愛執に尽きる
とある一社の倒産が、多くの人間を狂わせた。
それゆえおれは行きどころを失った。騒動を起こした張本人であるおれの祖父は、富士山麓の樹海で一部白骨化した遺体となって発見された。おれの両親も兄弟も死んだ。父が死んだので、おれが社の資産を継ぐところだが、おれは莫大な借金を拒み遺産を放棄した。
おれが遺産を放棄すれば、残った一族はおれを放棄した。
その日暮らしをせざるを得ないおれは、アルバイトで暮らすしかなかった。ろくな家柄ではなく、ろくな学歴もないため、就職は難航していた。そもそも、巨万の富のもとで労働も知らず裕福に暮らした男など、採用されようはずもなかった。
祖父の富と不道徳は常軌を逸していた。富を振りかざしてか、隠し子を数人つくったほどだ。さらに、そのうちのひとりである少女は、同い年であるというだけの理由で、おれの付き人として働かされた。現代の世に奉公人を雇うなど、世間に出てみれば異常なことだとすぐにわかった。
しかし、おれが泙野家を追い出されると、その奉公人の少女はおれとともに泙野家を出た。そして外の世界でも、おれを助けようとしてくれていた。
「ただいま帰りました、魁人さま」
古ぼけたアパートの玄関で、いつも頭を下げる。
「ご苦労さま、叶」
「ありがたいお言葉ですが、魁人さま。わたくしはまだ労っていただくほど充分に働いておりません。すぐに御夕飯を準備します」
もう一度頭を下げ、言ったとおり作業に取り掛かった。
叶は、もう身分を振りかざせる立場でないおれにも尽くしてくれる。互いに家族としての意識だった。親族としては、祖父の娘と孫の関係だから、叔母に当たる奇妙な間柄だが、もちろんそんなことは気にしていなかった。
おれも叶も、まっとうな仕事を探しながらいくつものアルバイトを掛け持ちして暮らしている。そのうえで、生活能力が皆無であるおれの身の回りの世話もしてくれるとなると、叶には感謝と謝罪以外にしてやれることがなかった。
「叶、ごめんな。きょうも進展のない日だった」
叶は流し台からこちらを振り返った。
「いえ、謝らなくてはならないのはわたくしのほうです。魁人さまに付きまとって、魁人さまの負担を増やしてしまって」
「いいんだ。叶は充分すぎるほどに働いてくれている。むしろ、叶のほうから離れてしまってもいいのに」
「絶対にありませんわ。わたくしは、魁人さまをお守りしなくてはなりません」
…………。
つい、背後を振り返る。違法ハウスの小さな窓の外を見た。
常々、おれは死と隣り合っていた。社に損害を被った者から、復讐として命を狙われているようなのだ。街を歩けば背後に気配を感じる日々。ときには鉄パイプの山が崩れかかってくるなど、実際に死を感じたこともある。
叶はそんな恐怖からの救いであった。叶自身も誇らしげに、おれを守ると言ってくれる。華奢な身体で高らかに宣言する叶が、どうしようもなくいじらしくて愛おしかった。
一方で、叶がかわいそうでならなかった。おれの命はいつ奪われるか知れたものではないのだから、抹殺を企む悪漢たちに太刀打ち出来ようはずもない叶が、見ていられない。せめておれの死と叶の死が関わってほしくないが、社を呪う人々は、ただ泙野一族を一様に呪っている。おれを殺した人間は、叶だって殺しにかかるだろう。
そんなことを考えると悲しくて悲しくて、泣き言を吐いてしまう。
「なあ、叶。頼むからおれを守るなんて言わないでくれ。おれは怖いよ。いつおれはおれを呪う人間に殺されるかわからない。叶だって狙われてしまう。正直おれは殺されたくないけれど、叶がおれのせいで殺されるのはもっと嫌だ。だから、だから――」
喉の奥が乾き、眼からは涙が溢れてきた。それを見て叶は悲壮な面持ちで、おれと面と向かって正座した。
「魁人さまは一切悪くありません。腐敗した社のしわ寄せが不条理に来てしまったのです」
「だったら、おれを守るのは叶じゃない。おれが叶を守るべきなんだ。叶は、おれの大切な、大切な――」
