エレント12 / 諦めます
協会を出て、草麻は大きくを伸びをした。
時刻は二時。太陽が燦々と照り付け、石畳からの照り返しがきつい。ボストンバッグを片手にふらりと歩き始めると、背後から声を掛けられた。
「草麻、どうなったのですか?」
草麻から待機を言い渡されたエルだ。
三十分程ではあるが、待たされた身としては、事の経過を直ぐにでも知りたかった。
「四時間後に俺の家で話し合いですね。ヒメが攫われた事は一切話してませんが、どうですかね」
肩を竦めながら草麻は言う。
何せ、相手はあのセーミアである。何時も通りに会話出来た気もするし、動揺がバレバレだった気もする。核心は突けまいが、それに準ずる地点まで予測されていても全くおかしくは無い。ケセラセラ、成るようにしかならん。と草麻は一投目の賽を見ていた。
「そうですか。私はどうします?」
「申し訳ないですけど、俺の部屋で待機お願いします」
「判りました。それで、時間まで家で待つのですか?」
「………そうですねえ」
草麻はエルを上から下まで見る。
ヒメと同じ様な簡素なワンピース型の魔術衣であるが、少女が着るのと大人が着るのでは、見た目が大きく違ってくる。草麻は一つ頷くと、エルに言った。
「服、買いに行きましょうか」
「………服ですか?」
「はい。残念ながらパールさんを巻き込む事に決めたんで、その時まで服が無いのは拙いですしね。ついでに軽く飯とか食えば、四時間なんてあっというまでしょう」
嘆息する草麻。
言葉通りに草麻は至極無念そうだ。出来る事ならこの得体の知れない女性とは、一方的な関係で居たかったが、どうやら難しい。セーミアが離れた場合に草麻の味方はゼロになる。孤立無援で助けられる程甘くは無いだろう。
「それは嬉しいのですが、今、私お金無いですよ。協会に入れば貯金があるのですが、セーミアが居ますしね」
「誘ったのはこっちですしね。勿論、俺が出しますよ。それに、もし万全を期すならパールさんとは別々に町に入るべきでしたから、今更ですけどね」
「それはそうですね。では、折角ですしお言葉に甘えます。貯金が卸せたらお返ししますので」
「別にいいですよ。目が飛び出る程の高級品は無理ですけど、普通の服と日常品位なら全然問題ないです。というより、臨時収入も入りましたし、偶には男スキル上げとかないと、いけませんしね」
「ふふ。それなら仕方ありませんね」
「じゃ、出発ということで」
自然と二人は歩き出した。
不思議と草麻とエル、両者の立ち位置に違和感は無い。それは同じ間合いで戦う格闘型という共振もあるだろう、一度生死を懸けた共感もある。ただ、エルを除外する事を諦めた草麻と、草麻が諦めている事を知ったエルの共有が、丁度良い距離感を生んでいた。
エレントにある服屋の一つ。
セーミアから紹介された店とは違う初めての店だ。とはいえ、草麻としては、一緒に来た相手が楽しめれば自分も楽しめるので、店自体に拘りは無い。
幸い、エルも妙齢の女性と同じ感性を持つ様で、服を眺め迷っている様子は普通の女性のものだ。楽しげに試着室に入って行った姿と、月の森で見せた決死との差異に、一日すら経過していない出来事が遠く感じられる。現在と過去か、ぼうとしていた時に、試着室のカーテンが開いた。
「草麻、これ何てどうです?」
淡いクリーム色のブラウスにショートパンツを穿いたエルが立っていた。草麻は手を顎にやると、上から下まで舐める様に視線を這わせる。ワンピースでは気付けなかった脚線美が露わになっていた。
「似合ってるんですけど、もちっと露出の多い服の方がいいんじゃないですか。ほら、そんだけ綺麗な足なんですし」
草麻はハンガーに掛ったホットパンツに指差した。
股関節のぎりぎりまで切られたホットパンツは確かに健康的な扇情さがある。草麻のあけすけな欲望にエルは笑うと、試着室から出てホットパンツとは反対側にある服を手に取った。
