4、原始の森
4、原始の森
気を失っていたらしい。
眠りからかスライダーからか、その両方が合わさった空白の中から未知は意識を取り戻した。
砂時計の塔からの緊急の脱出のせいで想像もつかない多くの時間が流れていったのではないかと危惧するくらい、環境が一変していた。
太陽の熱にすべて奪い去られたように何もないむき出しの砂漠に対し、今未知がいるのは木々で蔽われた密林や樹海のような場所だった。ブナ、カシ、杉といった大木や、シダ植物、つる植物が境界というものを知らないようにあふれかえる自然のままにそびえ、茂っていた。
人間の気配が全くないその森は、不安を掻き立てるよりむしろ、自然の中で植物が充足しているがゆえに心地よさを感じるのだった。
砂時計の塔を落下する砂の音のない轟音から生まれ出た忘却の靄から逃れてきたのだが、この森には生物の原始に立ち返った一種のノスタルジアが漂い、生命の揺籃状態といった静寂の中で、まどろみに誘い込まれそうだった。
うっそうと茂った木々は、すべてを覆い隠していた。そこにはこれから始まる生命や歴史、世界の萌芽が潜んでいた。それらはやがて台頭し、生命の王国の一角に枝を広げ、存在を誇示していくのだ。そしてそれらの台頭してくる生命を導くのが、時なのだろう。
砂時計の塔の管理人の老人が言ったように、この場所に来てクロノスに近付いたのだろうかと未知は考えた。この森のどこかに、クロノスは身を潜めているのだろうか。うっそうと生い茂った木々の葉が空をほとんど占拠している森では、昼と夜の区別がはっきりせず、時間はその存在をカメレオンの擬態のように森と同化させているかに思えた。
と、その時、高い梢の彼方でゴロゴロと雷鳴が鳴り響いた。それを合図に忽然と驟雨が降り注いだ。野蛮とも感じられる自然の雷と雨は、森の植物にとっては待望のご馳走だ。雷に鼓舞された雨は木の葉や地面に激しく打ち付けるが、それによって湧き起こるのは、植物たちの歓声そのもの。
なんとダイナミックな自然の饗宴なのだろうと、未知は感嘆した。自然への怖れより親和性を感じる彼女は、異物として排斥させることなくこの情景に溶け込んでいた。
ひと際大きな雷鳴が轟いたかと思うと、森の巨木に落雷があり、木の中ほどから真っ二つに折れて、戦の将軍が撃ち取られたかのように仰々しく倒れていった。その木は年降りて腐りかけていたのか幹に洞があり、二つに折れたことで洞の中があらわになった。
巨木の洞はフクロウやリスが巣を作るというが、中から現れたのは、小人だった。森に小人とはいかにもありそうな話だと、現実感を失っていた未知は好奇心にそそのかされて目を凝らした。小人は全身黒ずくめで頭にフェルトの帽子をかぶっていた。帽子は羽根がなく緑でもなかったが、ピーターパンのような印象を与えた。
小人は洞から地面に、身軽な所作で飛び降りた。身の軽さを誇示するように宙返りまでして見せた。その瞬間、いまだに続いていた雷雨の稲妻が、まるでスポットライトを当てるように小人を照らし出した。するとその稲妻の効果ででもあるように、小人は突然大きくなり、普通の人間ぐらいのサイズになった。
未知があっと小さく叫ぶと、黒ずくめの人物は変身を終えた体をまっすぐに立て、ゆっくり未知のほうに振り向いた。見ると、その顔は灰色の仮面で隠されていた。普通の人間のサイズになったとはいえ、その体つきは華奢でまるで少年のようで、帽子の下から覗く髪は茶褐色で若々しかった。
白髪の老人のクロノスを想像していた未知はどう判断していいのか迷い、声をかけるのを躊躇した。すると未知の思いを見透かしたように、相手は機先を制して語り掛けてきた。
「君はクロノスを追いかけてきたのだね」
すべてお見通しと言ったその冷静で落ち着いた口調は、相手の年齢に関する未知の推測を一層混乱させた。
「そ、その…」と未知は言葉を詰まらせた。
「私がそのクロノスだ」とその人物はのっぺらぼうの仮面の下から、厳かな声音で言い放った。
これが人間を容赦なく死へ、終焉へと駆り立てる時間の神、クロノスなのか?美しく咲き誇った花々を踏み荒らして枯らせていき、万物を時間のベルトコンベヤーに乗せて流転させる、クロノスか?
