下克上
小さな獲物を狙って少しずつ飢えを満たす。
そうして俺はひとつの夜を越えた。
むさぼり食らった獲物の数は、ウサギが2匹に、蛙が1匹、トカゲを一匹だ。
もし人間だったら、吐き気を催すであろう食事も、一晩たって眠れば、俺は食事と割り切れた。
化け物。
その姿を見ても、最初ほど俺は動揺をしなくなっていた。
狩りをしてわかったことは、この体は人間に比べてだいぶ性能が良いらしいということだ。
夜目は利くし、獲物を引き裂く爪も、噛み砕く牙も、人の比ではない。
おまけに生水を飲んでも腹を壊すわけでもない。
人間が進化の過程で捨ててきたもんを、しっかりと持っている。
自然と生きていくだけなら、なんら問題はないどころか、こっちの方が便利ですらあった。
木陰にごろりと寝転んで、思考する。
さて、どうするかと。
もちろん、こんなところで化け物に成り果てるなどごめんこうむる。
昔読んだ、虎になった男は狂って最終的に身も心も虎になってしまった。
だが、俺はそうはなりたくない。
ここが異世界だろうと、俺が人間でなかろうと、それならば戻る術を探さねばならない。
ではどうする?
夜明け前に捕まえたウサギを、弄びながら俺は考える。
そういえば、俺に命令したヤツは言葉をしゃべっていなかったか?
ふと思い出すのは、俺をここに捨てていったゴブリンのことだ。
餌をとれと。
言葉がある。
意思疎通ができるってことは、俺以外にもゴブリンどもがいるということではないか?
いきなり帰る術はわからなくても、なんらかのコミュニティがあれば情報は得られるはずだ。
俺は、ウサギを持ってあの穴倉へ向かって歩き出した。
歩き出してすぐ。ぞくりと、背筋をなでる冷たい感覚に、俺は立ち止まって草むらに飛び込んだ。
怖気が全身に伝播したように、手足の振るえが止まらない。
耳を澄ませば、シューシューと耳障りな音とともに、人間二人分ぐらいはあろうかという蜘蛛が、まるで森の主でもあるかのように、歩いていた。
凍ったように俺の心は静かだったが、手足の振るえだけは一向に治まる気配がない。
あれはなんだ、という理性の疑問と本能に働きかける根源的な恐怖。
捕食者と被捕食者。食う側と食われる側の力関係に、俺の化け物の体だけが震えていた。
真っ赤な6つの無機質な目玉が、ぐるぐると周囲を見渡し、長い手足は人の背丈ほどもあろう。それが6本もついている。
「キシャー!」
突如動きを止めたと思ったら、その化け物蜘蛛は、俺とは反対側の草むらに飛び込む。
「グォゥオオ!」
そしてソレに驚いたのか、慌てて草むらから飛び出してきたのは、醜悪な豚の頭を持った二本足の生き物。オークというヤツなんだろう。
草むらに飛び込んだ蜘蛛は、オークを追って草むらから飛び出すと、長い手足を器用に動かして目にも留まらぬ速さで、オークを追い詰めていく。
逃げるオークを後ろから2足で押さえつけると、その頭に向かってかぶりつき……後はお食事タイムとなったわけだ。
化け物頂上決戦のような目の前の光景に、俺の化け物の体は震えっぱなしだった。
だが理性を総動員して、物音を立てずにその場から逃げ出すと、穴倉に向かって駆け出していた。
弱肉強食。
人間以外を取り巻いていたはずの、自然の不条理が俺の目の前で牙をむいていた。
△▼△
「ギギ!」
未だ言葉も発することができない俺は、穴倉の中に向かって声をかけてみる。
戻ったはいいが、暗く狭い穴倉の中に入るのは抵抗があった。
しかしいつなんどき、あのでかい蜘蛛が追いかけてくるかも知れない。
半ば尻に火がついたような俺は、穴倉に向かって声をかけてみたのだ。
そうして待つこと少し、穴倉の中から、例のヤツがぬっと現れた。
「エサ」
相変わらずの醜悪な顔に、憎悪しかないような視線。だが、驚いたことに俺とソイツの背丈は縮まっていた。
一晩を越えただけで、俺はかなり身長が伸びているらしい。
差し出したウサギを一瞥すると、何も言わずに穴倉の中に消える。追ったものか考えあぐねているところへ、ソイツが戻ってきて、厳しい視線のまま、俺を一喝した。
「コイ! テキ、クル!」
腕をとられて強引に穴倉の中へ引っ張り込まれる。
そのあまりにも強い力に悲鳴が漏れるが、ソイツはまったく考慮などするつもりはないらしい。
そして一室に投げ入れられると、ソイツはさっさと部屋の中にあった棍棒を手にする。
「モテ」
ぐるりと周囲を見渡せばそれは、拙いながらも武器庫だと思われた。
選べってことだよな?
