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第1章 1


序章

私は、好きな人を殺す。




第1章

2010年の十月も終わりに近づいて、日が落ちるのがずいぶん早くなった。


 校舎を出るころには、西の空がもう橙色に染まり始めている。グラウンドの端に並ぶ木々が長い影を落とし、乾いた葉が風に押されてアスファルトの上を転がっていく。夏には鬱陶しいだけだった長い髪も、今くらいの季節なら首の後ろを暖めてくれるので悪くない。


 昇降口を出たところで足を止め、何気なく空を見上げる。


 雲が高い。


 夕日に照らされた薄い雲が、まだ青さの残る空へ細く伸びている。春にも夏にも空はあったはずなのに、秋になると急に遠くなったように見えるのだから不思議だ。


「凛」


 前方から名前を呼ばれる。


 視線を戻すと、アリスがこちらを見ている。背負ったリュックの肩紐に片手をかけ、私が来るのを待っている。


「何見てるの?」


「空」


 私に追いついたアリスも、つられるように顔を上げる。「何かある?」と聞かれたので、「何もないよ。高いなと思っただけ」と答える。


「空が?」


「うん」


 アリスはしばらく黙って見上げてから、「ほんとだ」と言った。


「分かるの?」


「凛が言うなら、そんな気がしてきた」


「適当だね」


「でも秋の空って高いって言うじゃん。だから合ってるんじゃない?」


 それは私が正しいんじゃなくて、昔からそう言われているだけだ。言おうと思ったけれど、別に訂正する必要もないのでやめる。


 アリスはまだ空を見ている。傾いた日差しを受けた横顔は白く、その横を流れる金色の髪が、夕日の中で細く光っている。


 歩き始めると、アリスも隣へ並んだ。昇降口から校門へ向かう生徒の流れに混ざって歩いていると、背後から女子たちの声が聞こえる。


「やっぱあの二人、華あるよね」


「一人でも目立つのに、二人そろうと……ねえ」


 誰のことを言っているか、考えるまでもなかった。私はそのまま歩いたけれど、アリスは肩をすぼめる。


「……華だって」


「らしいね」


「なんか恥ずかしいね」


「そう?」


「凛は平気そう」


「まあ、聞こえたからってどうすることもないし」


「そうなんだけど……」


 アリスは歩幅を狭めて、私の隣へ寄った。


「あんまり見られるの得意じゃないんだよね」


「知ってる」と答えると、アリスは意外そうにこちらを見る。


「知ってるんだ」


「見てれば分かるよ」


 アリスは一瞬きょとんとしたあと、照れたように笑った。


「もう十一月になるね」


「そうだね」


「早くない? 入学したの、つい最近だった気がする」


「7ヶ月前を最近って言っていいなら」


「そうやって数字にすると結構経ってるね」


 7ヶ月。数字にすればそれなりに長いはずなのに、私にはむしろ、まだそれしか経っていないことの方が不思議だった。


 毎朝教室で顔を合わせて、昼休みもだいたい一緒。放課後になれば一緒に遊ぶし、休日にも会う。この前の休みなんて、ショッピングモールで服を見ているうちに昼を食べ忘れて、二人で笑った。


 7ヶ月のうち何日一緒にいたのか、数えたことなんてない。そんなの数え始めたら、ちょっと怖い気もする。


「凛?」


「なに?」


「また考え事してる」


「してた」


「何考えてたの?」


 答えるか迷った。


「アリスと知り合って、まだ7ヶ月なんだなって」


 アリスの足がわずかに遅くなった。


「……凛がそういうこと考えるの、珍しいね」


「失礼じゃない?」


「だって凛、そういう区切りとか気にしなさそうなのに」


 アリスが笑う。




 白石アリスは、入学初日から目立っていた。


 私たちの学校は中高一貫校で、高校から入ってくる生徒も毎年いる。ただ、内部進学組の方が多いので、四月の教室にはすでにできあがった人間関係がいくつもあった。


 その中に、金色の長い髪をした女の子が入ってくれば、目立たない方が難しい。


 朝のホームルームが始まる前には、もう何人かがアリスの席を囲んでいた。


「白石さんって、ハーフなんだよね?」


「うん。父親が外国人で」


 別の子が「英語喋れる?」と聞くと、アリスは笑って「日常会話くらいなら。でもそんなにすごくないよ」と答えた。


 髪は地毛なのか。アリスというのは本名なのか。どこの国とのハーフなのか。


 最初のうち、アリスは楽しそうに答えていた。質問する側にも悪気はなかった。私だって、同じ教室にいきなり白石アリスなんて名前の金髪美少女がいたら、多少は気になったと思う。


