1話 追放
――ある部屋。
窓は閉じられ、薄暗い室内には時計の秒針だけが響いていた。
机の上には、一冊の古びたノートが置かれている。
誰かが書いたものなのか、長い年月を経たものなのか。
ただ、そのノートは開かれていた。
開かれたページにはいくつかの文章が残されている。
まるで、誰かの人生を記録するように。
そこにはこう書かれていた。
—— ——
快晴。
澄んだ青空のはるか彼方に、その赤子は堕ちていった。
これから起こることなど何も知らないように、あるいは全てを悟り諦めたかの様に。
その赤子は眠っていた。
一月三日。
それが――彼の数奇な人生の始まりだった。
—— ——
ページが、風もないのに一枚めくれる。
――そして、物語は始まる。
四月。
朝の風はまだ少しだけ冷たかった。
二台の自転車が住宅街の坂道を並んで下っていく。
「翔馬、もっと早く!」
「いや、お前が速すぎんだよ!」
前を走る与志野が振り返る。
「入学初日から遅刻したらダサいだろ!」
「まだ時間あるって!」
その顔を、翔馬はもう十年近く知っている。
小学生の頃に出会ってから、長い時間を一緒に過ごしてきた親友。
学校で笑った日も。
くだらないことで喧嘩した日も。
帰り道、どうでもいい話をしながら歩いた日も。
気づけば隣にいることが当たり前になっていた。
翔馬にとっては家に帰れば家族がいる日常とは別の場所で出会った、もう一人の家族のような存在だった。
二人は今日から同じ高校へ通う。
それだけのことなのに、翔馬の胸は妙に浮ついていた。
「右!」
「分かってる!」
ほとんど同時にハンドルを切る。
二台の自転車が、勢いよく角を曲がった。
その先に――
「……あ」
翔馬が声を漏らした。
白い校舎が朝日に照らされている。
その手前には、新しい制服に身を包んだ生徒たち。
校門の脇では桜の花びらが風に揺れていた。
与志野が自転車を止める。
「着いた!案外時間余裕だったな」
「お前、さっきまで遅刻するとか言ってたくせに」
「登校初日だぞ!早めに行っとくに越したことねえよ!」
翔馬も自転車を降りた。
少し先にある校門を見上げる。
門の横には学校名が刻まれていた。
新界高校。
どこにでもありそうな公立高校。
少なくとも、この時の翔馬はそう思っていた。
「行こうぜ、翔馬」
「ああ」
二人は自転車を押しながら、校門へ向かって歩き出した。
新しい制服。
新しい教室。
新しい友達。
そんな予感だけを胸に抱いて。
二人はまだ知らなかった。
この学校で待っているものが、
自分たちの人生を大きく変えることになるなんて。
校門をくぐった二人は駐輪場に自転車を置き、そのまま校舎へ向かった。
案内板に従って体育館へ入ると、すでに多くの新入生が集まっていた。
「新入生はクラスごとに並んでくださーい!」
体育館の前方から教師の声が飛ぶ。
「翔馬、俺たち同じクラスだよな?」
「たぶん……でも名前順だし、クラスは一緒でも席は離れてんだろ」
「それはそうか、じゃあ俺自分の席行くわ」
「分かった、後でな」
与志野が翔馬から離れていく。
翔馬はその背中を眺めながら小さく息を吐き、自分の席へと向かう。
そこには見知らぬ生徒たちが何人も並んでいる。
少し気まずい。
誰も話していないわけではない。
けれど、ほとんどの生徒がまだ緊張しているのか、どこかよそよそしかった。
少しあたりを見回してから翔馬は指定された席へ腰を下ろす。
知らない顔ばかりだった。
その中で、隣の席に一人だけ妙に目を引く男子がいる。
明るい色の髪。
日本人離れした顔立ち。
透き通るような色の瞳。
――ハーフ……か?