恐るおそる武器を見渡すが、どれもひどかった。
それは俺だってこんな化け物どものところに日本刀や、槍があるなんて思っちゃいないが。
それにしたってもうちょっと武器らしいものはないのだろうか。
ファンタジー的にいうなら、精々長剣的なものを期待して目を凝らしたが、あいにくと目に映るのは、手ごろな長さの棒や、尖った杭、あるいは農作業で使うフォークだった。
まぁ、ないよりはマシだよな。
自分を納得させ、棒を手に取る。
「コイ」
そういうとソイツはさっさと部屋を出て行ってしまう。
俺は半ば思考がとまったまま、そいつの後に続いた。
△▼△
「イソゲ」
容赦なく飛んでくるソイツの棍棒をかわしながら、俺は追いたてられていた。武器を選ばせられたと思ったら、次は地上に追いやられ、走らされる。そうしてやたらと急かされて到着したのは、廃村とも呼べる村落だった。
それが廃村か微妙だったのは、蠢く影があったから。
なんだよこれは。
集まっているのは、結構な数の緑の化け物ども。そうしてその中央には、赤い肌を持ったボス的な存在がいる。
「クル!」
俺の腕を手をとって、そのソイツは俺をその赤いボスの所へ連れて行く。目の前までくれば、その威容に思わず目を見張った。
ゴブリンの、しかも小さい俺から見たその姿は、同じ種族なのかと疑いたくなるようなものだった。見上げるばかりの身長に、太い腕、眼光は鋭く、そして何より醜悪な顔つき。身に着けている物は、錆びの浮いた鎧と刃こぼれした剣。
「オウ、キタ。コレ、チビ」
断片的な言葉から、俺はこいつ等の関係にあたりをつける。
赤いゴブリンが王様で、コイツらはその下僕なのだろう。んで、俺はこいつのさらに手下として、王様に目通りされているというわけだ。
そうしておもむろに、赤いゴブリンが俺を睨む。
「お前、サイゴ。遅い奴、罰ヲアタエル」
つまり、俺たちが最後に到着したから罰をくれてやるって?
ふざけやがって……何様だ。
そう思って、周囲を見ればいつの間にか、赤い奴の側にいたゴブリンが、俺の体を押さえつけていた。
「俺、ヤサシイ。お前コロサナイ」
見上げる俺と赤いゴブリンの目があった。
その時の、化け物の目を、俺は一生忘れないだろうと思った。
蔑みと、優越感と、侮蔑に濁った者の目だ。親や教師やクソッタレの兄弟が、俺を見下ろす眼だ。
体の背を打つ衝撃に、口から悲鳴がもれていた。
「グギギ!」
見れば手にした棍棒で赤い奴が俺を殴っていた。
他を虐げる事がまるで、快楽であるかのように、二度三度赤いゴブリンは俺を殴りつけ、頭を踏みつけて宣言する。
「俺、王サマ。逆らう、ナイ」
殺してやろう。
ここがどこかは知らねえが、必ずコイツは殺してやる!
