9:心優しい青年
医師をしているというロレンソはさらにこう続ける。
「貴族が乗った馬車は動物をはねても、平民もはねても、知らんぷりです。特に人通りの少ない場所では。そのまま轢き逃げするのが当たり前。こんな風に馬車を止めるなんて、珍しいことですから」
なるほど。
そういうことか。
確かに、そういう貴族もいるかもしれない。
でも少なくとも私が知る人間には、そんなヒドイ人はいないと思う。
「同じ貴族の一員として、すぐに救助もせず、立ち去る者がいることは恥ずかしく感じます。そのような心ない貴族が減るよう、私の知り合いにはよく話しておきますわ。でもまずはこの少女を診ていただけますか」
ロレンソは「承知いたしました。このステッキを持っていただいても?」と私に差し出す。私がそれを受け取ると、ロレンソはすぐに少女を抱き上げる。
「スノー、一緒についてきて。あなたはここで待機して」
歩き出したロレンソの後ろを、スノーと御者の一人を連れ、ついて行く。
ここは王宮……宮殿からそこまで離れた場所ではない。
左手にはいずれかの貴族の屋敷があり、高い塀が張り巡らされている。
一方、右手は、いくつもの建物が雑然と並んでいた。
ロレンソはしばらくまっすぐ歩いていたが、右手の細い路地へと入っていく。
人が一人、なんとか通れる路地だ。
「スノー、私の後ろをついてきて」
「はい、パトリシアさま!」
左右は壁しかないと思ったが、ドアも見え、ここを出入りで使っている人もいるのだと理解する。上を見ると窓があり、この狭い路地の幅にあわせ、ロープを張り、洗濯物が干されているのが見えた。遥か上空で下着らしき衣装が風に揺れている。
「こちらです」
路地を出ると左手に向かい、数メートル歩くと。
ガラスの扉が見える。
そこに白いペンキで「オテロ診療所」と書かれていた。
そして「休憩中」という札が扉の内側に掛けられている。
「そちらの可愛らしいお嬢さん。わたしのポケットから鍵を出してもらえるかな?」
ロレンソに声をかけられたスノーは「はい!」と返事をして、コートのポケットから鍵を取り出すと、扉の鍵を開ける。
「ありがとう、お嬢さん」
微笑んだロレンソは肩で押して扉を開けると、建物の中に入る。中に入ると2階に続く階段が伸びている。ロレンソは少女を抱えたまま階段をのぼって行く。左手に木製の扉があり、そこに向け声を掛けると、内側から扉が開く。看護師らしき女性が顔をのぞかせ、ロレンソが振り返る。
「ここです。入ってください」
中に入るとこじんまりとした待合室と受付がある。
カーテンで仕切られた部屋が二つあり、診察室、処置室と書かれている。
廊下が見え、その先には洗面所とどうやら病室もあるようだ。
ロレンソはそのまま診察室に入っていく。
一応、そのまま待合室で待っていると、すぐにロレンソが出てきた。シルクハットとテールコートを脱ぎ、白衣を着ている。途端に医師らしく見えるから、服の持つ効果は絶大だ。そしてその姿を改めて見て気づく。ロレンソはとても若く見える。
「今から診察しますから。そのままそこでお待ちください」
「分かりました。お願いします」
スノーと御者と私の三人で、待合室に置かれた長椅子に並んで座る。さっき扉を開けてくれた看護師の姿は見えない。どうやら受付の裏に職員の休憩スペースもあるようだ。
待合室には大きな置時計、観葉植物がある以外は特に何もない。壁には海を描いた大きめの絵画が一点だけ飾らられている。よくみると床も壁紙にも傷みが感じられた。
貴族が利用するような診療所ではない。平民と言われる市民が利用する診療所だ。
市民と貴族はその身分の差から相容れないことが多い。
轢き逃げをするような貴族がいるのだ。市民が貴族を嫌っても仕方がない。
だからロレンソも、「少女は助ける、でも君は来ないでくれ」と私を拒むこともできたはずだ。貴族と関わるとろくなことはないからと。
しかしロレンソは私の同行を認めてくれた。それだけでも、ロレンソが優しい人なのだと分かってしまう。
「お待たせしました。確認しましたが、大丈夫ですね。本人にも聞きましたが、咄嗟に頭を両手で庇って転がったので、頭を打つこともなかったと。骨折もない。安心していいと思いますが、念のため、明日のこの時間まではこの診療所で預かります。万一の容態の急変に備え、入院させますが、問題は起きないと思いますよ。そして聞いたところ、この近くに住んでいるというので、両親にはわたしから話をつけておきますから」
「ロレンソ先生、ありがとうございます。その、ご両親のところへは私も」
するとロレンソは首は振る。
「この辺りの住人は、決して貴族にいい印象を持っていません。止めた方がいいでしょう」
「……! 分かりました。では診察代と入院費を払います」
ロレンソは再び驚いた顔をする。
だがすぐに元の表情に戻る。
「診察代と入院費はいりません。わたし自身、たいしたことはしていないので。ただ、あの子の着ている服はボロボロです。彼女の衣装を買うお金をいただいても?」
「勿論です!」
衣装代としてロレンソが受け取ったのは、貴族であれば靴下代ぐらいの金額だ。これでいいのかと不安になり、金貨を手に取ると……。
「それは不要に出さない方がいいです。金のために暴力を振るう荒くれ者もいるのですから」
ロレンソは私の手にのる金貨を隠すように、両手で私の手を包み込んだ。
温かみのある手だった。
「でも……、入院するとなれば、食事代やシーツや寝間着の洗濯代もかかりますよね? それも負担いただくのに、今渡したお金では……」
「あのお金で服は買えます。みんな新品の服を買うわけではない。古着でも新品同様のものが手に入りますから」
……!
今の自分の暮らしがいかに恵まれたものであるかを噛みしめる。そして包み隠さず教えてくれたロレンソにも感動していた。
「ではお金は……。代わり何か、何かロレンソ先生に御礼をさせてください」
「わたしは御礼などいりませんよ」
「でも……」
食い下がる私を見て、ロレンソは「仕方ないな」という顔になると……。
「では食事をご馳走してください。豪華なレストランではなく。この辺りのお店で」
「分かりました!」
こうして三日後。
ロレンソと食事をする約束をした。そして私は自分の名前を名乗った。
ベラスケス家と聞くと、ロレンソは「えっ」と息を飲んでいた。
約1年前の爵位剥奪事件がなければ。
市井の人達が、ベラスケス家の名をここまで知ることはなかっただろう。
でもあの一件があり、ベラスケス家の名はニュースペーパーをにぎわすことになった。その上で今回の復権。もはやベラスケス家の名を知らない者の方が少ないだろう。
ともかくすべての片がついたので、私達は診療所を出て、馬車に戻った。
お読みいただき、ありがとうございます!
本編を8時台に公開したいたことを思い出し
久々の朝更新!
次回は今日のお昼に『慣れるのかしら?』を更新します。
引き続き何卒よろしくお願いいたします!



























































