1、ルシアン
1、ルシアン
「なぜ人は老いるのだろう」
それが未知の時への探究の第一歩だった。ある映画俳優、あるいは女優の若き日の美貌と40年後、50年後の現在の老いた容貌の変化に衝撃を受け、悲嘆したことをはじめ、楽曲をきっかけに入ったWETUBE(動画共有サイト)の世界では、60年代、70年代に眩い光輝きを放っていた若者が灰色にくすんだ老人へと変化していた。それは世の常として当たり前のことであり、苦い錠剤のように飲み下すべきことなのであるが、未知の心に嚥下できないまま引っかかっていた。
当時と現在を見比べ、反復し驚きと慨嘆を繰り返すうち、未知の心にはその変化を生み出した張本人である「時」への複雑な感慨が形作られていった。
「時間とは何か。これは一個の謎である。実体がなく、しかも全能である。(中略)時間は変化を生み出す。現在は当時ではなく、ここはあそこでない。」(トーマス・マン「魔の山」より)
時間は淡々と流れ、すべてを古びさせ老いさせ、忘却の中に吸い込んでいく。それは流れ続けることで生命を生命たらしめ、人生を人生として機能させる。淡々としてその存在を意識させない空気のようでありながら、無慈悲さを人の心に沈殿させる。
時間に無抵抗に流され、老いて死んでいく人間の無力さ。虚しさ。
時間の流れの作用に抵抗するには、時から離脱する死か、時から追放されるバンパイヤのような化け物になるしか方法はないのだろうか。何人も、厳格な時から免れることはできない。
未知は昔、「朝陽の国(the sunrise country)」という物語を書いた。不思議な旅芸人の一座が小さな町へやってくる。その座長ルシアンは美しい少年だったが、その美しさには生命の鼓動は息ずいていなかった。
黒マントをまとった神秘的なルシアンにルイたち13歳の少年は幻惑され、仲間の一人、シムが雪の女王にさらわれるカイのようにルシアンに連れ去られた。雪に覆われた森や村を、ルイとロンはルシアンら旅芸人の一座を追いかける馬車の旅に出る。
それは東へ向かう旅の一座、座長ルシアンの魔法の指先は黄金色に輝き、東へ東へと指し示す。その向かう先にあるのが、朝陽の国。そこは14歳以下の子供の王国で、そこでは人は年を取らない。ピーターパンのネバーランドを想起させるが、永遠の美少年ルシアンは、夢や理想を体現している。彼は現世や俗世間へのアンチテーゼであるからこそ、激しい憧憬を掻き立てる。
しかし、人間ではないものへの抵抗と疑いがルイの中にあった。連れ去られたシムは、現実では沼でおぼれて死んだことになっていた。
時から逸脱することは、人間らしさを剝奪されることではないのか。時から離脱するということは、時を絶対的な基盤とした生命や人生から外れることで、それらを放棄することではないだろうか。
ルイは朝陽の国へ行くというルシアンの誘いを拒絶し、堅実な人生を生き、老いていく。未知自身の中にも、永遠の生命を謳う朝陽の国への憧れと、人生から脱落するのではという疑問との相克があった。
全能であり、人生の基盤である時間、ギリシア神話では時間の神として擬人化されている。それがクロノスだ。クロノスは老人の姿をし、手に鎌と砂時計を持っている。
時間の神クロノスの目を盗んで、時の有刺鉄線を超えて逃走することなどできるのだろうか。また、クロノスはルシアンのように年を取らない存在を許容するのだろうか。
部屋で一人思索にふけっていると、とりとめのない思いが浮遊する静寂を、時計の秒針の音が切り刻んでいった。
時計、それは現代社会に不可欠な時の番人であり、衛兵だ。規則正しく杓子定規に時間を計っていく、一糸乱れぬその足並みは、背後から迫ってくる正体の知れない靴音のように不安を掻き立てる。
コツコツと執拗に迫ってくる時間に追い立てられて向かう先は、人生の終点、死なのか。時間が人間を鼓動と奇妙に連動する足音で迫ってくるものならば、その逆をいき、時間を追えばその正体をつかめるかもしれない。
音もなく流れ落ちていく砂時計の砂、それは時計の音のように盲目的に前進を促すのではなく、上下を逆転するとき、そこに時間の逆流が起きるという錯覚が生まれる。過去が未来に、現在が過去に。
時間の化身となった砂は、錯覚を催す呪文を内包しつつ人を時間の束縛から解き放ち、過去へ、空想の世界へ、あるいは永遠へと流れ落ちていく。
砂がたてる時間の音は、夢見る者だけに聞こえる夢への序曲。
時間の外へ誘うように、砂は屈託なくさらさらと流れていき、上下も過去、未来、現在もその区別をおぼろげにするように堆積していく。