この先が浮かばない。
体中が震えた。
「魁人さまは、わたくしの大切な家族です」
そう言って、叶がおれを優しく抱き寄せる。
暖かく柔らかな抱擁に、本音がどっと溢れてきた。
「こんな世界だったら、おれは生きていたくない。いっそのこと殺されるなら、叶に殺されてしまいたい。どうしておれが呪われなきゃいけないんだ。呪ってやりたいのはおれたちのほうだ!」
叫ぶと一気に力が抜け、そのまま子供のように叶にすがりついた。
アルバイトを終え、夜道を歩いていた。
背後が気になり、死への恐怖に怯えてしまう。ここにも、そこにも、あそこにも、殺人鬼が息をひそめているような気がして仕方がなかった。街灯に照らされた明るい道なのに、建物の陰や車の中を覗いては、一瞬の安心と新たな恐怖がせめぎ合う。
そのとき、勢いよく車が通り過ぎる。すると、遠くで猫が騒ぎ、犬が吠えた。
その喧騒に現実へと引き戻され、平穏を繕い直す。周囲を気にせず、前だけを向いて歩いた。背中が痒かった。
歩きながら、幼い日の深夜に家の広い廊下を歩く気分を思い出す。あのときは、叶をわざわざ起こし、結局ふたり揃って怖い思いをしていた。もう闇を恐れるおれではない、もう孤独を恐れるおれではない、そう自分に言い聞かせた。
ひたすら強がって歩いていく。やがて、足元に転がる週刊誌が目に入った。
『本誌独占取材! 「私は〇億円失いました」被害者S氏が語る真実!』
『死者続出! 行方不明者続出! 闇の企業の口止めか?』
……間違いなく、おれの家や社を中傷した記事である。
ふざけるな。口止めをされているのはおれのほうだ。ばたばたと死んでいったのは泙野の一族だ。どこに行ったのか雲隠れして、行方が知れないは社の幹部たちだ。苦しんでいるのは内輪のほうで、おれたちを簡単に呪う連中のほうがよっぽど「闇」の側の人間だろうに。
死と隣り合っているのはおれたちだ。おれたちがすべてを失ったんだ。
取り返したい。
知らしめたい。
呪い殺したい。
……しかし、また背後を振り返ってしまうおれが情けなかった。
「魁人さま? お加減が優れませんか?」
目を覚まし、顔を上げると、叶が心配そうな顔をしていた。家に戻って布団に顔をうずめているうち、眠ってしまっていたようだ。
「いや、大丈夫だよ。疲れて寝ていただけさ」
「どうか、無理はなさらないでくださいね。……きょうは、幸運なことにお肉がたくさん手に入ったのですが……お疲れならやめておきましょうか?」
「肉だって? すごいな、いままで手が出なかったのに。体調は平気だ、食べるよ」
そう言うと、叶は微笑んでから表情を引き締め、準備を始めた。
「でも、どうして肉なんて急に? 給料が出るような日でもないのに」
「いただいたんですの。仕事の関係で良くしてくれる方がいらして、その方が譲ってくださいました」
「そうだったのか、ありがたいな」
「ええ、本当に。いつかお礼を差し上げなくてはなりませんわ」
しばらく待つと、料理が並べられた。確かにメインには肉があった。
久しぶりに食べる肉。ほんの一年前ならば毎日のように食し、毎日のように残して廃棄していた肉。それがいまは、数億円に相当する宝石よりも価値あるもののようだ。
ひと切れ、口に運んだ。……しかし、何かが妙だった。つい、首を傾げてしまう。
「以前魁人さまの召し上がっていたような上級の肉ではないので、違和感はあるかもしれませんね。お口に合いませんでしたか?」
叶は心配していたが、しばらく噛んでいると、変わってきた。
「いや、そんなことはない。いまほど感動してものを食べるのははじめてだ。ありがとう、叶」
「いえ、わたくしは……」
照れて縮こまる。でも、おれは本当の思いを話していた。
こんなにもうまい肉があったろうか? これほどまでに心に沁みる味は経験したことがない。最下層を経験したことが、この感動に繋がるのだろうか?
