エレント11 / 本当、嫌になる
エルの顔にテントの幕を通して日差しが当たる。
柔らかな光ではあるが、エルを起すには十分過ぎた。んぅと何語でもない寝惚け言葉を漏らしながら、エルは体を起こす。二時間程しか寝ていないが、今までの事を考えれば十分すぎる状況だ。解放してくれた草麻に感謝すると同時に罪悪感が込み上げる。草麻は怒るだろうが、感じてしまうのは仕方ないだろう。
エルはきっぱりと感情を制御すると隣を見た。
草麻の姿は無い。先に起床すると既に行動を開始している様だ。草麻が起きた事に気付けなかった事に肩を落とし、寝顔を見られたであろう事に若干の羞恥を憶える。赤の他人に無防備な姿を晒しすぎた。
エルは意識を覚醒させる様に頬を一度叩く。
ぱんと小気味良い音が響いた。エルはスッキリした気持ちでテントの幕を開けると、朝の日差しが優しく彼女の顔を照らした。エルは遮る様に手を翳し、ピントの合った瞳で外を見ると草麻の姿が見えた。
草麻は朝日のなか舞っていた。
緩やかにゆっくりと草麻は突きと蹴りを繰り返す。身体の隅々まで筋肉、関節、果ては内臓までも確認する様な穏やかで自然な動作。
その身体操作も恐れ入るが、魔力の流通。
一切の淀みが無いまるで循環する血液の様な滑らかさには恐れ入る。やがて、草麻はギアを変える様に呼吸を変化させると、全ての動作を最高速で行う。先程までの行為を完璧にトレースした動きは何年もやって来ただろう道程が見えた。
「おはようございます」
エルの視線に気付いたのだろう、演武という朝のストレッチを終えた草麻はエルに挨拶した。
「あ、おはようございます」
少しの間。
見惚れていた事が気恥ずかしく、エルの返事は遅れてしまう。草麻は何事も、事実ただの習慣を終えただけなので、無かった様に近くの小川に歩き出していた。エルは慌ててテントから出ると草麻の後を追った。
「どうかしたのですか」
「いえ、朝飯の準備です。幸いこの川は浅いですからね、魚を取るには問題ありません。もしかして、魚、駄目ですか」
「まさか、私は特に好き嫌いはありません。しかし、釣竿も持たずにどうやって魚を獲るのです?」
「普通に手ですけど」
草麻は、右手の手甲と脚絆を外し野袴の裾を上げると小川に入っていく。
エルはその姿を怪訝に見るだけだ。弱者というのは命の危機に敏感である。牙がない故に察知能力が桁違いに高い。
小川に棲む魚も、当然の様に川に流れる微弱な魔力の流れを感じただけで逃げていく。それ程の気配察知を持った者を相手に空手でどうするのか。まさか、左手のワイヤーアンカーを撃ち込む筈もあるまい。エルの不安を余所に、草麻は水面に手を打ち込んだ。
「よっ」
気軽な言葉。
草麻の手が水面から上がると、魚も宙に舞っていた。きらきらと光を反射しながら、鮎の様な魚がエルの居る陸地に飛ばされる。呆気に取られるエルを尻目に、草麻は二匹、三匹と次々と魚を弾いていく。それが六回繰り返されると、僅か五分少々の時間で陸には魚が六匹並んでいた。見事な早業である。
「素晴らしい腕ですね」
「パールさんも出来るでしょう」
草麻は小川から上がると、突きと蹴りで体に付いている水滴を弾き飛ばした。
「まさか、いくら私でも貴方ほどの技術は持っていませんよ」
「そうですか?」
「ええ、普通は魔力を無意識に流してしまうのですが、貴方は魔力を一切流さなかった。同じ速度で打ち込む事は出来ても、魔力遮断までは流石に真似出来ません」
「そんなものですかね」
草麻はエルの賞賛に気の抜けた返事をする。
その冷たさは数時間前と一切変わっていなかった。しかし、
「ま、ともかく食事にしましょう」
「そうですね」
六匹の魚。
一人では多い量を当然の様に用意してくれた。その事実だけで、エルにとっては十分であった。
雲一つ無い快晴。
蒼穹の空の頂点に太陽が昇ろうとする最中、エレントの外壁の上で周囲を見張る兵の目に異様な存在が映った。巨大な虎が尋常ならざる速度で草原を駆け向かって来ているのだ。
