第68話 同じ水
「こっちだ」
霧島の声が。
静かに落ちた。
青白い水が。
ドクン。
もう一度。
脈打つ。
「……っ」
サフィラが。
胸を押さえた。
「戻らないと……」
掠れた声。
「ラシード様に……」
一拍。
「報告しないと……」
「サフィラ!」
ルルカが駆け寄る。
肩を掴んだ。
その瞬間。
サフィラの腕が動く。
ルルカの手を。
振り払おうと――
「……っ」
途中で。
止まった。
サフィラ自身が。
自分の腕を見つめる。
「今……」
「どうしたの?」
ルルカが顔を覗き込む。
サフィラは答えない。
また。
ドクン。
観測盤が。
青白く揺れる。
その瞬間。
胸の奥へ。
何かが入り込んできた。
戻る。
ラシードのもとへ。
報告する。
それが。
当たり前のことみたいに。
正しいことみたいに。
頭の中へ浮かんでくる。
「……違う」
サフィラが。
胸元を強く掴んだ。
「何が?」
「今の……」
一拍。
「私じゃない」
ルルカの表情が変わる。
「サフィラ?」
「でも……」
サフィラは。
苦しそうに眉を寄せた。
「私が考えたみたいに」
「感じる……」
ルルカの表情が。
僅かに険しくなる。
「……まずいわね」
ベルクが。
すぐにサフィラの前へ出た。
「何された」
「分からない」
「誰にだ」
「だから」
サフィラが。
苛立ったように顔を上げる。
「分からないって言ってるでしょ!」
その声が。
世界の耳へ響く。
誰も。
すぐには言葉を返さなかった。
その奥。
床に倒れたザーファルは。
もう動かない。
そして。
巨大な観測盤だけが。
何事もなかったように。
水の国を映し続けていた。
町。
村。
宮殿。
給水所。
水瓶。
井戸。
そのすべてを繋ぐ。
青白い流れ。
ベルクが。
霧島を見る。
「おい」
一拍。
「何か分かるか」
霧島は。
すぐには答えなかった。
その手が。
腰の幻刀《黒落》へ触れる。
親指で。
柄をゆっくり撫でる。
「……こいつが」
一拍。
「さっきから疼いてる」
「ほんとかよ!」
ベルクの声が響く。
「刀で分かるのかよ」
「俺に聞くな」
「お前の刀だろうが!」
霧島は。
黒落から手を離さない。
カン――。
鞘の中で。
小さく刃が鳴った。
霧島の片目が。
僅かに細くなる。
「……気の流れが変だ」
ルルカが眉を寄せる。
「気?」
「俺の国じゃ」
一拍。
「人の中を巡る流れを、そう呼ぶ」
霧島が。
サフィラを見る。
「こいつ自身の流れに」
一拍。
「別のものが混じってる」
サフィラの表情が固まる。
「……何が?」
「知らん」
霧島は即答した。
「ただ」
視線が。
観測盤へ向く。
ドクン。
青白い水が脈打つ。
その瞬間。
黒落が。
カン――。
もう一度。
鳴った。
「水が動くたび」
霧島が呟く。
「こいつの中の流れも揺れる」
ベルクが。
観測盤とサフィラを見比べる。
「……水が絡んでるってことか?」
霧島は。
僅かに肩をすくめた。
「そこまでは知らん」
「知らんばっかりだな」
「分からんものを」
一拍。
「分かったふりするよりマシだ」
ベルクが。
僅かに眉を上げる。
それ以上は言わなかった。
サフィラが。
自分の手を見る。
「私の中に……」
一拍。
「別の流れ……?」
指先が。
僅かに震えた。
ルルカが。
ふと。
床へ目を向ける。
そこには。
ザーファル。
もう。
息をしていない。
「……待って」
ルルカの瞳が。
少しだけ揺れた。
「じゃあ」
一拍。
「あいつも?」
霧島が。
倒れたザーファルを見る。
短い沈黙。
「知らん」
「またか」
「死人に口なしだ」
それだけ言って。