その日の夕食に、おれは満たされていた。
ふと横を向き、バイト先のコンビニの外を眺めた。いままさに、日が沈んだ。
外を眺めたところで、何か変わったものが見えるわけでもない。広がるのは、ただただ、闇だ。ひたすら、黒だ。
…………。
視線を感じる。
気配を感じる。
怨念を感じる。
そこにいるのは何者だ? 社に殺されたひとりなのか? おれを見て何を思う? おれを殺したいのか? おれもあんたも、醜い姿になったものだ。非生産的に人を恨んで。
でも、――――
教えてほしかった。
逃げ出したかった。
助けてほしかった。
非情にも時間は過ぎ、怪しい気配を感じながらバイト先から帰宅する時間になる。重々しい気分で、裏口からコンビニを出た。そこには、やみくもに闇――音もなく、不気味な赤い光のみが照らす世界――が広がっている。
すると、足元で妙な感触を覚えた。粘着質のような、液体のような、不気味なぬるぬるとした感触。足元を見回し、店舗内空調の排気口のもとに、原因のそれを見つけた。
怯えつつ、一歩だけ近寄る。大きなものが横たわっているようだった。
目を瞑って、二歩目を踏み出す。生臭い、金属のようなにおいがする。
勇気をふりしぼり、三歩進めば、自ずと見えてきた。
…………。
人が、死んでいた。
ぱっくりと肩口から腰にかけて傷が開き、すっかり血は流れ出ていた。
叫ぶ余裕もなく、人に知らせる間もなく、おれは逃げ出した。
「叶!」
周囲への迷惑など気にせず、乱暴に違法ハウスの扉を開けて叫んだ。
しかし、部屋にも闇が広がるばかり。なぜだ、この時間ならば叶は仕事に行っていないはずだ。しっかり者の叶だ、この夜中に買い物や急用とは考えにくい。
「叶、どこだ? ……何かあったのか? 無事か? いるなら頼む、出て来てくれ。お願いだ、おれをひとりにしないでくれ。おれを暗闇に放置しないでくれ」
恐れていようはずもない孤独と闇に、おれは敗れていた。
叶がいないと、おれはどうしようもなく何もかもが怖い。
逃げてばかりだ。そうして恐怖から叶のもとへと逃げてしまえば、強がって陰から人を憎み、恨み、陰口をたたく。弱すぎる。
弱いおれには、強い叶はもったいない。
その笑顔に釣り合わない――
「魁人さま、大丈夫ですよ」
事情も伝えられず、叶にすがりついて泣いた。大の男が、情けなく泣き叫んだ。
「さあ、お夕飯にしましょう。きょうもお肉があるんですから」
泣き叫ぶおれの上から、優しい声がかかる。おれは叶にすがるのをやめ、部屋の真ん中で大人しく座っていた。
夕飯、たったそれだけのことに癒されていた――――
…………。
変だ。
きょうの曜日からすれば、おれの帰りより叶の帰りが早い。おれが帰ってから叶が夕食の準備をするなど、考えられない。
何かがある。
叶まで、おれを裏切ろうとしているのか?
「おい、叶」おれは屋敷にいたころのように、威張った声を出した。「いままで外で何をしていたんだ?」
びくりと体を震わせた叶が、おどおどとこちらを向く。
「そ、それは……」
「嘘をついたらどうなるかわかっているよな?」本当は、叶をどうにかする勇気などなかったが、叶に裏切られる恐怖を誤魔化したかった。「座れ。正直に話せ」
叶はおれの前に正座して、頭を下げた。
「……申し訳ございません。わたくし、魁人さまに隠し事をしておりました」
おれはため息をついてから、話を促した。
ゆっくりと叶は、震えながら言葉を紡いだ。
「お肉のことです。あれは、譲っていただいたものではありません――――あれは、わたくしが、カッテ参りましたものです」
……?
意味がよく解らなかった。
詳しく話すように促した。
「魁人さま、ですから、あのお肉は――」
――わたくしが、狩って参ったお肉なんです。
――魁人さまを恨む下賤の者を、わたくしが斬ってお出ししていました。
「申し訳ございません。不浄で下等な肉を黙って差し上げて――」
「違う。……謝るべきなのは、そんなことじゃないだろう」
利口な叶が、解せないという顔をした。
使用人と雇い主という立場での怒りが、いまさらになって込み上げてきた。おれは立ち上がり、叶の胸座を摑む。
「どうして、そんなことを? おれがいつ、そんなことをしろと言った?」
「申し訳ございません、でも、魁人さまのお申し付けではありませんか」
「でも、じゃないだろ……う?」
…………?
「話せ」
おれは手を離した。咳き込んでから、叶は捲し立てた。
「魁人さまがおっしゃいました。『呪ってやりたいのはおれたちのほうだ』と。
わたくし、そのお望みをどうにか叶えて差し上げたいと思いました。しかし、魁人さまが直接手を下されては、魁人さまが不浄の存在に落ちぶれてしまいます。そんなことはいくら魁人さまのご意志であっても許せません。
だからわたくしが――――」
――魁人さまに代わって、ノロッテマイリマシタ。
「叶、どういう意味だ?」
おれは尋ねたが、叶は黙って収納の奥から、赤黒く汚れた青白く輝く一筋を持ち出した。そして、構わず続けた。
「いままでわたくしが呪って参りましたが、魁人さまに知られては、この先の呪いは魁人さまのご意志になってしまいます。魁人さまの穢れになってしまいます」
その一筋を、おれの首元に当てた。
「お座りください。わたくしが案内いたします。代々の家宝、村正は使いすぎてしまい限界ですので、魁人さまが最後のひとりでしょう。わたくしを送ることまでは不可能となりますが、魁人さまが最後とあれば、わたくしとしても村正としても名誉なことです。
もちろん、あちらでお待たせすることはございません。すぐにあとを追います」
「おい、待て。どうしておれまで――――!」
「わたくしが申し上げたとおりです。魁人さまを穢すわけにはまいりません。清らかなままであっていただきたいのです。
それに、魁人さまがおっしゃったではありませんか――」
イッソノコトコロサレルナラ、カナエニコロサレテシマイタイ――――