兵は急ぎ強化の魔術を眼に掛けると、遠目を利かし不明の存在にピントを合わせる。砂金の様な透明感ある体毛を持つ巨虎は、しなやかな筋肉を撓ませながら一心に緑の絨毯を走っている。青と緑を背景に疾走する虎はまるで物語の挿絵の様だ。その背に一人の青年が跨っているのが、また空想性に拍車を掛けていた。
その姿を確認すると、兵は密かに安堵の溜息を吐き不思議そうに首を捻った。巨獣に跨る青年、何度も見て来た光景の一つだが、大きな差異がある。兵はもう一度不思議そうに首を捻った。
「おう、どうしたよ」
その時、背後から突然野太い声が掛けられた。
大きく太い褐色の男。ディートリヒ・ベクターだった。兵は驚きを隠そうともせずに、振り返るとディートリヒに文句を言った。
「ベクターさん。何時も言っていますが、此処は関係者以外立ち入り禁止なのですが」
「へっへっ、気にすんなよ。気分転換によっただけだ」
ディートリヒは悪気も無く、楽しげに外壁の端へと歩いて行く。
三十メートルという目も眩む高さの先には、蒼天と草原。掴みとるには無謀で高大な世界が広がっていた。
兵はディートリヒの何時通りの返事にまた溜息を吐いた。
ディートリヒは時折立ち入り禁止の外壁に来ては、果ての無い景色を眺める悪癖がある。相手が狂戦士なので兵が怒られる事は無いが、根が真面目な彼としては止めて欲しい所だった。
「んな事より、凄えスピードで向かって来てる奴がいるぜ。連絡しなくて良いのかよ」
「判ってて言ってますよね。虎の上に乗っているのは、貴方のご友人じゃないですか。虎という事で、サクラさんでは無いようですが、まあ問題は無いでしょう」
遠く、兵とディートリヒの視線の先にはディートリヒに紹介され、彼と同じく気紛れに外壁に表れる新人冒険者の姿が見える。特徴的な衣装に黒髪の人相は紛れも無く五澄草麻のもの。彼が巨狼に跨って草原を駆け抜ける光景は、もはや日常になりつつある。
「ふふん。しかし、狼の次は虎か。ソウの奴も節操がねえな」
「一昨日、頬に紅葉をつけてた人にイズミさんも言われたくは無いでしょうね」
呆れた非難の声にも、ディートリヒは口角を上げるだけ。
畏れの無い歯切りの良い会話をディートリヒは楽しんでいるようだった。
「相変らず耳が早いな、お前は。多少は鈍感にならねえとモテねえぜ」
「性分ですから仕方ないです。それより、暇潰しも見つかった事ですし、もういいでしょう」
「ちぇ、まあその通りだけどよう」
兵の言う通りではある。
ディートリヒの眼下には、外壁の検問所で受付している草麻の姿が見える。草麻もディートリヒの視線に気付いたのだろう、あからさまに嫌な顔をしたのが見えた。その露骨すぎる表情の変化にディートリヒは笑うと、あっさりと外壁から身を投げた。三十メートルもの高さから躊躇いもせず飛び降りるとは、流石というか、兵は何度目かになる溜息を吐いた。
ディートリヒの襲撃後、草麻は丁度良いとばかりに開き直るとディートリヒを自宅に呼んだ。その際、彼は直ぐに草麻の雰囲気を察したのだろう、にやりと笑うだけで何も聞かなかった。
家に到着し、草麻はディートリヒとエルをキッチンのテーブルに座らせると、ムーンライトの入った魔具を自室に置いた。戻り、冷蔵庫からお茶を取り出すと人数分用意する。コップにお茶を注ぎ、草麻が椅子に座って一息付いた時、ディートリヒが漸く口を開いた。
「で、ソウ。ヒメの嬢ちゃんはどうしたんだ?」
開口一番、ディートリヒは当然の質問を草麻にぶつけた。
彼等を知る者達にとって草麻とヒメはワンセットという認識である。その片割れが居らず、代わりに見た事も無い亜人。ディートリヒの問いは当たり前だった。その問いに草麻は逡巡も何も無く答えた。
「攫われた」
まるで近場に出掛けに行った、と言う様な気軽さだった。
しかし、草麻の瞳の奥には暗い炎が燻っている。それにディートリヒが気付かない筈も無い。ディートリヒはやや間を置いた。
