第17章:闇の中の警告
自宅の小さなリビングで、葵はソファにゆったりと腰を下ろし、子犬の「しお」を腕に抱いて一緒にテレビを眺めていた。
しばらくして、彼女は手元の子犬に視線を落とした。
「んー……なんだか急に喉が渇いちゃったな」葵は考え込むように首を傾げた。「それに、何か甘いものも食べたい気分」
「ワンッ!」しおが元気よく鳴いた。
その反応の良さに葵はくすっと笑い、スマートフォンに目をやった。
午後9時30分。
彼女の口元に、ふわりと小さな笑みが広がった。
「ねえ、ちょっと近くのお店まで出かけてみない? 夜のお散歩がてら」
葵は再びしおを見つめ、その耳の後ろを優しく撫でてやった。
「しおのおやつも買ってあげようかな」
「ワンッ! ワンッ!」
しおは嬉しそうに吠え、まるで言葉をすべて理解したかのように尻尾を振った。
葵は声を立てて笑った。「ふふっ、やっぱり気に入ってくれたね!」
彼女は立ち上がると、ソファの脇に置いてあった黒いパーカーを手に取り、財布を掴んで外へと向かった。
外に出ると、彼女は背後のドアに鍵をかけ、その鍵をズボンのポケットに滑り込ませた。腕の中に心地よく収まった「シオ」を抱え、彼女は通りを歩き出した。
夜の空気はほどよく涼しく、穏やかな風が頬を撫でていく。白いクロックスが舗装された道を柔らかく踏みしめる音を響かせながら、彼女はその静かな雰囲気を楽しんでいた。
「あぁ、やっぱり夜の涼しい風は最高だね」葵は腕の中の子犬に視線を向け、微笑んだ。「ねえ、シオ?」
「ワン!」
葵はくすりと笑い、街灯に照らされた歩道を進んでいった。すれ違う人々の姿や、遠くを通り過ぎる車の気配が感じられる。
歩きながら、ある馴染みの店のことが頭をよぎった。
「白川さんのお店、この時間だと開いてないかな」スマホをちらりと確認しながら、彼女はそう思った。残念だな。立ち寄れたらよかったのに。
彼女の表情がふわりと和らぐ。元気にしてるといいけれど。最後に会ってから、もう随分経つな。
そこから、彼女の思考は「美空」の誕生日の夜へと遡った。
美空と対峙したあとの、彼の瞳に宿っていた悲しげな色。その場に座り込んでいた、あの落胆したような表情。
葵の笑みは、次第に消えていった。
……あの夜からずっと。
腕の中のシオを少し強く抱きしめると、シオは不思議そうに彼女を見上げた。
またあの記憶に浸ってしまっていたことに気づき、葵はまばたきをした。そして、ふっと首を振って、思考を無理やり切り替えた。
「きっと、ただ忙しいだけよね」自分に言い聞かせるように、彼女の表情は再び柔らかくなった。「明日、電話してみよう。元気にしてるか聞いてみようかな」
そう心に決め、彼女は歩き続けた。涼やかな風が、頭の中をすっきりとさせていく。
それから10分ほどして、彼女は別の店にたどり着いた。
店の前で立ち止まると、彼女は慎重にシオを地面に下ろし、入り口の横にある頑丈な柵にリードをつないだ。
「よし、いい子だね。ここで待ってて。すぐ戻ってくるから」
「ワンッ!」シオは尻尾を振りながら、そう鳴いた。
葵は微笑み、愛おしそうにその頭を撫でた。「いい子ね」
最後にもう一度ポンと頭を叩いてから、葵は入り口の方へ向き直った。近づくと自動ドアが開き、彼女は中へと足を踏み入れた。
「こんばんは」葵は店員に丁寧な笑みを向けて挨拶した。
「こんばんは!」店員も温かく応えてくれた。
葵は店内の通路を進み、目当ての品がある場所へとまっすぐ向かった。
しばらくして、彼女はアイスクリームをいくつか、それから犬用のおやつを一袋手に持って店から出てきた。レジで会計を済ませ、店員に礼を言ってから再び外へ出た。
「ワン!ワン!」シオが興奮した様子で吠え、尻尾を激しく振って出迎えた。
「ふふ、ただいま!」葵は笑った。
彼女は繋ぎ止めていた場所からリードを外すと、興奮している子犬をひょいと抱き上げた。
「はい、これ。いい子にしてたご褒美よ」
葵がおやつを差し出すと、子犬は嬉しそうにそれをパクりと食べた。
その様子を見て微笑んだ葵は、買ってきたアイスクリームの包みを開けた。一口食べると、満足げに小さな声を漏らした。
「ん〜!おいしい」甘くクリーミーな味わいを堪能しながら、葵の瞳が喜びで輝いた。