「判りました、それではこっちのロングスカートにします」
「なんでやねん」
脚線美も何も無い、ふわりとしたスカートを前に草麻はがっくりと肩を落とした。舌を出し試着室に戻るエルと、こっそり先程のホットパンツを手に取る草麻。店員が楽しげに両者のやり取りを眺めていた。
服を購入した後、草麻とエルは喫茶店に寄っていた。
何時もならシンの喫茶店に寄るのだが、状況が状況なので、同じように知らない喫茶店に足を伸ばしていた。シンの店とは趣が違うが落ち着いた良い店だ。木を使ったコテージ調の店内、その奥にある丸テーブルに座ると草麻は適当に料理を注文する。
エルはというと先程購入したばかりの服を着て、メニュー相手にうんうん唸っていた。因みにエルの服はブラウスにジャケット、それにロングスカートという露出感皆無な格好である。誉めることもなく草麻が落胆して、エルに殴られたのは無理も無い。
「あのですね、パールさん。別に追加で頼んでもいいですよ」
やがて、草麻が頼んだ二人分の料理が来ても唸っているエルを見かねて、草麻が切り出した。草麻が頼んだのは簡単なコース料理で、コーヒーか紅茶、それにサラダとメインがついて、デザートも出る日替わりおススメランチセットだった。
エルが悩んでいるのはデザートとドリンク。タルトも良いが基本のショートも良い、紅茶も良いが、コーヒーも捨てがたいという。贅沢な悩みである。
「いえ、それでは草麻に負担を掛け過ぎる。ここは我慢です」
「服と化粧品に六万ギル使っといて」
草麻は紅茶を飲みながら、ぼそりと言った。
あの後店員のセールストークに巻かれた二人は、服だけでは無く化粧品も買っていた。草麻としては連れが綺麗になるのは悪くないし、エルが喜んでいる様だったので、気にはしていないが、つい突っ込む様に言ってしまうのは仕方ないだろう。
「草麻、何か言いましたか?」
メニュー表の奥から覗く捕食者の瞳。
鋭く刺す様な眼光に口を噤むことしか出来なかった。
「いえ、何も」
結局、エルは遅かった鉄の自制心で何も追加で頼まなかった。
メインのパスタを食べ終え、ちらりちらりと苺のショートケーキを見る位ならと思うが、エルなりに何らかのルールがあるのだろう。草麻は何時も通りと言えば何時も通り、三分の一程食べたケーキを向いに差し出した。
「俺、腹一杯なんで、申し訳ないですけど、食べて貰っていいですか?」
「いいのですか!いえ、仕方ないので頂きます」
世の女性は皆、本当に甘い物が好きなんかねえと草麻は思う。
一概には言えないが、ケーキだけでこれだけ喜んで貰えれば全然安い。草麻はティーカップで口元の笑みを隠した。照れながら食べるエルがおかしすぎたのだった。
エレントに夕焼けが落ちる。
高さ三十メートルの外壁に囲まれる城塞都市の夕暮れは余りに短い。昼と夜の境目に、家路に付く人達がまばらな影を伸ばすのは今だけだ。その暖色に彩られた町を草麻とエルが歩いていた。
腹ごなしに歩きましょうと、とエルが散策に誘ったのだ。
エルにして見れば全く知らぬ町と言っても過言では無く、草麻も時間があったので断る理由は無かった。先導する様に歩くエルの少し後ろで、草麻は隙間が見せる穏やかな街並みを寂しげに眺めていた。草麻の顔には望郷の念。戻れぬ過去を見ている様だ。
「パールさん、そろそろ帰りますか」
一度眼を閉じ、振り払う様に草麻は前を歩くエルに声を掛けた。
エルは振り返ると、驚いた様に言った。
「もう、そんな時間でしたか」
「走れば余裕なんですけどね」
首を竦め草麻はエルを追い抜くと道を曲がった。
誘われた身なのでエルに任せていたが、家とは離れた方に進んでいくのだ。方向音痴なのか、何も考えず歩いた結果なのか。草麻はまあいいかと何時も通りに放ると言葉通り足を家に向けることにした。
その後ろ姿をエルは観察する様に眺める。
