表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第五章 そして、

侯爵家を去った後、エステルは王都の外れにある古い邸宅を購入し、ひっそりと暮らし始めた。

慰謝料の一部で屋敷を整え、残りは商会に預けた。

一人の女性として自分の足で立つために。


最初の冬は、眠れぬ夜が続いた。

重ねた毛布の中、ふとディビッドの背を思い出すたび、胸が痛んだ。

裏切りの記憶は、夢の中でさえ彼女を傷つけた。

だが春が近づく頃、彼女はある変化に気づいた。

体のだるさ、吐き気、不規則な眠気──。

最初はただの疲労だと思っていた。

しかし医師ははっきりと告げた。

「おめでとうございます。ご懐妊です」


思わず椅子の背にすがり、息を呑んだ。

心の中で凍りついた何かが、ぽたりと溶けていく。

──あのとき、私たちはもう終わっていたはずだった。

けれどこの命は、確かに存在している。

ディビッドに伝えるべきか迷い、夜ごと悩んだ。

だが、最後に出した結論はひとつだった。

「この子は、私の手で守る」

それは復讐ではなかった。

彼女自身の再生のための誓いだった。


数ヶ月後、静かな夜に産声があがった。柔らかな黒髪と、小さな拳。

「……ノア」

その名をつけた瞬間、エステルの瞳に涙がにじんだ。

“安らぎ”と“救い”の意味を込めて。

自分は愛されたかった。

けれど、この子は最初から愛されるべき存在として、生まれてきた。

──たとえ世界が背を向けても、私はあなたの味方でいる。

それが彼女の、二度と失わぬ誓いとなった。



だがその一方で、ディビッドの人生は緩やかに、確実に崩壊していった。

ディビッド・クラウゼンは、静かに壊れていった。

最初は順調に見えた。ミラの妊娠、出産。

「跡継ぎが生まれた」と一族は安堵し、社交界も形式的に祝福した。

しかし──それは幻だった。


幼子の顔は彼に似ていかなかった。

目元も髪色も、何ひとつ。日に日に違和感が増していく。

そしてある夜、酔ったミラが口にした。

あれは、笑って済ませられる冗談ではなかった。

「あなたの子だと思っていたの?」

ディビッドの中で何かが決定的に崩れた。


ある日、ディビッドの執務室に、一本の報告書が届いた。

侯爵家の下で動いていた古い諜報網。

その中のひとりが、偶然立ち寄った町で「見覚えのある貴婦人の姿」を見たという。

「侯爵夫人……いえ、元夫人エステル様が、子どもを連れていたそうです。年の頃は四つか五つ……黒髪で、貴族の教育を受けた様子」

その一文を読み終えた瞬間、ディビッドの手から紙が滑り落ちた。

呼吸が乱れる。

咄嗟に否定したい言葉が、喉の奥で泡のように溶けた。

──私の、子?

だがエステルは何も言わず、離縁の時にも一言も告げなかった。

「なぜ何も言ってこない……」

ふいに、書斎の扉が開き、ミラが入ってきた。

だがディビッドはもう彼女の存在すら意識していなかった。

手元には、崩れた筆跡のまま残されたエステルの旧姓。

その名前が、突き刺さるように心臓を打った。

「もし…あのとき、彼女と……」

言葉はそこまでだった。



屋敷は急速に荒れていった。

ミラは奇行を繰り返し、侍女を叱り飛ばし、貴族の間では「醜聞」としてささやかれ始めた。

そしてある日──ディビッドの馬車は、山道で転落した。

事故か、あるいは……自らか。

誰にも真実はわからなかった。

だが確かなのは、彼が一週間前に王宮に届け出した遺言には、こうあったことだった。

「侯爵家の正式な後継者として、エステル・ロランの子──ノアを、ノア・クラウゼンとして指名する」


遺言が開封された時、ミラの絶叫が屋敷中に響き渡った。

義母は蒼白になり、後ろ盾となっていた一族も沈黙した。

侯爵家は、それを最後に「沈んだ」。

そして再び、エステルの名が侯爵家と共に語られる時代が始まった。



遺言が開封された日、ノアはまだ五歳だった。

だが真っ直ぐな眼をして、母の言葉を静かに受け止めた。

「あなたは、私の子。そして、クラウゼン侯爵家の血を引く者」

ノアは頷いた。

「でも、おかあさまのこであることのほうが、だいじです」

その言葉にエステルは静かに微笑み、息子を抱きしめた。


──そして彼女は決して、誰のものでもない人生を歩き出す。

愛した男に裏切られたあの日、すべてを失ったと思っていた。

けれど、そこから得た命が、彼女を母にし、女として立ち直らせた。

薔薇が咲くには茨がいる。

血を流し傷ついてこそ、強く、美しく咲く花になる。

ディビッドは誰も愛せず孤独なまま人生を終えたが、その先に残されたのはエステルとノアの強い絆と未来だった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