「あぁ……これ、まさに今欲しかったものだわ」
葵がアイスクリームを味わっていると、もう一人がコンビニから出てきて、彼女の隣で足を止めた。その手にもアイスクリームが握られている。
葵がふと横に視線を向けたのと、その人物がこちらを向いたのが同時だった。
二人の視線が重なる。
「千恵子先輩?」葵は驚いて目をパチクリさせ、片方の眉を上げた。
千恵子はおやつを飲み込むと、口元に小さな笑みを浮かべた。「あら、葵ちゃん!こんなところで会うなんて思わなかったわ」
もうどもったりしないんだ……葵はニヤリと笑った。「それはこっちのセリフですよ」
葵の視線が千恵子の手に持つアイスクリームへと移り、彼女の口角がふわりと上がった。 「私たち、二人とも同じものを求めてここに来たみたいね」
千恵子は、葵の手にある食べかけのアイスクリームに視線を向けた。赤茶色の瞳が、面白がるように輝く。
「本当ね。しかも、同じ味を食べてる!」
二人は顔を見合わせて楽しげに微笑み合い、くすくすと笑い声を上げた。
やがて千恵子の視線は、葵の腕の中にすっぽりと収まっている小さな子犬へと向けられた。
「あれ、もしかして葵ちゃんの犬?」千恵子は目を輝かせて尋ねた。
「うん!」葵は頷くと、千恵子によく見えるように「しお」を少し持ち上げてみせた。「この子、しおっていうの」
「ワンッ!ワンッ!」しおは尻尾を勢いよく振りながら、初めて会う千恵子に元気いっぱいの挨拶をした。
千恵子の表情がパッと明るくなった。
「わあ、すごく可愛い!」千恵子はそう声を弾ませ、子犬の頭を優しく撫でた。「ねえ、しおちゃん!私は千恵子だよ」
「ワンッ!ワンッ!」
「ふふ、しおちゃん、千恵子ちゃんのこと気に入ったみたいだね」葵が言った。
「もし嫌われたら、私、立ち直れないよ」千恵子が茶目っ気たっぷりに返すと、葵はくすりと笑った。
しばらくしおを可愛がったあと、千恵子は姿勢を正し、二人は並んでコンビニから歩き出した。
「それにしても、こんな遅い時間に葵ちゃんに会うなんて珍しいね」千恵子は葵に視線を向けた。「眠れなかったの?」
「うーん……まあ、そんなところかな」葵は軽く肩をすくめると、しおにおやつを一つ与えた。「急に喉が渇いて、甘いものが食べたくなっちゃって。それで、ちょっと散歩でもしようかなって」
千恵子は「なるほど」といった様子で微笑んだ。「わかるよ。長い一日のあとって、無性に甘いものが欲しくなること、あるよね」
葵は彼女に目を向けた。「バイト、大変だった?」
一瞬、千恵子の笑みが揺らいだ。
歩きながら、彼女の赤茶色の瞳は地面へと向けられた。手元では、持っていた包み紙が指先でカサリと音を立てた。
「まあ、そんな感じかな」千恵子は葵の方を向き、どこか興味深げな笑みを浮かべた。「葵ちゃんは?今日はどんな一日だった?」
葵はその問いに、まばたきをした。
すぐに、今日ライトと過ごした時間のことが頭をよぎる。頬が熱くなるのを感じて、千恵子に気づかれないよう、あわてて視線を落とした。
あぁ……今日は……。
「今日はね……」言葉を濁しながらも、口元には自然と小さな笑みが浮かぶ。「……いろいろあったよ」
そう言って顔を上げると、目を細めてパッと明るい笑顔を見せた。
「それに、すごく楽しかった!」
千恵子は葵の表情をじっと観察し、すべてを察したような笑みを浮かべた。
「あら? そうなの……」
葵は片目を開けて尋ねた。「それ、どういう意味?」
「ん? 別に、なんでもないよ!」千恵子は無邪気な様子で答え、さっと視線をそらした。
葵のこめかみに、たらりと汗が伝う。……絶対、何か考えてる!
問い詰めようとした矢先、千恵子は前方の道へと視線を向けた。少し先に、街灯に照らされた誰もいない公園があり、夜風に揺られてブランコが静かに動いていた。
千恵子の瞳が輝く。
「あ、ねえ! あそこでちょっとおしゃべりしていかない?」公園を指さしながら、彼女は提案した。
期待に満ちた笑顔で葵を振り返る。「いいでしょ?」
葵は視線を公園の方へ向け、それから小さくうなずいた。
「うん、いいよ。行こう」
.............................