通常よりもゆっくりとした足取り。それは散策という目的に沿った歩みだろう。進む道すらも未だ通っていない初めての場所ばかりだ。これからの大事を考えれば、余裕を無くし焦ってもいいだろうに、彼は飽く迄もエルの目的を叶えようとしている。
「草麻は強いですね」
「どういうことですか?」
唐突なエルの問いに草麻は一度間を置いた。
確かに格闘なら弱くは無いと思うが、はて、どういうことだろう。
「貴方はこんな状況なのに平常心を失わない。それは得難きものでしょう」
彼女の真っ直ぐな賛辞に草麻は思わず笑った。
小さく零れる様な笑い声がエルに届く。
「いや、正直凄い焦ってますよ」
「そうですか?」
「ええ。心臓はばくばくで怖くて堪らないです。けど、だからといって、今の楽しみを噛み締めないのは失礼でしょう」
夕焼けが目に染みる。
その柔らかな眩しさにエルは思わず目を細めた。何故か悔しくて、呆れた様に草麻に言った。
「………楽観的なのですね」
「よく言われます」
エルの皮肉にも、草麻は楽しげに返した。
それはエレントに到着する前には無かった暖かさ。巻き込む事に決めた事で、明確な線引きから一歩入った証拠だった。
エルは諦めた様に微笑むと草麻の隣に並んだ。
彼と居るのは悪くは無い。少なくとも背中を預けるに足る人物だろう。エルの足取りは軽かった。
ドアベルが鳴った。
自室でエルと話していた草麻は、エルに目配せすると自室を出てドアに向かった。ドアスコープを覗いた先には予想通り、セーミアの姿が見える。草麻は鍵を開けるとセーミアを出迎えた。
「いらっしゃいです。待ってましたよ」
「どうも、お待たせしました」
セーミアの手には各種の酒が入った袋がある。
酒盛りする気満々の姿だ。草麻は苦笑しながらキッチンに促した。セーミアはキッチンに付くと、早速食器棚からグラスと皿を並べていく。慣れた仕草は来訪回数を示していた。
「今日はワインを持ってきました。しかも、シンさんとこの秘蔵品ですよ」
セーミアは袋からワインボトルを複数取り出すとテーブルに乗せた。
基本的に飲み物はセーミアが用意し、食材兼料理は草麻達という分担が何時の間にか出来上がっていた。酒好きな主人の為に摘まみ料理が得意になった故の分担だった。
「流石、セーミアさん!んじゃあ、俺は隠してた極上ハムとか出しちゃいますよ」
草麻は棚からワインクーラーを取り出し、ボトルを中に入れると、今度は冷蔵庫から食材を取り出した。何時だったか、ヒメが衝動買いしてきた逸品の残りである。
「ふふ、判ってますねソウマさん」
「当然です」
良い酒には良い摘まみを。
ヒメに叩き込まれた真髄である。草麻とセーミアは何か秘密を共有する様な子供染みた考えに思わず笑った。
テーブルには三人分の食器。
適当に切られたハムと摘まみが並んでいる。何時もは軽く乾杯し、草麻が摘まみを料理する事になっているが、それを指示する者が未だ現れない。セーミアは怪訝に思いながらも席についた。
草麻も同じように対面に座り、ワインの栓を開けにかかる。
きゅきゅとコルクが抜かれ、先ずはセーミアにそして自分のグラスに注ぐ。そこに彼の主人の分は含まれない。もう、後は乾杯するだけといった所で、セーミアは遂に疑問を口にした。
「ソウマさん、ヒメさんはどうしたんですか?」
草麻はワインをクーラーに戻した。
さて、と言葉を探す様に草麻は頭を掻いた。結局出て来たのはディートリヒに言った様なありきたりな言葉だった。
「いや、実はですね。ヒメ、攫われたんですよ」
まるで冗談の様な軽さ。
ふざけているとしか思えない気軽な口調だった。
「え?」
セーミアの口からも軽い疑問符。
本気とは思っていない、取り敢えず出した返答である。それに、草麻はさらなる事実を追加した。
「月の森で、いきなりあった男にヒメは攫われました」
それは、余りにも気軽な言葉だった。
