっ! なんでもっ! ありませんっ!」
か弱い聖女の攻撃では、推に傷を与えることなど出来る筈もない。彼女は顔を羞恥に染めたまま、諦めて馬に乗った。
「……何だ? もしや、俺が言った答えを自分が言いたかったのか?」
「王様っ、人には気が付いていてもっ、言ってはいけないことがあるんですっ!」
羞恥に赤く染まったレシアの顔を見ていた王の口元に、自然に笑みが宿る。
「成程な。一つ勉強になった」
「ちっとも思っていらっしゃらないですよね!?」
馬を寄せて、王の腕を叩くレシア。
「さてな。それよりも、他の者達に遅れずに行くぞ」
促す王に連れられて、頬をふくらませたままのレシアは駒を並べて王の隣を進む。不思議と魔獣すら出ない旅路は、平穏そのものだった。
◆◆◇
プエルの張り巡らせた謀略の糸は、その精度を以前より増して大陸東の国々を絡め取っていった。図面を引いたのはプエルであったが、それを実行に移す段階にまで調整したのは自由への飛翔の謀略を担当するソフィアである。
聖王国の改革派と対を成す勢力。彼らの言葉を借りれば元老院派という。
彼らの勢力争いに少し燃料を加えてやることで対立を激化させる。同時に商人達による商取引を加速。改革派の1人を暗殺することにより、若い彼らは先鋭化。雪道を転がり堕ちる雪球のような勢いで彼らの争いは加速し、加熱していく。
それを横目で見ながら、聖王国に入り込んでいる他の諜報員達に必要な情報を流してやる。あくまで噂という程度で構わない。先鋭化した改革勢力の窮状と、元老院派の強大さを彼らの耳に入るように噂として流してやる。
まるで玉突き事故のように、彼らの何もかもがソフィアの謀略に巻き込まれていく。
小国から派遣された大使。或いは諜報員達は何としてでも改革派に勝利を収めてもらわねばならない。そうでなければ、彼らの国は悪辣な魔物に蹂躙されてしまうのだ。
改革派に近付く者達がいる一方で、元老院派がそれを察知出来ない程鈍い筈もない。国の中心に座るということは、それだけ国内の情報が入ってくるということだ。
彼らにしてみれば、小国から派遣されてきた者達が改革派に擦り寄って自分達の牙城を崩そうとしているように見える。当然、そのような国々への支援などあってはならない。
「相変わらず、やることがえぐいねぇ」
ケケケ、と笑い声を上げるヴィネ・アーシュレイがソフィアの頭を撫でる。
「以前から言おうと思ってたんですが、何で、付いて来ているんですか……!?」
「ん~? そりゃアンタ、こっちに居た方が面白そうだから、だよォ?」
狂刃のヴィネと呼ばれるレヴェア・スーの暗黒街の主は、毒蛇の笑みを浮かべてソフィアの耳元で囁く。ソフィアは温度を感じさせない氷の視線でヴィネを見返すと、鼻を鳴らした。
「レヴェア・スーは宜しいんですか?」
「まァ、大丈夫だろう? シュレイとルーに、亜人共もいるしなァ」
「あの二人のこと、随分信頼されているんですね」
「アンタ程、自信過剰じゃないがねぇ。ンで、こんな真夜中に誰と会うんだい?」
「……別に、自信過剰な訳じゃないです」
「だと良いがね? 手負いの獣ってやつは、何をするか分からねえ。だから怖いんだよ」
「貴方にも怖いものがあるんですね」
高らかに笑うと、ヴィネはソフィアの頭を撫でる。乱暴に撫でてくるヴィネの手を振り払うと、ソフィアは子供扱いされていることに不機嫌になりながらも、黙って歩いた。
暫く歩いて人通りの少ない倉庫街に出ると、目的の場所へ辿り着く。その頃にはソフィアとヴィネは頭からフードを被り、一見して正体が分からないような状態になっていた。
彼女達2人が辿り着いた場所には、既に2人の人物が待っていた。1人は護衛だろうか、腰に佩いた剣は使い込まれたものである。
「……お前が、手紙の」
口を開いたのは、護衛に守られるようにして立っていた初老の男。
頷くだけに留めるソフィアだったが、懐から羊皮紙を取り出すと地面に置く。風で飛ばないように羊皮紙の上に石を乗せると、10歩下がってそこで初めて声を出す。
「必要なことはそこに書いてある」
少女の声音に驚いた初老の男だったが、護衛と共にゆっくりと足を進めるとソフィアの置いた羊皮紙を受け取り、目を見開く。
「……本気で言っているのか。この内容は」
「代價をもらおうか」
「だが──」
「元聖騎士ガランド・リフェニン」
言い訳をしようとした初老の男に、ソフィアの声が届く。初老の男は息を止められたかのように青い顔をして黙り込んだ。
「貴様、何者なのだ……」
初老の男の問いに、ソフィアは口元に人差し指を立てて口元に笑みを刻む。怖気が奔るのを無視して、初老の男は懐から金貨の詰まった袋を投げ渡す。
それを受け取って中身を確かめ、ソフィアは頷いて踵を返そうとしたが、フードを少しだけ上げて視線を走らせるヴィネの様子に足を止めた。
青い顔をした初老の男に、それでも決意の表情で護衛に視線で促す。
「……この事は、他言無用だ」
「信頼してほしいものだな」
初老の男の言葉を受けて、護衛が前に出る。明確な敵意を感じさせて腰の剣に手をかける。
「済まぬ。これも我が国の為……!」
初老の男が踵を返して歩き去るのと、倉庫の影から黒衣で身を包んだ男達が出てくるのは同時だった。その数6人。
「悪いな、嬢ちゃん。……これも仕事だ」
そう言った護衛の男を、冷め切った視線でソフィアは見つめる。
「良いねぇ。アタシは好きだぜ? そういうの」
被ったフードを脱ぎ捨てたヴィネが笑う。獲物2人が女と見た黒衣の男の1人がヴィネに迫るが、ヴィネは口元に毒蛇の笑みを刻んだまま細い曲刀を抜いた。
「特に、下衆なところがよォ!」
踏み出す一歩に対して三閃。銀色の閃光となって奔る彼女の刃は、襲いかかってきた男の身体を四つに断ち切っていた。尋常ならざる太刀筋と、人を斬るのに全く躊躇のないヴィネの雰囲気が、護衛達に僅かな動揺を生む。
既にして決着は付いていた。その夜、倉庫街で首無い屍が6つ出来上がり、それが見つかったのは翌朝だった。
だが、聖王国アルサスで起きた殺人事件は、その後の大事件によって塗り潰される。
聖王国アルサスの暦で461年、ゴブリン達の暦で王暦4年の初夏。その事件は起きた。
改革派による、聖王国革命未遂事件である。
4月26日誤字脱字修正