「………マジ、か」
「ああ、マジだ」
絡み合う視線。
圧力さえ伴う狂戦士の視線を草麻は受け止める。ずしりと変質した空気の中で重くディートリヒが言う。
「誰にだ」
「アレフレッド・ノエルっていう、金髪の男だ。おっさんを呼んだのは他でもない、少しでも情報が欲しいんだよ。知らねえか?」
ディートリヒはコップに注がれたお茶を飲んだ。
一瞬にして枯れた喉を冷えた液体が潤していく。まるで、動揺を隠すような仕草だった。草麻も同じように喉を潤した。エルだけが平常だった。
「アルフレッドね。どんな奴か詳しく言ってくれ」
「ああ」
草麻は腰に付けている収納魔具から伝言魔具を取り出す。
起動させ机の上に置いた。浮かび上がる幻影、声こそ聞こえないが人相はよく判る。ディートリヒは首を掻いた。
「おっさん。やっぱ、知ってるみたいだな」
「………知ってるよ」
ディートリヒは眼を閉じ、何度か言葉を咀嚼すると、言った。
「アルフレッド・ノエル。俺と同じ準二級冒険者だった男だ」
「だった?」
「ああ。その男は二年前に死んでる筈なんだよ」
「でも、生きてるみたいだぜ」
「全くだ。生きて、しかも嬢ちゃんを攫うか。ソウ、詳しく話せ」
ディートリヒは肘を机に置くと、身を乗り出した。
暇潰しと言っている場合では無くなったようだ。
草麻はディートリヒに月の森であった事を話した。
その際にエルの事も紹介したが、ディートリヒは珍しく呆気にとられた表情を作ると楽しげに破顔した。純血の亜人二人にウインドマスターという際物に好まれるのは一つの才能と言うべきか。狂戦士という事を棚に上げて、ディートリヒは草麻の偏った人間関係を他人事のように考えていた。
「お前も随分数奇な奴だな」
「笑えねえよ」
しみじみと言うディートリヒに草麻は不貞腐れた様に答えた。
異世界に飛ばされ、甚大な出来事に巻き込まれ、今片翼が奪われた。お腹一杯というのが、草麻の正直なところである。
「それよりだ、ジンベレルとセーミアさん、それにアルフレッドの事、知ってるなら教えてくれ」
「判った。だけどな、ソウ。悪いが当時俺は荒れてたんでな、詳しくは知らねえ。教えれるのは古巣なら皆が知ってる様な上辺だけだ」
「十分だよ」
「まず、アルフレッドは探索を冒険の主軸に置いた冒険者でな、三年程前にエレントに来たらしい。勿論、目的はヨルミナだ。その時一緒だったのがセーミアとジンベレル。よく俺は知らねえが、弟子であり家族だったらしい。そんで、二年前にヨルミナの探索中に最奥を解明して死亡。冒険者だったセーミアはそれを期に冒険者を辞め裏方になり、ジンベレルは旅に出たらしい。クロスとセリシアならもっと判るんだろうが、俺が知ってるのはこれ位だな」
「いや、少しでも判って助かったよ。サンキュ」
「それで、ソウ。どうするんだ?」
「とりあえず、セーミアさんと話す。何にしても動くのはそれからだな」
肩を竦め、草麻はお茶請けのクッキーに手を伸ばした。
相変らず、暢気と言うか余裕のある態度だ。こんな時でさえ普通を演じれられる青年にディートリヒは僅かの憐憫を抱いた。が、それはそれとして、ディートリヒは野太く笑った。
「ま、仕方ねえか。しかし、ネーヴェ、ユニコーンの亜人か。お前と嬢ちゃんのコンビを一間で倒すとは、楽しいな」
「まあ、おっさんならそう言うと思ったけどさ。俺からすれば、僅かにあった自信を木端微塵にした相手だぜ。正直、力量が離れ過ぎて攻略の糸口すら見つけられねえよ」
「お前とそこの嬢ちゃん、それにセーミアがパーティーを組んでもか?」
「無理だろうな。完全格闘型の俺とパールさんが重圧魔術で捕えられ、その間にセーミアさんが撃破されるだろうさ。何せ、相手に必要なのは一単語の詠唱のみ。踏み込むには遠すぎる」
戦闘とすら呼べなかった立ち合い。
埃を払う様な容易さで、ネーヴェは草麻達を蹴散らした。あの尋常ではない実力に、どう向き合えというのか。草麻は縋る様にエルを見た。
