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過去を歩く ーはじめの一歩ー

頭の奥が重い。


 深い水の底に沈んでいるみたいに意識がぼやけて、上手く目が開かない。


 ――もう少しだけ。


 そう思って布団へ顔を埋めた瞬間。


「さっさと起きなさい!!」


 バタンッ!! と勢いよくドアが開いた。


「っ……!」


 鼓膜を震わせる大声に、反射的に肩が跳ねる。


 聞き慣れた声だった。


 懐かしくて、ずっと聞いていなかった声。


「いつまで寝てるの! 遅刻するわよ!」


 乱暴に布団が剥がされる。


「ちょ、待っ……」


 強引に身体を起こされ、鈍い頭痛がこめかみを刺した。


 その容赦のなさまで、昔のままだ。


 そこでようやく、違和感に気付く。


「……え」


 視界に映った景色に、息が止まった。


 小さな本棚。


 窓際の学習机。


 色褪せたカーテン。


 壁に貼られたままのカレンダー。


 そこは、一人暮らしの部屋じゃなかった。


 高校時代を過ごした、実家の自室。


「なんで……」


 掠れた声が漏れる。


 昨夜、私は拓未の結婚式に出席していたはずだ。


 白いタキシード姿の拓未。


 隣で幸せそうに笑う花嫁。


 祝福の拍手。


 ちゃんと笑えていたかは覚えていない。


 ただ、胸の奥だけがずっと痛かった。


『知』


 耳の奥で、拓未の声が蘇る。


 それから――ブーケトス。


 高く投げられた白いブーケが、真っ直ぐこちらへ飛んできて。


 驚きながら受け取って。


 ……そこから先の記憶がない。


「どういうこと……」


 混乱したままクローゼットを開けて、私は固まった。


「……は?」


 制服。


 紺色のブレザーが、当たり前みたいに掛かっている。


 ありえない。


 高校の制服なんて、とっくに処分したはずだ。


 確か、英の妹に譲って――。


 そこまで考えた瞬間、背筋がぞわりと粟立つ。


「知ー!! 早く降りてきなさい!!」


「っ、はーい!」


 母の怒鳴り声に急かされるように部屋を飛び出した。


 階段を降りるたび、心臓が嫌な音を立てる。


 リビングへ入ると、焼きたてのトーストの匂いが鼻を掠めた。


 テレビから流れる朝のニュース。


 忙しなく動く母。


 テーブルに並んだ朝食。


 あまりにも“いつもの朝”すぎて、逆に現実感がなかった。


「……おはよ」


「ほら、早く座りなさい。今日からテストなんだから」


「……テスト?」


 思わず聞き返す。


 母は怪訝そうに眉をひそめた。


「何その顔。寝ぼけてるの?」


 テスト。


 そんな言葉、もう何年も聞いていない。


 じわり、と嫌な汗が背中を伝う。


 頭の中で、違和感が一つずつ繋がっていく。


 実家。


 制服。


 母。


 そして、テスト。


「ほら、ぼーっとしてないで。英が迎えに来るわよ」


「あきら……?」


 その名前を聞いた瞬間。


 止まっていた記憶が、ゆっくりと軋み始めた。


   ◇


 洗面台の鏡を見て、私はしばらく動けなかった。


「……誰これ」


 映っていたのは、間違いなく私だった。


 けれど、幼い。


 肌も、髪も、表情も。


 何も知らなかった頃の私。


「嘘でしょ……」


 頬に触れる。


 柔らかい。


 若い。


 それに――。


「スマホじゃない……」


 机の上に置かれていた携帯は、見覚えのある折りたたみ式だった。


 恐る恐るカレンダーを見る。


 そこに書かれた西暦に、息を呑んだ。


 ――二〇一〇年。


 高校一年の秋。


 私が、まだ拓未に恋をする前。


 まだ、全部が壊れる前。


「……意味わかんない」


 夢。


 そう思うしかなかった。


 けれど、頬を撫でる風も、トーストの匂いも、妙に現実じみている。


 心臓だけが落ち着かない。


「つーちゃん!! まだぁー?」


 玄関の向こうから飛んできた声に、思わず顔を上げた。


 聞き慣れすぎた声だった。


 毎朝聞いて。


 毎日隣にいて。


 気付けば当たり前になっていた声。


 ――英。


 母親同士が幼馴染で、生まれた病院も誕生日も同じ。


 保育園も、小学校も、中学校もずっと一緒だった。


 家族みたいな存在。


 いて当然だった人。


 なのに。


 もう何年も会っていなかった気がした。


 胸が苦しいわけじゃない。


 涙が出るわけでもない。


 ただ。


 そこに英がいると思っただけで、ぐちゃぐちゃだった頭の中が少しだけ静かになった。


「知ー! 置いてくぞー!」


 その雑な言い方に、思わず口元が緩む。


「……今行く」


 制服へ袖を通しながら、小さく息を吐いた。


 もしこれが夢なら。


 少しくらい、この時間に甘えてもいいのかもしれない。


 だってここには、まだ全部を失う前の日常が残っている。

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