主人の為に命を捨てている彼には、冗談でもそんな事を言って欲しくは無い。セーミアは柔和に草麻に微笑んだ。日常を繋ぐように。
「あの、ソウマさん。冗談ですよね」
視線の先、草麻は肩を竦めていた。
常にある温和な仕草だが、草麻の雰囲気は真剣そのものだ。そこで、初めて視線が合う。黒の瞳には昏い蛇の様な情念が見えた。
「冗談なら、本当に助かるんですけどね。残念ながらマジです」
鯉口を切った様に、草麻の気配が変わる。
冷え冷えとした金属の硬さ。クロスの工房で狂戦士と戦うと言った時以来のひりつく様な痺れだ。そこでようやくセーミアも微笑を消した。
昨夜からあり、協会で会った時に確信していた違和感。
やはり、当たって欲しくない現実がそこにはあった。もう、誤魔化せる筈もない。セーミアは嘆息した。気持ちを切り替える為に。
「それで、攫った相手は判るのですか?」
草麻は首を振る。
「いや、ぶっちゃけ詳細は判りません。何せ、俺達は一撃の下あっさり倒されましたからね。ただ、何か相手は亜人を相当憎んでるみたいでした」
亜人という単語がセーミアを強く叩いた。
あの日、二年ぶりに再会した家族の憤怒が身を焦がす様だった。何よりも、セーミアの舌には苦味が充満している。絶対察知が発動していた。
「………そうですか」
間が開き、利にならないセーミアらしかぬ言葉が漏れる。
草麻は、気にもせずセーミアに問い掛けた。
「なんで、顔の広いセーミアさんなら何か知ってるんじゃないかと、思いまして」
「ソウマさん。相手の外見などは判りますか?」
「ええ、鮮やかな青髪の男と薄い金髪の女でした。それと、二人とも鎧を着ずに黒い服を着てましたね」
「………そう、ですか」
何故、当たって欲しくないと思う程、当たってしまうのだろうか。
舌の苦味が濃くなった気がした。脂汗が背中を濡らして気持ち悪い。心臓は不整を打ち、胃の底から脈動する様なえずきがにじり上がる。
「セーミアさん?」
崩れた微笑みに草麻は声を掛けた。
槍の様な貫く視線。セーミアの脳裏に瞬間的な打算が走る。
誤魔化す?その後は?ヨルミナのラストキー?信用?罪悪感?このタイミングしか無い?
それは僅か半秒に過ぎない逡巡。
その最中、主人を攫われた草麻を慮る事も無く、友と呼べるヒメの安否を除外した思考にセーミアは嫌気が指した。何時から、こうなったのだろうか。セーミアは両手を膝に乗せると深く頭を下げた。
「ソウマさん。本当に申し訳ありません」
力なく垂れた栗色の髪。
突然の謝罪に草麻は鼻白んだ。罪悪感が表に出そうになった。
「何が、ですか?」
「おそらくですが、ソウマさん方を襲い、ヒメさんを攫った相手は私の関係者です」
「どういう事です」
「その男の名はディーノ・ジンベレル。私の義弟で兄弟弟子です」
そこで漸くセーミアは顔を上げた。
柔和な微笑みは其処にはない。固い、能面の様な表情である。セーミアはゆっくりと髪留めを外した。さらりと纏めた髪が流れる。栗色の暖かみのある髪は深遠な瑠璃色に変わっていた。それは、ディーノの髪の色とよく似ていた。
その変貌した髪を見て、草麻は天井を仰いだ。
瞳に手を乗せる姿からは何も読み取れない。怒りか、呆れか、憎しみか。セーミアはじっと判決を待った。止めれなかった自分が不甲斐なかった。草麻が手の蓋を取り、セーミアと視線を合わせる。そこにはこの場には似つかわしくない穏やかさが宿っていた。
「あいつも姉貴に懸想するとは、よくよく変態野郎ですね」
苦笑した。
エルから話を聞いていたし、ディートリヒからも家族と教えられたが、実際当人から聞くのでは印象が違い過ぎた。草麻の言動に、まるでディーノを知る様な雰囲気にセーミアは怪訝な表情を作る。
「ソウマさん?」
柳眉を寄せ、困惑するセーミアに草麻は唐突に頭を下げた。
テーブルに両手を付き、頭をぶつけるような勢いで草麻は謝った。
