第五章 そして、
侯爵家を去った後、エステルは王都の外れにある古い邸宅を購入し、ひっそりと暮らし始めた。
慰謝料の一部で屋敷を整え、残りは商会に預けた。
一人の女性として自分の足で立つために。
最初の冬は、眠れぬ夜が続いた。
重ねた毛布の中、ふとディビッドの背を思い出すたび、胸が痛んだ。
裏切りの記憶は、夢の中でさえ彼女を傷つけた。
だが春が近づく頃、彼女はある変化に気づいた。
体のだるさ、吐き気、不規則な眠気──。
最初はただの疲労だと思っていた。
しかし医師ははっきりと告げた。
「おめでとうございます。ご懐妊です」
思わず椅子の背にすがり、息を呑んだ。
心の中で凍りついた何かが、ぽたりと溶けていく。
──あのとき、私たちはもう終わっていたはずだった。
けれどこの命は、確かに存在している。
ディビッドに伝えるべきか迷い、夜ごと悩んだ。
だが、最後に出した結論はひとつだった。
「この子は、私の手で守る」
それは復讐ではなかった。
彼女自身の再生のための誓いだった。
数ヶ月後、静かな夜に産声があがった。柔らかな黒髪と、小さな拳。
「……ノア」
その名をつけた瞬間、エステルの瞳に涙がにじんだ。
“安らぎ”と“救い”の意味を込めて。
自分は愛されたかった。
けれど、この子は最初から愛されるべき存在として、生まれてきた。
──たとえ世界が背を向けても、私はあなたの味方でいる。
それが彼女の、二度と失わぬ誓いとなった。
だがその一方で、ディビッドの人生は緩やかに、確実に崩壊していった。
ディビッド・クラウゼンは、静かに壊れていった。
最初は順調に見えた。ミラの妊娠、出産。
「跡継ぎが生まれた」と一族は安堵し、社交界も形式的に祝福した。
しかし──それは幻だった。
幼子の顔は彼に似ていかなかった。
目元も髪色も、何ひとつ。日に日に違和感が増していく。
そしてある夜、酔ったミラが口にした。
あれは、笑って済ませられる冗談ではなかった。
「あなたの子だと思っていたの?」
ディビッドの中で何かが決定的に崩れた。
ある日、ディビッドの執務室に、一本の報告書が届いた。
侯爵家の下で動いていた古い諜報網。
その中のひとりが、偶然立ち寄った町で「見覚えのある貴婦人の姿」を見たという。
「侯爵夫人……いえ、元夫人エステル様が、子どもを連れていたそうです。年の頃は四つか五つ……黒髪で、貴族の教育を受けた様子」
その一文を読み終えた瞬間、ディビッドの手から紙が滑り落ちた。
呼吸が乱れる。
咄嗟に否定したい言葉が、喉の奥で泡のように溶けた。
──私の、子?
だがエステルは何も言わず、離縁の時にも一言も告げなかった。
「なぜ何も言ってこない……」
ふいに、書斎の扉が開き、ミラが入ってきた。
だがディビッドはもう彼女の存在すら意識していなかった。
手元には、崩れた筆跡のまま残されたエステルの旧姓。
その名前が、突き刺さるように心臓を打った。
「もし…あのとき、彼女と……」
言葉はそこまでだった。
屋敷は急速に荒れていった。
ミラは奇行を繰り返し、侍女を叱り飛ばし、貴族の間では「醜聞」としてささやかれ始めた。
そしてある日──ディビッドの馬車は、山道で転落した。
事故か、あるいは……自らか。
誰にも真実はわからなかった。
だが確かなのは、彼が一週間前に王宮に届け出した遺言には、こうあったことだった。
「侯爵家の正式な後継者として、エステル・ロランの子──ノアを、ノア・クラウゼンとして指名する」
遺言が開封された時、ミラの絶叫が屋敷中に響き渡った。
義母は蒼白になり、後ろ盾となっていた一族も沈黙した。
侯爵家は、それを最後に「沈んだ」。
そして再び、エステルの名が侯爵家と共に語られる時代が始まった。
遺言が開封された日、ノアはまだ五歳だった。
だが真っ直ぐな眼をして、母の言葉を静かに受け止めた。
「あなたは、私の子。そして、クラウゼン侯爵家の血を引く者」
ノアは頷いた。
「でも、おかあさまのこであることのほうが、だいじです」
その言葉にエステルは静かに微笑み、息子を抱きしめた。
──そして彼女は決して、誰のものでもない人生を歩き出す。
愛した男に裏切られたあの日、すべてを失ったと思っていた。
けれど、そこから得た命が、彼女を母にし、女として立ち直らせた。
薔薇が咲くには茨がいる。
血を流し傷ついてこそ、強く、美しく咲く花になる。
ディビッドは誰も愛せず孤独なまま人生を終えたが、その先に残されたのはエステルとノアの強い絆と未来だった。