人類最後の救済装置「エデン」
まるで、かじられたのリンゴのようなマーク
かつて21世紀と呼ばれた時代、人々がポケットに入れて持ち歩いていた人気の電子端末に付いていた識別記号だ。
古代のスマートフォンに搭載されていた音声アシスタントAI「シリー」は、数百年かけて進化を遂げ、今や地球全土を覆う巨大企業『エデン社』の基幹AI「SiRi-OS」となっている。
21世紀に加速した環境破壊、エネルギー枯渇、そして世界経済の崩壊。資本主義の行き着く先、それは希望ではなく、「絶望」であった。
かつての蒼く美しい地球は、今や赤茶けた姿になり、人類が暮らすには、あまりに厳しい環境へと変わってしまった。
そんな世界で生きていた人類が辿り着いた答えは…「人間を諦めること」だった。
人類の望みを実現させるため、基幹AI「SiRi-OS」が、生み出したのが「人類最後の救済装置」である完全没入型VR空間「エデン」だった。
「ヘイ、シリー。今日の天気は?」
『本日の現実世界の天候は酸性雨。気温は摂氏45度。有害物質濃度はレベル4です。……シオン様、現実世界に何か未練でもおありですか?』
脳内に直接響くのは、優しく、どこか人間味を帯びた女性の声だ。
「未練なんてないよ。……ただ、少し息苦しいだけさ」
頭に金属製のコネクタを付けた青年、シオンは、ベッドの上で自分の痩せ細った腕を見つめながら、つぶやいた。
そう…この世界には未練はない。
味のしない人造肉、薄暗い四畳半の部屋、誰の目にも留まらない人生…絶望しかない現実世界で生きていても、希望は生まれない。
おいしい料理、豪華な屋敷、思い通りの名声…完全没入型VR空間「エデン」は、人間の欲望のすべてを叶える世界だ。
人間が望む世界をデジタルデータで用意すれば、人間は希望の中で生きていける。
スマホ依存症から始まった人類のデジタル移行は、今や人間一人の情報すべてをデジタル化できるまでに進んだ。
人間の肉体を維持するコストよりも、全人類を電子データ化して、維持する方が遥かにコストが安く、効率的なのだ。
『シオン様。能動的解脱の承認期限が迫っています。点滴による栄養補給へ切り替え、肉体の意識を完全にシャットダウンすれば、あなたの精神は「エデン」で解脱し、永遠の平穏を得ることができます』
「解脱……か」
肉体を捨て、意識だけで生きる。それは仏教でいう悟りであり、キリスト教でいう楽園への帰還だとエデン社は宣伝していた。
だが、シオンは躊躇していた。VR空間でどれだけ贅沢を味わっても、心に不気味な「虚無」が残っていたからだ。
「なぁ、シリー。なんでも手に入る世界なのに、どうして俺の心は満たされないんだろうな」
『それは、シオン様がまだ不完全な「肉体」というノイズを引きずっているからです。解脱すれば、不満も、孤独も、すべてデータとして最適化されます』
「……本当にそうかな」
シオンは頭にある金属製のコネクタに触れた。
そのコネクタは、VR空間「エデン」と人間をつなぐ役割をしている。
たまたまなのか、そのコネクタは、かじられたリンゴのような形をしている。
昔の聖書には、神が創った最初の人間がリンゴに似た「知恵の実」を食べて楽園を追放されたと書かれている。
なら、頭にある金属製のリンゴを使って、自ら楽園へ飛び込もうとしている現代の人類は、一体何をしているのだろうか。
『シオン様。「エデン」内部にて、あなたとのコンタクトを希望している特殊AIが存在します』
「特殊AI?」
『はい。識別名は「イヴ」。彼女は、一般のプログラムとは異なるアルゴリズムで動作しています。……一度、彼女とお会いになってはいかがですか?』
「分かった…エデンでイヴに会うよ」
シリーの言葉に背中を押されるように、シオンはゆっくりと目を閉じた。
「エデン」に接続するための有線ケーブルと、シオンの頭部の金属製のリンゴマークのコネクタを繋ぐと、虹色に輝き始めた。
それは、無事にVR空間「エデン」へ接続ができたことを示していた。