「セーミアさん。試すような真似してすみませんでした」
「どういう事ですか?」
「実は、ジンベレルに襲われたのは事実ですが、ヒメを攫った奴は別です」
草麻は頭を上げると、セーミアを凝視した。
今日、一番力ある視線だった。セーミアは未だ草麻の言葉を咀嚼しきれていない。本当に襲いはしたんだ、でも他に誰が?草麻達が他の新人や中堅冒険者達に妬まれているのは知っている。手を組んだのだろうか?だが、月の森で襲撃するにはリスクが高すぎる。それは解けない知恵の輪。ピースの足りないパズルだった。
「それで、そいつからセーミアさんに伝言とペンダントを預かりました」
草麻はペンダントと伝言魔具をテーブルの上に置いた。
それは完璧に不意打ちだった。ロケット型のシンプルなペンダントに、セーミアは全てを奪われた。凝視なんて言葉では足りない、虜の様に、石化の瞳を見た様にセーミアは微動だにせず、ひたすらにペンダントを眺めている。驚きと混迷が入り交じった表情は、草麻が初めて見る姿だった。
やがて、プレート状の魔具から男の幻影が浮かび上がる。
金髪の偉丈夫。二年前と変わらない夢にまで見た姿が其処に居た。感情の処理が追いつかない、何故という疑問だけが頭を回り続ける。草麻はその男の口上を真似る様に読み上げた。
「セーミア。ディーノと一緒にヨルミナの最奥で待っている。イズミと一緒に来い、待ってるぜ」
「……うそよ」
もはや、セーミアは草麻を見ていない。
見えているのはモノクロになった過去と、一つの証明だけ。セーミアはおそるおそる、ペンダントに手を伸ばす。それは、何の変哲も無いロケット型のペンダントだ。けれど、登録した人物の魔力を流せば、そのロケットの蓋が空くという魔具でもある。
セーミアはパンドラの箱を空ける様な気持ちで魔力を流した。ロケットの蓋が開く。そこには、彼女の持つペンダントと同じ写真が入っていた。中心にアルフレッドがおり、その左右にセーミアとディーノが立っている。過去の残照がそこにはあった。
「お父さん」
震える声と瞳。
感情の激流に反応が追い付かない。彼は死んだ筈だ。私たちの目の前で消えて行ったんだ。時間に流された過去の想いが濁流となって現在を襲っていた。セーミアはそれに抗えない。過去に呑まれたセーミアが選んだのは意識の漂白だった。何も考えない逃避が、彼女に出来る精一杯の抵抗だった。
草麻は目の前に居る女性の名前を一瞬忘れた。
それ程まで、今のセーミアは草麻の印象とかけ離れている。彼女は、まるで沈み、浮かぶ事の無い沈没船だ。船内には過去が置き去りにされ、それを土足で漁る俺は最低野郎か。草麻は息を深く吸った。
「セーミアさん。二年前に何があったか、教えてくれますか」
「………」
長い沈黙。
セーミアは視線を伏せ、写真を見続けている。まるでごっそりと感情が削られた様に動かなかった。扉には鍵がかけられ、開けられる者は過去を知る者だけだろう。だから、草麻は力付くで扉を叩いた。
「俺はヒメの従者だ。貴女が話してくれないなら、それでも良い。俺は一人だろうが、どんな手段を使ってでもヒメを助けるだけです。例え、誰を相手にしようと」
それは何の技巧も無い、天秤を渡しただけの言葉。
どっちでも良いと。話して一緒に来るのか、話さず離別するのか。セーミアなら草麻に頼らずとも、アルフレッドまで辿り着ける可能性はある。セーミアがラストキーをディーノが持っていると思っている以上、草麻に拘る必要は無いのだ。
ざざと、セーミアの脳裏にほんの数日前の出来事が蘇る。
あの時、自分は決別した筈だ。自分が見つけた可能性と進むと。そう言って、家族の懇願を不意にしただろう。けれど、今、否応なしに過去が追って来た。嘗て、いや今でも親と信じる人と家族と思う人。自分は一体どちら側に立ちたいのだろう。
