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エッセイ

エッセイを書くことで思想を固定化していないか?

作者: ちりあくた
掲載日:2026/02/20

 私がエッセイを書こうとする動機は、たいてい一時の気付きや思案である。何かに躓いたとき、あるいは妙に腑に落ちたとき、そのアイデアを逃さないように言葉にしておきたくなる。後から読み返して「ああ、こんなことで悩んでいたのか」と感慨に浸るのも、書く楽しみの一つだ。エッセイは過去の自分の保存法だ。


 けれど最近、少し立ち止まる機会があった。エッセイを書くことで、思想を固定化してはいないだろうか、と。


 エッセイにはその時々の価値観が表れる。小説のように登場人物の陰に隠れることもできない。主語は大体「私」で、語られるのも私の判断や感情だ。だからこそ、その時点での私の内面がくっきりと現れてしまう。


 例えば、人生に意味はないと絶望していた人物がいたとする。その時期は何をしても虚しく、物事への関心を感じられなくなる。未来永劫、全ての事物に価値はないのだと、灰色の世界から目を背けている。外へ出ようとした際にドアの前で立ち止まってしまうか、あるいは一日を布団の中で終えるかもしれない。


 しかしその後、何があったのか、人生を無条件に肯定するように変化したとする。環境の変化ゆえか、誰かと出会ったのか、あるいは些細な言葉に感銘を受けたのか、経緯は問わない。彼は「生きているだけで十分だ」と信じるようになった。百八十度の転換に見えるが、実際は徐々に傾きが変わっていっただけかもしれない。


 どちらが本当の彼なのだろう。


 おそらく、どちらの価値観も常に内包されていたと思う。ただ割合が違っただけなのだ。絶望が九割を占めていた時期もあれば、肯定が七割ほどを占めている現在もある。思想が入れ替わったというより、配分が変わった。私はそう理解している。価値観はON/OFFではなく、グラデーション的に変化するものだろう。


 だが、エッセイに書き残されたのは、その時点で優勢だった側の声だけだ。彼が過去の時点で絶望を書けば、彼自身は「虚無を抱えた人間」として記録される。肯定を書けば、「生を愛する人間」として残る。文章は割合を保存してくれない。そこにあるのは、断定された言葉だけである。


 そして厄介なのは、文章は紙面上に残るだけでなく、記憶にも残るということだ。


「自分はこういう思想のエッセイを書いた」。その事実が彼の中に刻まれる。するといつの間にか、「自分はこういう思想を抱えている人間だ」という物語が出来上がりかねない。それが本当に一貫した信念なのか、それとも書いたという事実による自己洗脳なのかは、証明のしようがない。容疑者が捜査を行うようなものだ。


 自分のことが一番分かるのは自分だ、と誰かは言う。けれどその「自分」は、本当に正史なのだろうか? 過去の記憶を都合よく編み直していないだろうか。揺れ動いてきたはずの思考を、「私は昔からこうだった」と整形してはいないだろうか。エッセイは、その整形を手助けしてしまう危険がある。


 特に、それがネガティブな思想だった場合は厄介だ。「私はこういう人間だから仕方ない」。「私は常にこう考えてきたのだから変わらない」。そう自分を規定してしまえば、本来なら環境や捉え方次第で動き得たはずの思考まで、固定してしまうかもしれない。変われたはずの可能性を自ら閉ざしかねない。


 もちろん、エッセイ自体には十分な価値がある。

 思想は本来、連続的に揺れているものだ。しかし、人はその連続体を連続のまま把握することができない。滑らかに見える動画ですら、実際は静止画の集合体であるように、流れを流れのまま捉えるのは難しい。


 エッセイを書くという行為は、その流れに一瞬の区切りを入れることだろう。揺らぎの中からある一点を切り取ると、その点はデジタルな記録として残る。点がなければ変化は観測できない。人生が動画だとするなら、エッセイは一枚の写真である。


 言うまでもなく、その記録は完全ではない。切り取られた瞬間は加工済みの断面であり、連続体そのものではない。それでも、記録がなければ、彼は自分の変化を振り返ることができないのだ。ならば問題は「書くこと」そのものではなく、「書いたものを永遠の定義にしてしまうこと」なのだろう。


 今の彼はおそらく、相対的に生きやすい場所にいる。だからこそ生を肯定できているのかもしれない。もしまた窮屈な日常に戻れば、世界を呪う文章を書くのだろう。そのとき彼は、過去の自分を「甘かった」と切り捨てるかもしれない。やはり現実は辛く厳しいのだと。


 だが、それもまた割合の変化に過ぎないだろう。大事なのは、思想を固定された性質だと思い込まないことだ、と今の私は考えている。断言しすぎず、曖昧な事柄に定義を与えず、「今はこう思っている」という認識を持つ。この文章でさえ、暫定的な価値観にすぎないのだ。


 エッセイは思想の標本であると同時に、変化の痕跡である。固定化の危険を孕みながら、それでも書く価値があるのは、連続する点がやがて軌跡になるからだ。

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