雷は遠のいていたが、稲妻が時折薄暗い森を照らし出していた。クロノスに照明を当てるように光った時、未知はクロノスが黒装束の上に黒マントをまとっていることに気付いた。魔法使いを思わせる黒マントを見て、未知の心の中の幻想や非現実への渇望がゆらりとうごめいた。
「あなたがクロノス…」とようやく未知は言葉を発した。
「そう、クロノス」
相手は頷き、さらに言葉を継いだ。
「時間は本来、実体をもたない。しかし砂時計の塔の番人が言ったように、こうして姿を現すことがある」
やはりすべてを見知っているのだと、未知はクロノスの全能とも思える力に畏れを感じた。
「君は「朝陽の国」という物語を書き、現実から夢へと突き抜けて、クロノス(私)を追ってきた。そこで私は君と少し話をしてみようと思ったのだ」
「朝陽の国」を知っている?そのことが未知のクロノスへの壁を崩し、歩み寄る勇気を与えた。
「あれを書いたのはずいぶん前です。」未知は堰を切ったように話し出した。
「でも年齢を重ねてまた人間の変化や老いを考えるようになって、永遠の美や若さを有する朝陽の国やルシアンの存在を理想として肯定するのか、それともそれを荒唐無稽な絵空事として一蹴するのか、わからなくて…」
「君は心の奥でずっとルシアンを追い続けていたのだろう?」
クロノスの問いかけに、未知は溜息をついて首を横に振った。
「永遠の生命とか枯れないバラとか、それは決してあり得ない夢(impossible dream)なんです。人生は時の上に構築されていて、不可能な夢を追うものはそこから脱落するしかない」
それはとっくに悟りに達したことと、未知は諦念を交えて言った。
クロノスは仮面の顔をまっすぐ向けて、未知の弱気なあきらめを訝しむような視線を注いだかに思えた。
「私が不可能な夢を否定する張本人だというのかい?確かに人は永遠に生きることはできない。美も若さも失われていく。しかしそれは時の仕業ではなく、生きていることの証しであり、宿命なのだ。
生命を機能させるのが時間だ。変化のないものは生命ではない。生命と死、若さと老いは時間によってつながった現象といえる」
未知は時間の神の言葉を一言一句聞き漏らさないよう、意識を集中した。
「時間が生命を死に至らしめるのではなく、生命と死は時間の同一線上にある、時間が媒介する対象的な現象であって、時間が原因ということではない。
時間は永遠に敵対しない。
時はバラを枯らすものではなく、バラの生命を機能させ、開花に導く。バラの生命の中に元々咲く、枯れる、散るという過程が組み込まれている」
未知はクロノスの前に凍り付いたように佇んでいた。クロノスの言葉は一言も漏れることなく未知の心に伝わっていた。未知にはわかっていた、仮面の下のクロノスの目が未知の内面を見透かし、食物が消化されていくように言葉が浸透していく様を見届けていることを。
「今という時間の中に永遠がある。永遠を希求し夢見る、そんな思いを今にいっぱい注げば、時が膨らんで永遠になる。あるいはこう言ってもいい。天啓の一瞬、思いは膨大なエネルギーを生んで永遠へと突き抜ける。わかるかい?」
未知にはなんとなく理解できた。ヴァイオリンは時を天界へと舞い上がらせ、絵画はそれをキャンバスに固定させる。天啓=インスピレーションが時を永遠に導く、それが芸術なのだ。
未知の考えを読み取ったようにクロノスはそのあとを続けた。
「それは芸術だけでなく、誰にでも可能なことだ。今という瞬間が永遠に続けばいいと思う、それは時間の中の生命や人生、人、(自分自身でも他人でもいい)や景色や物を愛するということだ。つまり愛するということは、時の大聖堂の中を反響し、天界へと響き渡っていくこと。そして…」
クロノスはマントの下の懐から何かを取り出した。手のひらにすっぽり収まっていたそれは、クロノスが魔術師のように鮮やかに手を動かすと、30㎝ほどの長さの棒になった。それが魔法の棒だということは、クロノスとの対比で直感的に分かった。
「時の神の私を追ってきた君、これから私が行く場所に一緒に来るか?」
雷鳴が去って太古の静寂に立ち返った森に、その声は天からのお告げのように鳴り渡った。
未知が盲目的にクロノスが差し出した手を取ると、クロノスは黒マントを翻し、魔法の棒を一振りした。