「長い一日のあと、よくここで息抜きをするの」と千恵子は言った。ブランコに腰を下ろし、鎖をしっかりと握りながら、ゆらゆらと体を揺らしている。
「こうしていると、頭の中がすっきりするのよね」
「わかる気がする」葵は微笑み、隣のブランコに腰を下ろした。
葵が足でブランコを優しく揺らすと、その膝の上には汐が心地よさそうに座り、小さな舌をぺろりと出していた。
葵は視線を落とし、自分の白いクロックスを見つめた。その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
「静かな場所にいると、考える時間が持てるから……」と、葵はつぶやいた。「……物事を振り返ったり、別の視点から眺めてみたりできるの」
千恵子は小さく微笑み、地面を見つめながら頷いた。
「ええ、そうね」
彼女はくすりと笑った。「たとえ、子供のための遊び場であってもね」
葵は首を振った。「子供専用ってわけじゃないわ。自分が安心できて、リラックスできる場所なら、何の問題もないでしょう?」
千恵子は顔を上げ、夜空を流れる雲を見つめた。
「確かにそうね」彼女の表情には、まだ笑みが残っていた。「なんだか、こういう場所にいると、すべてがうまくいくような気がしてくる」
一瞬、彼女は沈黙した。
「でも……」彼女の表情が、次第にどこか遠くを見つめるようなものに変わっていく。「……すべてがうまくいっているふりをしたからといって、実際にうまくいっているとは限らないのよね」
突然の口調の変化に、葵は驚いて彼女の方を向いた。
千恵子は空を見つめたまま、ブランコの鎖を握る指にぐっと力を込めた。
「どうしても成し遂げたい目標があるときって、何ものにも邪魔されたくないものだから」
彼女の握る力は、さらに強まった。「たとえ、それを追い求める代償が、自分でも認めたくないほど大きなものになってしまったとしても……」
彼女は視線を落とした。その赤茶色の瞳には、どこか陰りが宿っている。
「たとえ、自分の命を危険にさらすことになったとしても……」
葵は静かに彼女を見つめた。その眉間には、わずかに皺が寄っている。葵は千恵子の言葉を一度受け止めてから、口を開いた。
「でも……そう感じてしまうのは、もしかして、すべて一人で背負い込んでいると思い込んでいるからではないでしょうか?」
千恵子は瞬きをした。不意を突かれたのか、唇を少し開けたまま、葵の方を振り返る。
葵は優しく微笑むと、視線を「シオ」へと移した。子犬の頭を撫でると、シオは心地よさそうにその手に身を寄せた。
「あくまで私の考えですけれど」と、葵は言葉を継いだ。「でも、そう感じてしまう気持ち、私にも分かります。私自身、かつては『すべて自分で何とかしなきゃ』と思い込んでいた時期がありましたから」
彼女の指先が、シオの毛並みを優しく撫でていく。
「けれど、仲間たちと出会い、小夜凪に入学してからは、少しずつ変わっていきました。何もかも一人で抱え込み続ける必要なんてないんだ、と気づけたんです」
葵は再び千恵子に視線を向けた。その微笑みは、先ほどよりも温かさを増している。
「千恵子先輩も、一人で抱え込む必要はありませんよ。どんな状況であっても、先輩を支えてくれる仲間がいます」
葵は一呼吸置くと、少し茶目っ気のある笑みを浮かべて付け加えた。
「それに、私だってここにいますから」
千恵子の息が、ふと止まった。
一瞬、彼女は葵を見つめ、その言葉を噛みしめていた。やがて、その顔に小さく、心からの笑みが浮かんだ。
「へぇ……葵ちゃんとは、本当に似てるね」
そう言うと、千恵子はブランコから飛び降り、うんていの方へと歩いていった。
