42話 安曇磯良、浮上
カカッ!!
拍子木の鋭い音が海底の静寂を切り裂いて響き渡る。
響きが止まぬうちに、海底の砂が竜巻のように巻き上がり、幻想的な光を放つ。
『東西、東西ーーっ! さあ、これより始まりまするは、天下無双の呼び出し神楽!』
亀吉の声が、先ほどまでの穏やかなものとは一変し、朗々と響き渡った。拍子木が打ち鳴らされるたび、海底の舞台に光の柱が幾本も乱舞し、辺りを黄金色に塗り替えていく。
『……それだけではございませぬ! 異族降伏の計略を完遂するためには、龍宮に伝わる「干珠」「満珠」の二つの宝珠を借り受けねばなりませぬ!』
亀吉は、手にした扇をバッと広げ、まだ見ぬ深淵を指し示した。
『されど、龍宮の深淵へ潜り、その宝を龍神より預かれるのは八百万の神の中でもただ一人……。やはり、常陸の海の底にまどろむ、安曇磯良神をおいて他にはおらぬのでございます!』
亀吉が扇を閉じると、中央に武内宿禰が立ち上がった。
白いあごひげを揺らし、ゆったりとした上着の翁。思案してる風にあごに手を置き、体を揺らしながら歩き回っている。
これと似たようなのを見たな? 弥沙は思う。──そうだ。昔TVでやってた。さながら、勝手に動く人形劇のよう。
宿禰はふと顔を上げた。視線の先は、サンゴに腰かけている鎧を着た女性──神功皇后。
『皇后……。磯良を召し出す使いには、月神(高良神)を遣わすのが最善かと存じます』
武内宿禰の落ち着いた声が響く。しかし、即座に別の、荒々しく力強い声がそれを遮った。
『ならぬ!!』
ドン!
住吉の大神が、激しく足を踏み鳴らす。
逞しい体躯に、深紅の鎧を身に着けていた。
『月神は天の尊きお方。そのような貴人を、泥にまみれた磯良の元へ遣わすとは、海神の端くれとして見過ごせぬ無礼なり!』
神々の間に、ピリピリとした火花が飛び散る。弥沙は思わず息を呑んだ。
そこへ、月のように淡い光を纏った者が静かに歩み出る。
『――住吉の神よ、案じられるな。名は器に過ぎませぬ』
月神・高良神の涼やかな声だ。
『私がその名を伏せ、一介の大臣として参りましょう。名を『藤大臣連保』と改め、お忍びにて磯良の元へ。これならば異存はありますまい』
『……ううむ。月神自らそこまで仰るならば……』
住吉神がようやく矛を収める。
次の瞬間、高良神が、美しい藤色の衣を纏った姿へと一変した。
亀吉は、声を張り上げる。
『さあ、これぞ月神の化身、藤大臣! 磯良を救い上げるための、お忍びの旅の始まりでございまする!』
亀吉の声が辺りを割り、高良神を演じる影がふわりと岩陰へ消える。
一瞬の静寂のあと、波の音がひときわ大きく響き、深い深い海の底――。
そこに、──磯良がいた。
ただ、そこに在るだけで、周囲の海水を凍らせるような静謐な威圧感を放っている。顔を覆う大きな白い布は、水中で生き物のようにたなびき、その輪郭さえも定かではない。
『さてさて、現れたる磯良の姿を見れば、これいかに!』
亀吉の扇子が闇を指し示す。
『長き年月、海底に伏したるその顔には、びっしりと石花(牡蠣)がこびりつき、見るも無惨な異形でございました。磯良は己の姿を深く恥じ入り、再び暗き淵へと帰ろうといたしまするが……そこへ!』
カカッ!
亀助が勢いよく拍子木を叩く。
『あまりの醜さを恥じて隠れる磯良の顔を、藤大臣――すなわち高良神が、その慈しみ深き手で、三度撫で上げられました。』
藤色の衣を纏った高良神が、無言で、けれど確かな温もりを湛えた手で、磯良の顔に触れる。
『するとどうでしょう! びっしりとこびりついていた石花が、真珠の滴のようにポロポロと剥がれ落ち……。されど、いかに高良神の御手といえど、長き年月の呪縛はあまりに深い。磯良の顔には、未だ多くの石花が残り、その素顔を固く閉ざしたままでございました』
磯良の影は何も語らない。ただ、震える手で顔を覆い、さらに深く海底の闇へと身を沈めていく。
『……ダメなの? せっかく高良神が手を差し伸べたのに』
ツキが思わず声を漏らすと、亀吉が磯良の痛みを叫ぶように声を張り上げた。
『磯良の心は、絶望に震えておりまする! 『おお、情けなや! このような見苦しき姿、神々の列に加わることなど到底できませぬ!』……磯良は再び、五十日、六十日の眠りにつくべく、海の底へと逃げ帰ろうといたします!』
カカッ!!