「パールさんは何かないですか?」
お茶を飲み、聞き手に徹していたエルは迷う事無く答えた。
今思えば、一番長くネーヴェの魔術に晒されたのはエルである。何度も何度も勝つ為の道を模索していたに違いない。
「私も草麻と同意見です。おそらくですが、ネーヴェは重力を操ります。その技能だけでも厳しいのに、ネーヴェは人獣化した私を無詠唱で拘束する技術と莫大な魔力を有しています。彼女の周囲に網を張られるだけで、格闘型の私達では手に負えません。前衛を無くした後衛の未来など考える必要もないでしょう」
だが、それでもエルの言葉に希望は無かった。
仮に牽制だけでも、ヒメの様に空間を弾く魔術やディーノが見せた雷の矢があれば多少は違うだろうが、残念ながら草麻とエルは完全な近接タイプ。相性が悪すぎる。草麻は両腕を開きながら、困った風にディートリヒに視線をやった。
「だってさ。おっさん、俺に雇われねえ。依頼料は出世払いとネーヴェとの戦闘権でどうよ」
「はっはっ。いい案だ。が、流石に今の状況じゃ何も言えねえわな」
「了解。ま、けど期待位はさせてくれよ」
「おお、そいつはお前次第だ」
闊達な年長者の笑みを浮かべながら、ディートリヒは草麻の背中を押した。
「へいへい。ほんじゃ、呼んどいて悪いけどもう行くわ。わるい」
押された草麻としては最早やるしかない。
草麻は面倒くさそうに頭を掻くと席を立った。前菜は終わり、これからが本番である。メインというモノはだいたいが重い。それを知るディートリヒもあっさり席を立つと玄関に向かった。
「気にすんな。暇つぶしにしては上出来だった」
「こっちは命掛ってんだけどな」
「冒険者というのはそんなもんだ。気にし過ぎると死ぬぜ」
「肝に命じとくよ」
ディートリヒは最後まで太い笑みを浮かべ去って行った。
扉を閉め、キッチンに戻る。草麻は椅子に座り一度天井を仰ぐと、深く呼吸をした。煩悶を、身体に纏わりつく余分全てを削ぎ落とすような鋭い呼気だった。
「パールさん、どうします?一応此処に居てもいいですけど」
「無論、付いて行きますよ。ここで置いてけぼりは流石に酷いでしょう」
お茶を飲みながら、片眼を開けてエルは言った。
「ですね。それじゃ、行きますか」
草麻は迷いなく立った。
意識の切り替えは得意ではあるが、それが今は苦しい。機械的で無機質な心を自覚するのは、醜い部分を直視するようなものだ。光の無い、汚泥の足元を歩く事しか出来ない自分がひどく矮小な人間に思えた。
「わかりました」
草麻の小さい背中を見て、エルは切なさを憶えた。
それは無理に切り捨てる様な、寂しさと悲しさが詰まっている様な背中。それを承知しなお進もうとする姿にエルは羨望すらしてしまった。脳裏を過るのは、倒れ、手を伸ばし続けた草麻の意志。見届けたいと思った切っ掛けが、そこにあった。
冒険者協会。
専属用の受付に草麻は一人で来ていた。慣れた動作で受付の一つに座ると、ボードにメッセージを打ち込んだ。ぎ、ぎとだらしなく椅子を前後に揺らす事数分。セーミアが現れた。相変らずの柔和な微笑。その仮面が外れたのは一度だけ、自分達を誘った時だけである。
「お待たせしました。おかえりなさい、ソウマさん」
「どうも、ただいまです」
「ヒメさんはどうしたんです?」
「役立たずの従者のせいで疲れたから寝ると言って、放り出されました」
草麻は苦笑しながら肩を竦ませた。
月の魔力に満ちた場所に人間と入れば、負担はさぞ大きかっただろう。セーミアは従者を蹴飛ばす主人を思い描くと思わず噴き出した。
「勘弁してくださいよ」
笑うセーミアに草麻は情けない表情を造ると、誤魔化す様にムーンライトが入っている魔具をセーミアに渡した。
「しかし、流石ですね。ムーンライトの採取依頼はその困難さから三級レベルなのですが」
「今回はヒメの活躍ありきでしたけどね。それで怖い主人が自分の魔具造りたいそうなんで、ムーンライトを保護する魔具の購入代を依頼料から差し引いて貰えますか。魔具に付いてはセーミアさんに任せます」