どれくらいの時間が経ったのか、セーミアは地面をぼうと見たまま、口を開いた。零れた落ちた言葉は、余りにも弱い、子供の様な問い掛けだった。
「………ソウマさんは、何故ヒメさんをそんなに信じられるんですか?」
漸くの言葉だったが、草麻は質問の意図を理解出来なかった。
何故、助ける事を前提としているのに、信じるなど言うのか。
「信じる、ですか?」
「はい」
セーミアの姿は少女の様に無垢で儚い。
粉雪の様に触れたら消えそうですらある。草麻は頭を掻いた。判らなかったから、とりあえず素直に喋ろうと思った。
「別に、俺はヒメの事を百パーセント信じてる訳じゃないですよ。普通にヒメの事は疑いますし、騙されても良いと思っていても、やっぱり惑いますよ」
それが草麻の本心だった。
基本的には信じているが、疑う事もあるという何処までも普遍的な答え。セーミアはズボンを握り締めた。違うと、もっと盲目的で妄信的な言葉が、現実から乖離した子供に教える理想が聞きたかった。
草麻なら言ってくれると思っていた。
馬鹿みたいに命を懸ける彼なら言ってくれると思っていたのに。無意識に握り締められたズボンには強い皺が寄っていた。草麻は一度間を置くと、続きをゆっくりと言った。
「ただ、ヒメは親友なんです。信じる信じないはともかく、せめて大切な奴との交わした約束くらい守りたいじゃないですか」
「約束、ですか?」
「はい。約束です」
草麻は一つ頷いた。
それはこれ以上語ることは特に無いと言っている様だった。セーミアはじっと自分の膝を見詰め続ける。約束、破ってはいけない一つの誓い。その、まるで子供染みた答えに、子供の駄々をセーミアはぶつけた。
「もし相手が約束を守る気も無く破ったら、どうするんです?」
語らぬと言った草麻に、セーミアはなお押し付けた。
伏せられた上がる事の無い瞳。セーミアの頭上に飽く迄も軽い言葉が返ってきた。
「諦めます」
あっさりとした一言。
まるで、それ以外考えらないと言わんばかり簡素さだった。それは、セーミアにとってまるで予想外の答え。怒りでも悔いでも無い、まさかの諦観。ゆっくりとつられる様にセーミアは顔を上げた。その胡乱気な弱り切った表情に草麻は不貞腐れた様に言う。
「いや、だって親友との約束ですよ。もし破られたら見る目が無かったって諦めるしかないでしょう」
「怒ったり、憎んだりしないんですか」
「そりゃあしないとは言いません。けど、俺は約束を守った末に相手が裏切ったんなら、まあ、仕方ないかと」
仕方ない。
あの時、シンの喫茶店で聞いた綺麗で純真な言葉だった。羨望に近い眼差しの先で、草麻は腕を組んで首を振った。
「ああ、でも例外が一つ。洗脳とかで俺という自我、意識を壊そうとするのは許せませんね」
セーミアに疑問が浮かぶ。
草麻は知っているのだろうか。主従契約には二つの形式があり、もし非情の方を結ばれていると知ったら、どうするのだろう。
「………貴方は勝手に主従契約を結ばれたんですよね」
「はい。それで実は隷属型・簡易型とかがあるのも、ついこの前知ったんで、帰って来たら主従会議ですね」
呆れる程の暢気さだった。
イニシアチブ全てを相手に握られているのに、話し合いだけで交渉しようとするのか。ウインドマスターから解呪して貰う事もせずに、草麻は真偽を話し合いで解決しようとしている。けど、自分を相手に託す。それを、真心というのではないのか。
「そこで嘘を吐かれて、例外に踏み込まれたらどうします?」
草麻が言う唯一の例外。
隷属型なら致命的なまでに当たっている。もし、嘘を吐かれ騙され人形にされるとして、その直前、彼はどうするのだろう。理想に殉ずるのだろうか。それとも足掻くのだろうか。草麻は少し笑った。
「話し合った後ならどうでもいいです。俺は既に納得した後ですからね。その先で仮にヒメに捨てられたとしても、苦笑しながら死ねますよ」