「なんだか、いいものだね……」と、彼女はつぶやき、手を伸ばして金属の棒を掴んだ。「自分の気持ちをわかってくれる人がいるって」
彼女は体を持ち上げ、先ほどよりも少し弾んだ様子で、うんていを渡り始めた。
葵は微笑みながら頷いた。「でしょ?」
「ワンッ!」
子犬が同意するように吠え、二人はそちらに視線を向けた。
「ふふっ!」葵がくすくすと笑う。
千恵子も笑い声を上げ、次の棒へと手を伸ばした。
だが、前へ体を振った瞬間、指が滑ってしまい、しっかりと掴むことができなかった。
「わっ――!」鈍い音を立てて、彼女は地面に落ちた。
「うっ……」千恵子は顔をしかめ、とっさに片手を胸元に抱え込んだ。
「千恵子先輩!」葵はブランコから慌てて飛び降りると、子犬のシロをしっかりと抱えたまま駆け寄ってきた。「大丈夫ですか?!」
千恵子は無理に小さな笑みを浮かべ、恐る恐る指を動かしてみせた。
「うん、大丈夫。ちょっと手を痛めちゃっただけ。最近、仕事が結構ハードでね」
葵は驚いたように眉を上げた。「かなり大変なお仕事なんですね?」
千恵子は小さく笑い、葵の心配を打ち消すように言った。「大したことないよ。平気、平気」
「あら、二人ともこんなところにいたのね」
突然の声に、二人はそちらを振り返った。
「玲奈先輩?!」葵は目を見開いた。
遊び場の滑り台のトンネル部分に、レイナがうつ伏せになっていた。まるでずっとそこにいたかのように、何食わぬ顔でペロペロキャンディを舐めている。
アオイは信じられないといった様子で彼女を見つめた。「……いつからそこにいたの?!」
「ん?」レイナはまばたきをして、二人の方へ顔を向けた。「もうしばらく前からかな」
チエコの額に、たらりと一筋の汗が伝う。「私たち……全然気づかなかったよ」
レイナはただ、「ふーん」と曖昧な返事をしただけだった。
「ちょっと、違うでしょ!」アオイは身を乗り出し、彼女を指さした。「なんでこんなところにいるのよ?!」
「二人と同じだよ」レイナはキャンディを口にくわえたまま、ニカっと笑った。「この穏やかな景色を楽しんでたのさ」
二人が何か言い返す間もなく、レイナはくるりと仰向けになると、そのまま滑り台を滑り降りていった。カーブを軽やかに通り抜け、出口から飛び出すと、数歩先に見事に着地してみせた。
満足げにぐーっと背伸びをしてから、両手をズボンのポケットに突っ込み、肩越しに二人を振り返った。
「それに、ずっと乗りっぱなしだったからさ。ちょっと休憩しようかなって」
アオイはまばたきをした。「乗りっぱなし?」
「そう」レイナは頷き、遊び場の反対側を親指で指し示した。「あそこに停めてあるんだ」
「えっ?」二人は彼女が指した方を見た。
アオイは目を見開いた。遊び場の隅に、一台のバイクが停められていたのだ。
アオイはゆっくりとレイナの方へ向き直り、あんぐりと口を開けた。
「も、もしかして……あれに乗ってきたの?!」
アオイが言い終わる頃には、レイナはすでに彼女の目の前にしゃがみ込んでいた。その視線は、アオイの腕の中にいる子犬に釘付けになっていた。
「んー」アオイの驚きなどどこ吹く風といった様子で、レイナは子犬に向かって満面の笑みを浮かべた。「また会えたねぇ、ちびシオちゃん!」
「ワンッ!ワンッ!」と、シオは興奮した様子で吠え、尻尾を振った。レイナが優しくその頭を撫でてやると、シオはうっとりとした表情でその手に身を寄せた。
「あらあら、いい子ねぇ。本当にいい子だこと!」
シオが甘えるように身を寄せてくると、レイナの表情はとろけるように緩んだ。
葵はその様子をじっと見つめていた。(……ねえ、私の話聞いてる!?)