この悪夢のような世界で、初めて俺は懐かしい感情を取り戻していた。飢餓感だけに、支配されていた先ほどとは、雲泥の差がある。
人間らしいといってもいい。
弱肉強食が支配するこの世界では、あるいはそんな感情など生まれるはずがないかもしれない。強者は常に強く、弱者は常に弱い。
「返事、スル」
滴るほどの憎悪をこめて、俺は答えた。
「グァイ」
逆らいません、と。
自身の体から流れ出る青い血。
それに誓って俺は、コイツを殺そうと思った。
△▼△
ゴブリンの親玉に頭を踏みつけられながら、俺が呪詛の誓いを新たにしていると、悲鳴に近い声が遠くで聞こえた。
「敵、ダ!」
突如踏みつけていた俺を足蹴にして、ゴブリンの親玉が声を荒げる。
地面に投げ捨てられたごみ同然の姿のまま、俺はその光景をぼんやりと眺めた。
多くのゴブリン共を周囲にはべらせながら、赤いゴブリンが視線を向けるのは、3匹の鬼獣豚だった。
それが、何十匹はいるだろうゴブリン達をなぎ倒しつつ赤いゴブリンに迫っている。
数で圧倒しようというのだろうゴブリン達に対して、鬼獣豚は2倍以上もある背丈をいかして棍棒でもってゴブリンをなぎ払う。
勝負にならねえや。
それが正直な感想だった。体のつくりからして違う相手に、まともにぶつかって勝てるはずがない。
一振りで頭を砕かれ、脳漿を垂れ流すゴブリンを尻目に、次々とオークに襲い掛かるゴブリン達。だがその刃は分厚いオークの脂肪に阻まれて、致命傷を与えることができずにいるようだった。
そんな中赤いゴブリンは、死にいく手下を助けに行くでもなく、眺めていた。
オークを囲む緑の壁を眺めながら、周囲にいた取り巻き連中までも向かわせる。
だがそんなものでは、突き進むオークの突進はとめられない。文字通り体を武器にして突進してくるオークに、緑の壁が崩壊する。
一匹抜けられると後はもう、崩壊していくしかなかった。だが、オークも無傷ではない、体中に無数の傷を負い怒り狂った瞳には理性の欠片もない。
ただこの包囲を抜けようと躍起になっているようだ。
そうしてそのうちの一匹が、赤いゴブリンの前に迫り、衝突した。
「ぐるる!」
「ぐがぁ!」
化け物二匹の衝突は、だがすぐに終わった。
当然の結果がそこにあるだけだ。
オークは肩口からざっくりと切られたが、それを意に介するでもなく赤いゴブリンを跳ね飛ばして、森の中へと消える。
そして赤いゴブリンの方はといえば、気を失っているのだろうか。
ぴくりとも動かない。
そうして、俺の目に入るのは、投げ出された刃こぼれした剣。
どくんと、心臓が波打つ音が聞こえた。
腕に力をこめる。悲鳴を上げる化け物の体を無視して、上半身を起こす。
「ギ、ギギ──」
こりゃぁ、随分と都合のいい展開になっちまったじゃねえか。
なぁ?
ふらつきながらそれでも、俺は目的のものを手にする。
刃こぼれしたロングソード。
そうして動かない赤いゴブリンの近くに寄っていく。
まさか跳ね飛ばされただけで死んじゃいねえはずだ。
「ギギギ」
──死ねよ。てめえ。
その首筋に俺は、思いっきり剣を突き立てた。
喉に剣先を深く差し込むと、そのままロングソードを横に倒す。
「ギグギャググアア!」
「ぎ、──ジネ゛」
最後は声にならない苦鳴の声をあげて、赤いゴブリンは息絶えた。
「グ、バッバッバ……ア゛ッア゛ッア゛」
殺してやった。
「ギギググガグ」
なんだこりゃ。
随分あっけねえじゃねえか。
「ぎ、ぎぐ!?」
内から突き上げる衝動に、膝を突く。
「ぎぎ、ぐは!?」
体の内側から別の何かが、俺を食い破っていくおぞましい感触に、俺は頭を抱えた。
取り落とした剣が、地面にどさりという音が遠くで聞こえた。
「あ゛……あ゛」
そうして一秒が1時間にも思える苦痛のときを超えて、周囲を見渡した。
静か過ぎる。
ゆっくりとめを見開き、周囲を見渡せばそこにはゴブリンどもが一様に俺を見つめている姿。
マズイ、か?
だが生憎と逃げるだけの力がわいてこない。
そのうち一匹のゴブリンが俺の前にくる。
「オウ」
なに?
「ア゛?」
今こいつはなんといった? 王?
「ごメイれイを」
つたない言葉で喋りかけられる言葉を疑念のまなざしで見返して、己が腕を見る。
赤く、醜く、鋼のような俺の腕を。
そのときの感情をなんと表現したらいいのか。
それは強くなる喜び、などという単純なものではない。自身が醜く穢れていく嫌悪でもない。俺は酔っていた。
何に対してか。
俺は確かに酔っていたのだ。