「判りました。依頼はムーンライト四百輪でしたので、それを引いた数と見合う魔具を見繕いますね」
「はい、五百輪程摘んだんで、百輪は余ると思います」
「それでは確認して来ますので、十五分程ですかね。ちょっと待ってて下さい」
「はい」
ふうと草麻は胸中の鉛を押し出す様な溜息を吐いた。
これからチームである女性相手に腹芸をする困難さと、依頼を達成したのに喜べない現状にわだかまりがあった。エルはとりあえず外で待機して貰っている。何事も無ければ良いが。
草麻が取りとめも無い思索に耽っていると、時間はあっという間に過ぎた様だ。ボストンバッグ型の魔具を持ってセーミアが戻って来た。
「すいません、お待たせしました。先ずは依頼達成おめでとうございます。ソウマさん方が採取したムーンライトは品質、数、共に問題ありませんでした。これにて、今回のムーンライト採取依頼は完了となります」
「ありがとうございます」
「それで、早速なんですけど、先ずこちらがムーンライトが入った特殊収納魔具となります。特別な結界が張った後に収納してあるので、少し開ける位ならいいのですが、開けっ放しにしてしまうと、効能が切れ、ムーンライトが枯れる可能性があるので注意してください」
セーミアはそう言うと、草麻にボストンバッグを渡した。
今更中身を改めたりはしない。草麻はバッグを椅子の脇に置くと、依頼料について話を聞く。セーミアは依頼精算書を机に出すと、草麻に説明した。
「それで、今回の依頼料は四百万ギルになります。そこから特殊収納魔具が五十万ギルになりますので、合計三百五十万ギルになります」
A4用紙程の精算書には七桁の数字が並んでいた。
草麻は眼を閉じ、開けるとぐっと顔を精算書によせ、一、十、百と心の中で桁を数えていく。どうにも信じられない額が印字されているようだった。
「マジですか?」
ようやく顔を上げると、草麻はセーミアの顔をまじまじと見た。
セーミアは草麻の反応が判らないのだろう。怪訝そうに眉を寄せると質問の意図に悩みつつも答えた。
「えーと、魔具の値段ですか?これでも冒険者割引と結界の技術代を引いた金額なのですが」
「ああ、いや違います。確かに魔具の値段にも驚きましたけど、今回の依頼料ってそんなに高かったんですね」
首を振り、草麻はおかしな答えを口にした。
依頼を完遂した人物がその依頼金額を知らないとは、舐めているのだろうか。
「まさか、ソウマさん。知らなかったんですか?」
「はっはっはっ、まあ主人が主人ですから」
突き刺すような半眼のセーミアに草麻は笑う事で謝った。
セーミアもこの変わった主従ならあり得るかと、嘆息し改めて草麻に向き直る。今後パーティーになる人物の暢気さを多少は直しておきたいという、切実な願いがあった。
「一応説明致しますが、ムーンライトは一輪が約一万ギルという高額な薬草になります。その理由としては、マッチングの夜にしか咲かない事、芳醇な月の魔力がある場所にしか群生しない事、摘む際も月の魔力を有さないと枯れる等厳しい条件があるからです。それらの条件を全てクリアして、且つこれだけ大量のムーンライトを採取すればこの金額は当然でしょうね」
「へぇ、ちなみに、ヒメが造ろうとしてるムーンライトを元にした魔具の作製代ってどれ位になりますかね」
「そうですねえ。今回はムーンライトの材料費が掛りませんが、効能、デザイン、他の材料と、ピンキリですけど間違いなく最低百万ギルはするでしょうね」
「あ、了解」
呆気にとられ、草麻は上の空で応えた。
ほんの約半年前までは、五千円ですら高額な一般的な高校生だったのだ。配達依頼等を受注して、漸く数万円、ギルを持つことに慣れてきたが、それでも十万ギルを超える依頼はなかった。それがいきなり三ケタ越えで、セーミアもそれが当然とばかりに会話してくる。