「どうして気づかなかったのよ!?」葵は声を上げた。「それに、あのバイク、本当にあんたのものなの!?」
レイナはようやく顔を上げ、「まあ、そうだけど」と答えた。
彼女は姿勢を正し、腰に手を当てて言った。「私、もう18歳だから。ちゃんと免許も持ってるよ」
葵は口をあんぐりと開けたまま、その場に凍りついたように立ち尽くした。
その隣で、後輩のあまりの呆然ぶりを見て、千恵子がくすりと笑った。
レイナは二人を見比べ、やがて千恵子に視線を向けた。
「それより、千恵子……」レイナの表情が少し和らぐ。「腕の具合はどう? 調子が悪いって聞いたけど」
千恵子は一瞬、体がこわばった。「あぁ……」
彼女は反射的に痛めた腕を体の方へ引き寄せ、とっさに背中側へと隠した。
「大丈夫よ」千恵子は静かに答えた。「本当に」
レイナは数秒間、千恵子をじっと見つめた。その視線は、千恵子が隠そうとした腕に留まっていた。
それから、小さく頷いた。「そっか」
千恵子はかすかに微笑み、軽く会釈をした。「気にかけてくれて、ありがとう」
続いて、葵の方を向く。「また話せてよかったわ、葵ちゃん」
「あ、ああ! うん!」葵は我に返り、慌てて頷いた。
千恵子は微笑むと、最後にもう一度、子犬に視線を落とした。
「それから、シオちゃん。あなたに会えて、本当によかったわ」
「ワンッ!」とシオが嬉しそうに吠えると、紫色の髪の少女は目を細めて、温かな笑みを浮かべた。
「ふふっ、可愛いね」千恵子は姿勢を正すと、二人に向かって手を振った。
「じゃあね、葵ちゃん。レイナ先輩も、またね!」
「またね!」とレイナが応える。
「うん、またあとで!」葵も軽く手を振って言った。
千恵子がくるりと背を向けて歩き出し、静かな通りを遠ざかっていく姿を、二人は見送った。
千恵子が小さな笑みを浮かべたまま歩いていると、ズボンのポケットから軽やかな着信音が響いた。
彼女はスマートフォンを取り出したが、画面のメッセージに目を通すにつれ、その明るい表情は次第に消えていった。
瞳が揺らぐ。一瞬の沈黙の後、彼女はスマホをポケットに戻し、両手をジャケットのポケットに突っ込んだ。
「よし。行こうか、葵ちゃん」レイナは微笑みながら、自身のバイクの方へと向き直った。
「え?」葵は眉をひそめてレイナの方を向いたが、そのまま彼女の後についていった。「どういうことですか?」
バイクの横に立ち、レイナは小さく笑った。葵はシオを抱えたまま、そのすぐ後ろに立っている。
「近くで見ると、もっと大きい……」葵は驚きに口を少し開けたまま、視線を上げてレイナを見つめた。
「ふふん」レイナはニヤリと口角をさらに上げた。「これが私の、ホンダCBR250RRだよ」
葵はそのバイクをじっと見つめた。洗練された車体と、艶やかな赤のアクセントが目に飛び込んでくる。
「……綺麗」葵はそう呟いた。
レイナはニヤリと笑い、バイクの燃料タンクを撫でた。「でしょ? この子の名前は『クロ』っていうの」
アオイは瞬きをした。「バイクに名前をつけたんですか?」
「もちろん」レイナはクスクスと笑った。「この子は、私の旅の相棒みたいなものだから」
「なるほど」アオイはバイクに視線を戻し、頷いた。「先輩にも、夜の相手をしてくれる友達がいるんですね」
「ちょっと〜! それどういう意味よ?」レイナはふんと鼻を鳴らしてアオイを横目で見ると、バイクに跨がり、予備のヘルメットを手に取った。
「ほら」そう言って、それをアオイの方へ放り投げた。
アオイはそれを受け止め、驚いて瞬きをした。「えっ?」
「さあ、乗って」レイナは自分の後ろのスペースを指し示し、アオイが近づいてくるのを待った。
「あの……やめておきます」アオイは一歩後ずさりし、不安げな表情でバイクを見つめた。あんなものに乗るなんて、絶対にありえない!
(これ、立派な乗り物じゃない!)と、アオイは心の中で思った。
「ははっ! どうしたの? 怖いの?」レイナはからかうように言い、自分もヘルメットを被った。
アオイは小さく鼻を鳴らした。「べ、別に怖くなんてありません!」
レイナはクスクスと笑いながらスロットルを回した。エンジンが低く唸りを上げて目覚める。
「いいから。ちょっと乗せてあげたいだけだよ」
「私は帰りますけど……誘ってくれてありがとうございます」アオイは気まずそうに笑い、予備のヘルメットを差し出した。
「アオイ、いいから乗ってよ」
「いえ、結構です。本当に、結構ですから」アオイは首を横に振った。
「18歳の若者に自分の命を預けるなんて、到底無理!」