翔馬がそんなことを考えているとその男子と目が合った。
すると――
「なあ」
「……ん?」
「入学式ってどんくらいやんのかな」
「ん……一時間くらいじゃねえか?」
「一時間か〜、トイレ我慢出来るかなー……」
「いや、まだ始まってないんだし行けばいいじゃん」
男子が一瞬固まる。
そして吹き出した。
「ハハッ!確かに!」
翔馬も思わず笑ってしまった。
「名前は?」
男子は笑いながら答える。
「俺はエルサ、フィンランドのハーフなんだ」
「フーン……俺は亜里野翔馬。」
「翔馬か、よろしく!」
「よろしく」
笑顔で握手を交わす。
エルサは嬉しそうに笑いながら会話を続ける。
「てかこの高校なんか名前だけすげえよな、新界高校って」
「そうか?普通にありそうだけどな」
「なんか新界って漢字かっこよくね?」
「なんだそりゃ」
二人は小さな声で笑った。
体育館の壇上では、入学式の開始を告げる準備が始まっている。
そのときだった。
体育館の後ろの扉が勢いよく開いた。
何人かの生徒が、慌ただしく体育館へ入ってくる。
先頭を歩いていたのは新入生らしき男子だった。
制服は少し汚れている。
髪も乱れていて、鼻からは血が流れていた。
翔馬は思わず目を向けた。
新入生の後ろには三人の男子と女子が続いている。
その中でも一人だけ妙に落ち着いた様子の男子がいた。
マッシュヘア。
眠そうでも、慌てているわけでもない。
まるで何事もなかったかのような飄々とした顔をしている。
その後ろには坊主頭の男子と一人の女子。
四人はそのまま体育館の中へ入ってくる。
「……あいつ大丈夫か」
翔馬が呟いた。
「鼻血出てる……初日から可哀想だな、なんかあったのか?」
エルサも心配そうに見る。
すると、近くにいた教師が彼らに気づいた。
「優大!」
教師の声が体育館に響く。
「遅いぞ!少しは二年生としての自覚を――」
そこまで言ったところで、教師の視線が先頭の新入生へ移った。
「……って、君!どうしたんだその鼻血!」
教師が慌てて近づいていく。
「大丈夫か?」
「はい……」
新入生は小さく頷いた。
しかし、その声にはどこか怯えたような響きがあった。
教師は彼の制服についた汚れにも気づく。
「制服も汚れてるじゃないか、何があった?」
「……」
新入生は答えない。
その様子を見ていた優大が横から口を挟んだ。
「いやー、こいつさっき校門のとこで派手に転んじゃってて」
優大は笑いながら言った。
「俺らが急いで連れてきたんすよ」
「転んだ?」
「そうそう、頭からドテンって」
優大は軽い調子で笑う。
「な?」
新入生に視線を向ける。
「……はい」
ほんの一瞬。
新入生の肩が小さく震えた。
「そうか……まあ怪我が酷くないならいいが」
教師はまだ心配そうだった。
「保健室には――」
「大丈夫っすよ!」
優大が明るく遮る。
「入学式始まっちゃうんで、俺らもう行きますね」
「おい、優大――」
「はーい」
優大は教師の言葉を軽く流す。
「行こーぜさわ、サメ」
坊主の男子が小さく頷く。
隣にいた女子も続く。
三人はそのまま、二年生の席へ向かって歩いていった。
翔馬は彼らの背中を目で追った。
「……なんだったんだ?」
「さあ?」
エルサが首を傾げる。
「でもあいつ……なんかビビってなかった?」
翔馬も頷いた。
あの怯えた顔が、なぜか頭から離れなかった。
けれど――
「新入生の皆さん、前を向いてください」
教師の声が響く。
翔馬は前へ向き直った。
今はまだ、入学式だ。
それ以上考えることもなかった。
やがて体育館のざわめきが消え壇上に校長が立つ。
「それでは、ただいまより――」
翔馬の波乱の高校生活が始まった。