話している内に草麻がふわふわとした、落ち着かない気持ちになるのは当たり前だった。セーミアも此処に来て、草麻の心情がありありと判ったのだろう。これは、新人冒険者が当たる壁の一つである。
「ソウマさん。言っておきますが、貴方の持つ短剣は二千万ギル程の価値があります。ついでにその服もウインドマスターが手を加えた事が証明出来れば、六百万ギル、手甲と脚絆も同様に証明出来れば四百万ギル程でしょうか。合わせると三千万ギルですね。ソウマさん、貴方の装備品だけで家を建てれることを忘れないで下さい」
「………はい」
「それに、もしソウマさんがこのまま順調に冒険者の位を上げていけば、間違いなく今回以上の高額依頼を受注することになります。その時にお金の魔力に呑まれるかは、ソウマさん次第です。この金額が当然と胡坐をかく必要ないですが、謙虚さ持ちつつ慣れる事は必要でしょうね」
事実、金の魔力に呑まれ、身を崩した冒険者は山程いる。
金の匂いに寄って来た野犬の様な人に喰われた者、金に目が眩み分不相応な依頼を受け死んだ者、金の艶やかさで心を汚した者。皆が突然の変化に対応出来ずに倒れている。セーミアが草麻に苦言を呈すのは、それだけ草麻に期待を掛け、心配しているからだろう。
「はい」
草麻もそれが判っているだけに、恥ずかしげに俯くことしか出来なかった。確かに戦闘技術では認められているという自覚はあるが、若輩の身というのが骨身に染みる。自分は二十歳にも成らない只の小僧という事実が草麻を打った。
けれど、草麻は基本的に打たれ慣れているので、至言として受け止める余裕はある。問題は、月の森であったヒメの時もそうだが、重大な決意の前に不意打ちされることだ。不断と思っていた意志が容易く薄れてしまう。
弱いなと草麻は深く溜息を吐くと、先程までの自分を戻す様にゆっくりと空気を吸った。草麻の瞳の奥の火が再燃する。恩人に仇打つ自分が返ってきた。胃に鉛を宿すと草麻は微かに嘲笑した。
「ですが、何はともあれ、改めて依頼達成おめでとうございます」
真面目な話はこれまでと言う風に、軽いテンポでセーミアは言う。
草麻も顔を上げると、合わせる様にあっさりと虚言を口にした。その躊躇いの無い自然な口調に我ながら嫌気がさす。
「いえいえ、それじゃあ折角ですし、三人でお祝いしませんか?今回は俺の家でどうです?」
それでも、やり切るしかないだろう。
何かを得る為には何かを捨てなければならない。それは絶対普遍の真実だ。
「いいですね。それじゃあ、今日はちょっと直ぐに抜けれないので、そうですね四時間後にお伺いしますね。大丈夫ですか?」
「勿論っすよ。それじゃあ、依頼料は取り敢えず全額貯金でお願いしますね」
「わかりました。それでは、また後で」
「はい」
席を離れたセーミアを見送りると草麻は天を仰いだ。
高い天井にはこの二ヶ月間の記憶が映し出される。柔和な微笑を常に宿し、打算もあるが、確かな優しさを与えてくれた女性が走馬灯の様に駆け巡る。
あの時受付で出会わなければ、きっと自分は今冒険者となれては居まい。冒険者の基礎を教えてくれた初めての先生。表か裏か、自身の良心や罪悪感、善と言うまやかしを削ぐように、草麻は深く息を吐いた。
「本当、嫌になる」
それは、草麻が初めて零した弱音だった。
誰かに聞かれる事も無かった言葉は、掬われる事無く虚空に消える。
「はは」
草麻は口角を歪め、頑張れ負けんなというフレーズを壊れたラジオの様に垂れ流し続けた。後一分もしない内に草麻は自己を再建するに違いない。誰に頼る事も無く立てる草麻を、強いと評すべきか弱いと判ずるかは人によって違うだろう。ただ、哀しいというのは間違いなかった。
気付いたら早一年。
これで三十話とは惰弱と思い、十日に一回は投稿すると勝手に決めていたのにこの有様です。気付いたら一万五千文字オーバーで結局纏めきれず二話に分割。なので、次回は早めに投稿出来ると思います。何はともあれ、ちと早いですが、今後とも狼浪奇譚をよろしくお願い致します。