レイナはため息をついた。「やってみれば、そんなに悪くないってわかるよ。ただ、ちょっと見せたいものがあるだけだから」
「ワンッ! ワンッ!」シオが興奮した様子で吠えた。
レイナはクスクスと笑った。「ほらね? シオだってワクワクしてるよ」
アオイは子犬に目をやった。子犬は舌を出しながらハァハァと息を弾ませ、尻尾を激しく振っていた。
「うーん、どうかな……」
「大丈夫、約束する」レイナは安心させるような笑みを浮かべた。「きっと楽しいよ」
「でも、ちょっと……」
「アオイ、乗って」
「絶対に乗らないから――」
「キャーーーッ!!!」
バイクが勢いよく走り出すと、アオイの悲鳴が夜の街に響き渡った。ヘルメットの下で、彼女の髪が風になびく。アオイはレイナの腰にしがみつき、パニックで全身をこわばらせた。風が猛烈な勢いで横を通り過ぎていく。
「ちょっと、叫ぶのやめてよ!」レイナは笑いながら、前方の道路に注意を向け、交通の流れを縫うようにバイクを操った。
「バイクに乗るの、これが初めてなのよ!」アオイは叫び返した。「どんな反応をしろっていうのよ!?」
「さあね! せめてもう少し静かにするとか!?」レイナは声を上げて笑い、車を追い越しながらさらに加速した。
「ワンッ! ワンッ!」アオイのジャケットの胸元にすっぽりと収まったシオが、楽しそうに吠えた。
レイナは笑った。「あらら、シオの方がずっと楽しんでるみたいだね!」
アオイは苦笑いした。「シオは子犬でしょ! 比べないでよ!」
「もう、本当にリョウにそっくりだね」レイナはヘルメットの下で呆れたように笑い、こう続けた。「ねえ、私を信じて。葵、あなたには何も起こさせないから」
葵はレイナの腰に回した腕にぐっと力を込め、その背中に顔を埋めた。
「顔を上げて」レイナの声が少し優しくなった。「景色を楽しんで。見逃したらもったいないよ」
葵は一瞬ためらったが、ゆっくりと顔を上げた。淡いラベンダー色の瞳がぱちりと開く。その視界に飛び込んできたのは、ソウキョシの街を彩る眩い光の数々だった。バイクが駆け抜ける横を、光の帯が次々と通り過ぎていく。
「わぁ……」葵は感嘆の声を漏らし、しっかりと景色を見ようと視線を上げた。
「でしょ?」レイナはヘルメットの下でニカっと笑った。「夜のドライブって、最高でしょ!」
「すごい……」葵は瞳を輝かせ、驚きに目を見開いた。
「まだまだこれからだよ!」レイナは明るく宣言した。「ソウキョシの街をあちこち案内して、この街のいいところを全部見せてあげる!」
葵はまばたきをした。「ソウキョシの、全部?」
「そう!」レイナは頷き、その表情をさらに和らげた。「ここに住んで一年半になるけど、街の全部はまだ見てないでしょ? 特に、夜の姿はね」
前方の道路に視線を向けたレイナは、少し温かみを帯びた声で続けた。
「だから、この街の美しさを教えてあげる。あなたのお母さんがかつて愛し、守ろうとした、この街の姿をね」
「お母さん」という言葉に、葵の瞳が揺れた。彼女はレイナの腰に腕を回したまま、その背中に身を預け、柔らかな笑みを浮かべた。
頭上には夜空に瞬く星々。バイクはライトアップされた建物や、行き交う車の光の川のそばを通り過ぎていく。
不思議と、葵の心から恐怖は消えていた。それどころか、どこか「安心感」さえ覚えている。きっと、レイナが隣にいて、ソウキョシの街を堂々と案内してくれているからだろう。 「……悪くないかも」
そう心の中でつぶやき、彼女は柔らかな笑みを浮かべて、その道中を心ゆくまで楽しむことにした。
約束通り、レイナはアオイを連れて町を案内して回った。お気に入りの場所に立ち寄ってはアオイに見せ、また次の場所へと向かう。
やがて、二人が次々と場所を巡る中で、夜の空気は彼女たちの笑い声や楽しげなおしゃべりで満たされていった。二人は、この小さな冒険のひとときを存分に味わっていた。
数時間後、彼女たちは星空の下に広がる町を見下ろせる、草に覆われたなだらかな丘のそばに立ち寄り、休憩をとることにした。
「きれいだね」レイナは両手をポケットに突っ込んだまま、クロ(愛車)に寄りかかり、ニヤリと笑いながら言った。
「うん」アオイは小さく微笑んで頷いた。
アオイはレイナの隣の草地に座り、膝を抱えた。その傍らでは、シオが穏やかに眠っている。
丘を吹き抜ける涼しい風が少女たちの髪を揺らし、眼下にはソウキョウシの町の明かりが瞬いていた。
レイナは横にいるアオイに視線を向けた。そのエメラルドグリーンの瞳には、再びからかうような光が宿っている。