亀助の拍子木が、逃がさぬと言わんばかりに再び鋭く鳴り響いた。
『お姿を見せてくださらぬのなら、こちらにも考えがございまする!』
亀吉が扇子をパッと閉じ、挑戦的に天を指し示した。
『言葉でダメなら、癒やしでダメなら、あとはもう……『祭り』しかございませぬ!
八百万の神々を総動員し、この海を、この世界を、喜びの音で満たそうではございませぬか!
さあ! これこそが神々の総力戦! 前代未聞の呼び出し神楽の始まり、始まりーーっ!!』
亀助の拍子木に応えるように、どこからともなく地鳴りのような太鼓の音が響き始めた。
『これこそは神々の総力戦! 住吉、諏訪、熱田、三島、高良の五柱が『神楽男』となって躍り!』
舞台を囲む光の柱が、神々の動きに合わせて激しく明滅する。荒々しく地を叩く足拍子が、海底の砂を黄金の吹雪のように巻き上げた。
『宝満大明神は八人の乙女となって、鈴を振り、花のように舞う! 住吉の神自らが拍子を取り、その歌声が海底を揺さぶりまする!』
波のうねりがそのまま旋律になったような笛の音、そして腹の底を突き上げる太鼓の連打。
八人のひらひらとした衣装を身に纏った少女たちが、くるくると舞う。
周囲の泡の一つひとつが小さな真珠のように輝きながら上昇していった。
──その時。
見上げる頭上の漆黒が、巨大な刃で断ち切られたように左右へと裂けた。
海底にいる弥沙たちから見れば、それは巨大な『光の裂け目』が深淵まで届いたかのようだった。
『神楽の熱狂に誘われ、ついに海面が割れる! 龍王の使い『小龍』という早亀に乗った磯良が、一気に浮上いたしました!』
天から降り注ぐ月光の柱の中を、巨岩のような甲羅を持つ巨大な亀が舞い降りてくる。
それは龍宮より遣わされた使者――『小龍』の名を冠する、伝説の早亀だった。
ただの生物とは思えぬほどに硬質で、濡れた大理石のように光る甲羅を背負ったその姿が、激しい泡の礫を蹴立てて現れる。
その背に立つ磯良の姿は、神楽の光を反射して白銀に輝いている。
顔を覆う白い布が、激しい海流にたなびくたび、その隙間から凍てつくほどに清浄な霊気が溢れ出した。
太陽の光さえもその気高さに道を譲るような、圧倒的な『海の主』の顕現に、弥沙は呼吸することさえ忘れて立ち尽くした。
『……磯良。ようやく、応えてくれたのね』
豊姫を演じる艶やかな衣装を纏った影が、静かに一筋の涙を流した。
それは、長い拒絶の果てに結ばれた、神々の祈り。
『さあ! 磯良は『早亀』に豊姫を伴い、一気に龍宮の深淵へと姿を消しました!』
再び、波間から現れた異形の神・磯良。
彼らを乗せた海原を割ってくる亀から、清らかな光が波紋となって広がっていく。
豊姫がその手に捧げ持っているのは、内側から眩い黄金の光を放つ大きな鉢。
「……あれが、干珠と満珠」
弥沙の瞳に、鉢の中で静かに脈打つ二つの珠が映り込んだ。
それは、潮の満ち引き、生命の誕生と終焉――大いなる海の理そのものを結晶化させたような、濃密な蒼と白の光を湛えている。
珠が放つ微かな拍動が、弥沙自身の鼓動と重なる。
千数百年の時を超えて、海神が人間に託した「守護」の証。その重みが、黄金の輝きとともに弥沙の胸の奥深くまで浸透していくようだった。
『干珠満珠の力にて、無事に三韓征伐を成し遂げました!』
凪いだ海と、穏やかに照らす月光。
皇后の傍らに、静かに微笑む高良と磯良、そして豊姫の姿があった。
『これより七生の契りと相成りまする!!!』
その声が響いた瞬間、波打ち際の砂が黄金色に沸き立ち、弥沙の視界は真っ白な光に包まれた。
それは誓いという名の、永遠の呪。
海と陸、神と人が、遠い未来まで共に歩むことを約束した、魂の刻印だった。
『いざ、八幡の御代の始まりでございまする!』
カン カン!
二人の声が晴れやかに声を上げると、空気は一変し、清々しい静寂が広がる。
童子は並んで深くお辞儀をした。
「……終わったのね」
二人は満面の笑みで応える。
『はい。これより、この国には永きにわたる平和の春が訪れるのでございまする』
満足げに頷いた童子たちの姿が、溶けるように消えていく。
途端に、目の前の演者たちが、魚やカニに変化して、海の彼方へと散らばっていった。
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*参考資料
・快元 (僧) 『八幡愚童訓上群書類従巻第十三上』 京都大学所蔵,
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00018799,(参照2026-04-23)
脚色してます。あくまでも参考文献です。
*こんな素晴らしい古書を、ネットのアーカイブで拝読できるとは感激です。
国立国会図書館さまと共に、貴重な資料を公開してくださっていることに感謝いたします。