 ただ、5分もすると同じような質問が2周目に入った。


 英語は話せるのか。髪は染めているのか。アリスは本名なのか。どこの国とのハーフなのか。


 さっき聞いた人と今聞いている人が違うから、質問する側には2周目という感覚がなかったのだろう。アリスにとってだけ2周目だった。


 何度目かの「英語喋ってみてよ」にも、アリスは笑った。でも、最初より口数が減っていた。答えたあと自分から何か話していたのに、今は聞かれたことにだけ返していた。膝の上に置いた手も、さっきから何度かスカートの端を触っていた。


 困ってるな。そう思ったときには、もう口が動いていた。


「そのくらいにしたら?」


 私が言うと、アリスを囲んでいた何人かがこちらを見た。一瞬だけ妙な間ができた。私が悪いことをしたみたいじゃないか。


「あ……ごめん。質問しすぎた」


 最初にそう言った女子が一歩下がると、ほかの子たちもばつが悪そうに笑った。「私も。ごめんね、白石さん」と別の子が言い、アリスは「ううん。大丈夫」と首を振った。


 ちょうど予鈴が鳴り、人の輪はそのままほどけていった。


 私は自分の席へ戻った。


 私にとっては、それだけの些細なことだった。


 次の日の3時間目は理科だった。


 チャイムが鳴る前に教室を出て、階段へ向かおうとしたところで、アリスが一人だけ廊下の案内板を見上げているのが目に入った。ほかの生徒が移動している方向とも違った。金髪は見分けやすくていいな。


「何してるの?」


 声をかけると、アリスが振り返った。


「第二理科室って、どこですか?」思いっきり敬語を使われた。


「同じ学年なんだし、敬語じゃなくていいよ」


「いいの?」普通になった。適応力が高いな。


「うん。それと、第二理科室なら一緒に行こうか」


 アリスはほっとしたように「ありがとう」と言った。私は「いいよ。私も同じところに移動するんだし」と答えて、廊下を歩き出した。


 アリスはすぐ隣へ並んだ。


「この学校、広いね。朝からもう2回迷ってる」


「今ので3回目?」


「……そうなるね」


 迷いすぎでしょ、と思ったけれど、ここまでくればすごい。私は軽い冗談のつもりで「順調だね」と返した。


「どこが?」


「1時間に1回くらいなら、帰るまでに全部覚えるかも」


「絶対覚え方間違ってるよ」とアリスは笑った。


 朝、クラスメイトに囲まれていたときとは違う笑い方だった。誰かに感じよく見せようとしているというより、単純におかしかったから笑ったように見えた。


 第二理科室へ着くと、アリスが扉の前で足を止めた。


「ありがとう、凛」


 名前を呼ばれたことが意外だった。


「もう名前覚えてるの?」


「覚えてるよ。凛は有名みたいだし」


「でも、さすがに入学2日目の3時間目にそう呼ばれるとは思わなかったよ」


「あっ、ごめん。いきなり名前で呼んじゃって」


「いいよ、今さら。凛って呼ぶ人多いしね」


 中学のころ、先輩に言われたことがある。


 凛は凛としてる上に名前は凛だよ。だから諦めて下の名前で呼ばれなよ。


 駄洒落なのか忠告なのかよく分からないことを真顔で言われた。最初は無視していたのに、同級生だけでなく先輩まで本当に凛と呼ぶようになったので、途中から諦めた。


 嫌がっているように振る舞っていたが、本当のところ、凛と呼ばれるのは悪くなかった。名字には、私より先に家の方がついてくる気がする。自分の家が嫌いな私にとって、それは渡りに船だった。


「代わりに、私は白石さんのことアリスって呼ぶからね」


「うん、いいよ!」


 アリスは、ぱっと明るく笑った。


 あとになって思えば、あの日の私はずいぶん得をしたのだと思う。あんなふうに笑うアリスを、まだ誰も知らなかったのだから。

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