「さっきは、すごく怖がってたよね」レイナはクスクスと笑った。「叫び止むまで、随分時間がかかったじゃない」
アオイの頬がほんのりと赤らんだ。
「だって、あなたがバイクに乗るなんて知らなかったんだもん」アオイは、シオの毛並みを何気なく撫でながら、小さくつぶやいた。「そりゃあ、怖いに決まってるでしょ」
レイナは笑った。「まあ、確かにね」
彼女はかかとでバイクの車体を軽く突いた。「実は、いつも乗ってるんだよ。たまには学校にクロを持っていくことだってあるし」
アオイは勢いよく顔を向けた。「えっ、本当に!?」
「そうだよ」レイナは頷いた。「校舎の前庭、自転車が並んでるところに停めてたんだ」
彼女は顎に手を当て、考え込むように言った。「まあ、毎日じゃないけどね」
アオイは「へえ……」と声を漏らし、再び視線を足元に戻した。
「じゃあ……あれ、あなたのバイクだったんだ」
レイナは首を傾げた。「気づいてたの?」
アオイは頷いた。「一度、学校から帰る時に見かけたの」彼女は少し照れくさそうに笑った。「てっきり、アラタ先生のバイクだと思ってたよ」
レイナは鼻で笑った。「それを聞いた時の先生の顔が、目に浮かぶようだね」
二人は顔を見合わせ、静かに笑い合った。
笑い声が消えていく中、レイナの表情には一瞬だけ笑みが残ったが、やがて彼女の瞳は眼下に広がる街へと向けられた。
ソウキョウシの街の明かりが、彼女の瞳に淡く映り込む。
そして、その笑みはゆっくりと消えていった。
駐車場。仮面の襲撃者。白い封筒。
その記憶が、目に見えない結び目となって彼女の胸を締め付けた。
彼女はクロから離れると、丘の端へと歩み寄り、アオイの隣に立ち止まった。
しばらくの間、彼女はただそこに立ち、二人の間に流れる静寂を風に委ねていた。
「ねえ……」レイナが静かに口を開いた。「あなたと初めて会ったとき……」
彼女はアオイを見下ろした。そのエメラルドグリーンの瞳には、普段とは違う柔らかな色が宿っていた。「あなた、お母さんにそっくりだったの」
アオイは彼女を見上げた。
「ただ見た目が似ているだけじゃないわ」レイナは言葉を続けた。「その纏っている雰囲気も、お母さんと重なったのよ」
彼女の視線は、再び眼下に広がる光の海へと戻った。「かつての『ナイチンゲール』がいなくなった後も……サヨナキ高校が今も存在しているのは、彼女のおかげなの」
再び、かすかな笑みが浮かんだ。「ソウキョウシの街を守るという約束も、同じように残っているわ」
レイナと同じように街を見つめるアオイの瞳も、優しく和らいだ。
「ええ……」彼女はつぶやいた。「お母さんは、すごい人だった」
その表情には、どこか切なさを帯びた笑みが浮かんだ。「この街を守るための組織を作ったのに……」
彼女は膝を抱える手に、ぐっと力を込めた。「それなのに、自分の娘たちには、そのことを何も教えてくれなかったのね」
「彼女は、あなたを守ろうとしていたのよ」レイナは穏やかに答えた。「あなたを……それから、キョウカを」
アオイは彼女を振り返った。
レイナは静かに息を吐いた。「アイコ叔母さんは、自分が戦っていたものからあなたを遠ざけることが、一番安全だと信じていたんでしょうね」
彼女の視線は地平線へと向けられた。「彼女の過去から、あなたを遠ざけるために」
一呼吸置いて、彼女は続けた。「だから、ソウキョウシのことや、サヨナキ高校のこと、それに『ナイチンゲール』のこと……あなたには何も話さなかったのよ」
再び、静寂が風に乗って流れてきた。
アオイはレイナの横顔を見つめ、その言葉の背後に秘められた重みを感じ取った。
「私が望んでいるのは……」レイナは、風の音にかき消されそうなほど小さな声で言った。「アイコ叔母さんが遺したものを、受け継いでいくこと」
彼女の瞳は、街を見つめたまま動かない。
「かつて彼女がそうしたように、この街を守ること」
そう言ってから、彼女は再びアオイに視線を落とした。
「そして、彼女にとって何よりも大切だったものを守ること」
声はさらに柔らかくなった。「彼女が愛した人たちを」
アオイは息をのんだ。レイナが隣の芝生に腰を下ろすと、アオイは驚いて目を見開いた。
「アオイ」レイナの声は、突然、凛とした響きを帯びた。それでも、その響きはどこか優しかった。「どんなことがあっても、一人にならないで。いい?」
突然の真剣な口調に、アオイは瞬きをした。
「急にどうしたの?」
レイナは、小さく微笑んだ。
「うまく説明できないんだけど……」言葉を探すように間を置いて、彼女は言った。「……今は、一人でいてはいけないような気がするの」