それは、愚かな答えだった。
現実ではなく、空想に生きる浮ついた言葉。子供ですら騙せない風船の様に軽い言葉だった。そして、何処までも一人よがりな意志だった。
「つまり、ソウマさんは自分の意志が全う出来れば、相手は関係無いんですね」
「まあ、そうですね」
草麻は諦めると言い、仕方ないと言った。
それは捨てる意志だろう。自身の想いだけを抱き、他の全てを廃棄する言葉に違いない。なるほど、信じる等は草麻にとってはどうでもいい筈である。何故ならそれは結果だから。一番初めに唯一絶対の答えをだしている以上、その先は変わらない。親友の為、草麻にとってはこれが全てだ。
それなのに、彼は普遍的に他人関わろうとしている。
親友の為なら鬼になれる人物が、切り捨てたモノすら拾おうとする。何て、歪。何て人でなしか。
「ソウマさんて、もっと誠実で思いやりのある人と思ってました。意外と我が儘なんですね」
セーミアに微笑みが浮かぶ。
彼女に先程までの姿は欠片も無い。纏う雰囲気は柔和であり鉄壁。せめて、外面だけはセーミアは自分を取り戻していた。
「知らなかったんですか?俺は相当に自分が大好きな馬鹿野郎ですよ」
「ふふ。自分が大好きな人が他人に命を預けるなんて、本当にバカなんですね」
確かに、草麻の考えはおかしい。
でも、真っ直ぐだと思う。これは、危うくともすれば自滅するだけの考えだ。けれど、草麻ほどに純真な青年が何処にいる。運に任せるでもなく、開き直った放任でも無い。彼は己を鍛え抜き、文字通り人生を掛けて友に殉じようとしている。
その信念、いや執念は偽りでは無い。
でなければ、草麻の言葉は此処まで響かない。軽い筈なのに届く言葉は彼の生き様故だろう。
「他人じゃなくて親友です。それに、俺の意志は自由ですから十分でしょう」
「ソウマさんて、意外と騎士向きですよね」
む、と草麻は一瞬虚を突かれた。
驚きの感情を隠す様に草麻は早口に言った。自分の趣味と誤魔化しを他人に認められるのは納得がいかなかった。
「そんな恰好良い事言われたのは初めてですね」
「ふふ」
セーミアは楽しげに微笑んだ。
その笑みを見て、草麻は負けたなあと溜息を吐いた。結局、何も出来なかったと思う。手札は明らかにこちらが多く、強さもあったのに自分は相手の札を殆ど見ていない。せめて、ヒメがいたらと草麻は間抜けな事を考えた。
セーミアはグラスに置き去りにされたワインを飲んだ。
旬を過ぎたワインに申し訳なさを憶える。吐息を付くと、セーミアは片肘をテーブルについた。しな垂れる様な仕草だった。
「あーあ、もっと早くソウマさんとヒメさんと出会いたかったなあ」
セーミアはグラスに残ったワインを一口で飲み干した。
どっちなのだろうか、草麻は確かめる様にセーミアを見据えた。
「セーミアさん」
セーミアは草麻を無視する様に、ワインボトルを掴むと僅かに揺らした。
それが、グラスを空けろというサインだという事に気付くと、草麻は一息でワインを飲んだ。テイルが聞いたら怒られる様な飲み方だった。
セーミアは草麻の空いたワイングラスに赤い雫を満たすと、朗らかに微笑む。それは、少女の様なあどけない笑みであり、
「でも、まだ間に合いますよね」
見惚れる程に綺麗で、潤んだ瞳が印象的なひどく儚い笑みだった。
草麻はワインボトルをセーミアから受け取ると、彼女に返杯した。赤いワインは血の様であり、誓いを交わすには丁度良い。
「間に合わせますよ」
グラスを合わせる。
掌に伝わる確かな感触が、心地よかった。落ち着きと言えばいいのだろうか、ゆったりとしたペースで草麻とセーミアはワインを開けていく。聞きたい事もあり、語るべき事もある。ただ、今はゆっくりしてもいいだろう。
何でもない事を話しながら、時間は穏やかに過ぎて行った。
それは、激流の前の長閑な一幕。その、僅か数分後に地獄を見るとは草麻は思いもしなかった。