観測盤へ視線を戻す。
ベルクも。
ザーファルを見る。
「……まあ」
一拍。
「水がどうだろうが」
「こいつがやったことは変わらねぇ」
プルが。
ザーファルをじっと見る。
「あいつは悪い!」
一拍。
「生乾きの臭いがするプル」
「何だその判定」
ベルクが低く返す。
プルは。
もう一度。
ザーファルを見る。
「かなり生乾き」
「知らねぇよ」
ほんの一瞬だけ。
張り詰めた空気が。
緩んだ。
だが。
サフィラだけは。
笑わなかった。
自分の腕を。
じっと見つめている。
エリオも。
その横顔を見る。
「……サフィラ」
「何よ」
「ちょっと」
一拍。
「じっとしてて」
「は?」
エリオが。
サフィラの前へ立つ。
「何する気?」
「聞いてみる」
「……何を?」
ベルクが。
エリオを見る。
その言葉の意味を。
もう知っていた。
番人との戦い。
暴れているように見えた。
巨大な蛇。
でも。
聞けば。
違った。
苦しんでいた。
その中に。
鼓動から外れた。
別の音があった。
エリオは。
ゆっくり目を閉じる。
深く。
息を吸う。
吐く。
焦るな。
自分の音を。
消す。
あの時。
ルミスに言われた。
『合わせろ』
『斬るためじゃない』
『聞くためだ』
腰の蒼刃が。
僅かに熱を帯びる。
ルミスは。
今も。
この中にいる。
けれど。
何も言わない。
刀身も。
白く輝いていない。
あの時のように。
背後へ姿を現してもいない。
それでも。
教わったことは。
残っている。
今度は。
自分で。
聞く。
ドクン。
サフィラの鼓動。
速い。
少し乱れている。
ドクン。
ドクン。
呼吸。
血。
衣擦れ。
その奥。
もっと。
深く。
静かに。
耳を澄ます。
さら……。
「……?」
エリオの眉が。
僅かに動いた。
今。
何か。
聞こえた。
もう一度。
さらさら……。
水。
遠くで流れる。
小さな水の音。
「……聞こえる」
ルルカが。
息を呑む。
「何が?」
エリオは。
目を閉じたまま答える。
「水」
一拍。
「サフィラの中から」
「……!」
サフィラの顔色が変わる。
ベルクも。
息を止めた。
「身体の中から?」
「ああ」
「本当に?」
「うん」
エリオは。
さらに耳を澄ます。
さらさら。
さらさら。
一定の音。
サフィラの鼓動とは違う。
呼吸とも違う。
まるで。
どこか遠くから流れてきたものが。
まだ身体の中で。
流れ続けているような。
その時。
さらさら……。
「……ん?」
エリオの眉が寄る。
今度は。
サフィラじゃない。
エリオが。
ゆっくり目を開く。
水の国を映す。
一つの水面。
給水所。
男が。
桶から水を汲む。
さらさら……。
「……」
隣。
小さな家。
母親が。
子どもへ水を渡す。
さらさら……。
「……また」
ルルカが振り返る。
「何?」
エリオは答えない。
市場。
老人。
兵士。
井戸。
さらさら。
さらさら。
さらさら。
どこからも。
同じ音がする。
「……違う」
「何が?」
エリオは。
サフィラを見る。
「サフィラだけじゃない」
「……え?」
さらに。
観測盤を見上げる。
町。
村。
給水所。
宮殿。
映る人々。
そのどこからも。
同じ音が聞こえる。
「全部から」
一拍。
「同じ水が聞こえる」
静寂。
サフィラが。
観測盤を見る。
「全部って……」
普通に。
笑い。
話し。
暮らしている人々。
なのに。
その内側から。
さらさら。
さらさら。
同じ音がする。
エリオは。
息を止めた。
これは。
サフィラ一人の問題じゃない。
水の国中から。
同じ水の音が。
聞こえていた。