彼女はアオイを見つめた。「アヤネやメイ、ライト、あるいは他の友達……誰でもいいから、信頼できる人たちのそばにいてね。約束してくれる?」
レイナはアオイの肩の下、腕のあたりにそっと手を置いた。優しく、それでいて確かな強さで、彼女の腕を握る。
「約束してね」
葵は、突然の気遣いに戸惑いながらも、しばらく相手を見つめてから頷いた。
「うん。約束する」
玲奈の表情が和らぎ、パッと明るい笑顔が広がった。
「よかった! それに、いつでも私を頼ってね。小夜凪のみんなもいるし」
玲奈の声が、より温かみを帯びた。「私たちがついてるから」
葵も微笑み返した。「うん。ありがとう」
二人は再び町の方へと視線を向けた。夜の闇に散らばる光を眺めるその表情は、どこか穏やかだった。
しばらくして、葵はスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。
「もう11時過ぎてる!?」と、葵は声を上げた。
「あーあ、楽しい時間ってあっという間だね」玲奈は唇を尖らせ、両手を後ろについて体を預けた。「せっかくこんなに楽しい時間を過ごしてたのに……」
葵は前を見つめたまま、微笑んだ。
玲奈は横から葵をちらりと見て、愛おしそうな笑みを浮かべた。「でも……あんまり遅くまで連れ回しちゃいけないよね」
玲奈は、葵のそばで丸くなっている子犬に視線を向けた。
「ほら、シオ。完全に寝落ちしてるよ。こんなところにいたら風邪ひいちゃうかも」
葵はくすっと笑うと、立ち上がり、眠っている子犬をそっと抱き上げた。
「私たち以上に楽しんでたみたいだね」
「間違いないね」玲奈はニヤリと笑って立ち上がった。「初めてのバイクなのに、移動の半分は寝てたんだから!」
その言葉に、二人は声を上げて笑った。星空の下、その笑い声が優しく響いた。
玲奈は微笑んで言った。「さあ、帰ろうか。送ってくよ」
「うん」葵は頷き、玲奈のあとについて『クロ』のもとへと歩き出した。
..........................
20分後、レイナはアオイのアパートの前にバイクを停めた。
「へえ、アオイってここに住んでるんだ」アオイがバイクから降りると、レイナはその小さな建物を眺めながら瞬きをした。「……まあ、悪くはないけど」
「ちょっと! ここか、さもなくば橋の下で雨宿りするしかなかったんだから」アオイはくすりと笑った。「贅沢なんて言ってられないよ」
アオイが歩み寄って隣に立つと、レイナの表情はふっと和らいだ。
「それに……」アオイはアパートを振り返りながら続けた。「アヤネちゃんたちが、ここを『家』らしくしてくれたんだ」
その笑みは、より一層優しくなった。「彼女たちには、本当に感謝してる……みんなにもね」
アオイはレイナに向き直り、予備のヘルメットを差し出した。
「送ってくれてありがとう」そう言って、彼女は微笑んだ。
レイナも微笑み返してヘルメットを受け取ると、突然、アオイの体に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
「……気をつけてね」と、彼女はつぶやいた。
先ほどよりも、ずっと小さな声だった。「いい?」
先輩の声に滲んだ、どこか脆げな響きに、アオイは驚いて瞬きをした。一瞬ためらってから、彼女は答えた。
「……うん」
レイナは身を引くと、いつもの笑顔を浮かべ、優しくシオの頭を撫でた。子犬はアオイの腕の中で、すやすやと眠り続けている。
「中に入りなよ、アオイ」
アオイは微笑んで言った。「おやすみなさい、レイナ先輩」
「おやすみ」
レイナはヘルメットを被り、エンジンをかけた。アオイをもう一度振り返ると、バイクの向きを変え、夜の闇の中へと走り去っていった。
アオイはその場に立ち尽くし、レイナの姿が闇に溶けて見えなくなるまで見送った。彼女はシオを、胸に少し強く抱き寄せた。
(どうして急に、あんなことを……?)
アオイは困惑したように眉を寄せた。そういえば、あの丘にいた時から、どこかの 様子がおかしかったような……。
小さく、ため息が漏れた。
レイナがなぜ突然あんなふうに気遣ってくれたのか、その理由はよくわからなかった。けれど、その言葉の端々が、ずっと心に引っかかっていた。
(まあ、いいか。もう寝よう……)
アオイは軽く首を振ると、そう心の中でつぶやいた。
そのままアパートの方へ向き直ると、鍵を取り出してドアを開け、中へと足を踏み入れた。そして、背後で静かにドアを閉めた。




