1章*2話*奴国の風と安徳台のハル
邪馬台国はどこにあったのか。
その答えが、ここにある——。
神功皇后の伝承が残る、岩戸の地。
古代の名を、奴国という。
『魏志倭人伝』に、邪馬台国と共に記された国だ。
*
このところ、毎晩のように同じ夢を見ていた。
泥の冷たさと、噴き上がる怒り。あの大気を震わせる重低音――。
夢から覚めた弥沙は、吸い寄せられるように本棚の隅へ手を伸ばした。
淡く、けれど確かな意志を持って発光していたあの本。
手に取ったのは、夜が白み始める直前のことだった。
『二柱の天照』
いつ、誰が買い求めたのかも分からない。
版元の名すら記されていないその本は、今まで何度ページをめくっても、文字がひどく掠れて判別することすら叶わなかったものだ。
けれど、今、指先が表紙に触れた瞬間、弥沙の心臓がトクンと跳ねた。
理屈ではない。本から伝わる、生き物のような微かな熱。
拒み続けていたはずの白濁したページから、鮮烈な光景が溢れ出し、彼女の脳裏へと流れ込んできた。
銀の葉を揺らすオリーブの畑、波打つ草地。外界と隔絶されたような独特の空気感。
遠く霞む立花山の稜線から、眼下に広がる那珂川の町並み――。
──安徳台?
そこは、弥沙がお気に入りの場所だった。脳裏に焼き付いた夢の映像、その後に見た、発光する本。
目に見えない何かに繋がっていることを直感していた。
何もないはずがない。
あの夢も、この本の熱も、すべてがどこかで繋がっている。 そんな確信があった。
理由が知りたかった。なぜ自分があの夢を見るのか。
なぜ、こんなにもあの場所へ行きたいと思うのか――。
訳が分からない衝動に突き動かされた。
まだ夜が明けきっていない内に、本をリュックに押し込み、家を飛び出した。
そして、今、安徳台に立っている。
目覚めた瞬間から……いや、きっと、そのずっと前から、弥沙はこの乾いた風を求めていた。
台地の縁に立つと、那珂川の町が一望できる。眼下には規則正しく並んだ田んぼと住宅地。
遠く博多湾まで見渡せる晴れた日には、水平線が白く鋭く光った。
今朝方、本を通して見えた光景が広がっていた。
安徳台。
福岡県那珂川市にある独立した台地。
九万年前の阿蘇の大噴火により、流れ出た火砕流によってできた。
四方を巨人の手で削り取られたかのごとき、不自然なまでに平坦な天辺。
その異質な姿は、人が立ち入ることを拒む、神の造りたもうた壇のようにも見える。
標高六十メートル。周囲からは三十メートルほど突き出した、孤立したステージのような場所だ。
天辺は鏡のように平らで、そこにはオリーブの銀色の葉や、みかんの瑞々しい緑が広がっている。基本、耕作地であり、うろうろするのは気が引けていた。
この街に住む者にとって、ここは『安徳天皇のゆかりの地』であり、日常に溶け込んだ景色の一部だ。
のんびりした隔絶した空間。
けれど、今朝の安徳台は、いつもと何かが違っていた。
夏の始まりを告げる朝。東の空は、まだ明けきらぬうちから燃えるような朱色に染まる。
じりじりと肌を焼く熱気の中に、早起きの草木が放つ濃い匂いが混じっていた。
湿った土、青い茎、そして近づく季節の予感。台地の端に立つと、吹き上げてくる風が思いのほか強くて、弥沙の髪を無遠慮にかき乱し、頬に張り付かせた。
*
その時。
背後で、パチリと空気が弾けるような音がした。
振り返ると、そこに『光』があった。それは瞬く間に広がり、天と地を繋ぐ、巨大な光の柱へと姿を変えた。
ごうー。
台地の中心から、まっすぐに、垂直に。太く、力強く、揺るぎない質量を持って、それはそこに顕現していた。
金色とも白ともつかないその輝きは、朝日の光さえも吸い込んで、自ら発光している。
激しい風の中でも、光の柱は微塵も揺るがない。
ただ、その内部を光の粒子が、上から下へと、あるいは地から天へと、猛烈な勢いで流れていた。
音はない。けれど、鼓膜の奥で「ごうっ」という地鳴りのような咆哮が聞こえる気がした。
「光の……柱?」
弥沙は思わず、声にした。
神は一柱、二柱と数える。
かつての人々は、この圧倒的なエネルギーの奔流を目の当たりにして、そこに神の姿を見たのではないか。
弥沙はぼんやりとそう思った。
畏怖に打たれ、ただ、呼吸を忘れて立ち尽くす。
*
どれほど時間が経っただろう。気がつくと、彼女の足は勝手に動き出していた。
一歩。草を踏みしめるたび、大地の熱が足の裏を焦がすような錯覚に陥った。
二歩。柔らかな土を踏みしめる。湿った大地の吐息が、匂いとなって鼻腔をくすぐる。
三歩。近づくたびに、鼓動が速まる。
誰かが、待っている。 その確信が、逃れようのない予感となって心臓を叩いた。
ようやく会える。なぜか、ふと思った。
そして――そこに、いた。
光の残滓を纏い、真っ白な何かが、凛として佇んでいる。
猫だった。
けれど、ただの獣ではない。その場に在るだけで周囲の空気を清めるような、人を寄せ付けない気高さがあった。
猫はゆっくりと光の淵を越え、現実の世界へと踏み出した。
草の上に、まるであつらえた玉座へ座るかのように腰を下ろすと、じっと弥沙を見つめる。
覗き込んだ弥沙の目に飛び込んできたのは、宝石のように澄んだ、深い藍色の瞳だった。
まるで、底知れない宇宙をそのまま閉じ込めたような色。
けれどその奥で、一瞬だけ金色の光が走った。
──ラピスラズリ。
真実を探究し、持つ者を幸せに導くという「瑠璃」の輝きだ。弥沙は一瞬で、その瞳の奥に広がる深淵に目を奪われた。
不思議なことに、驚きはなかった。この異常な光景を、当然のこととして受け入れている自分がおかしかった。
ずるいな。心のどこかで思った。猫の姿で現れるなんて。そんなの、無条件に信じてしまうじゃないか。
「来たね」
猫が、言った。
鈴を転がすような、けれどどこか懐かしい響き。
「……あなたは」
「ハル」
短く、猫は答えた。尻尾の先が、ゆっくりと左右に揺れた。降り注ぐ光の粒をその身に纏い、真っ白な毛先の一つひとつが眩しく煌めいている。
「名前?」
「そう呼んでいい。君は……」
「弥沙だよ」
そう答えると、思いふけるように押し黙った。
弥沙はしゃがんで、猫と目を合わせた。藍色の瞳の中に、小さな彼女が映っていた。
朝焼けに染まる空も、台地の草も、全部映っていた。
「待っていた」
「誰を?」
「君を」
風が吹いた。
台地の草がさわさわと鳴って、東の空の光がもう少し深くなった。
遠くで、烏が鳴いた。
「ずっと」
猫は瞬きもせずに言った。その目に、嘘はなかった。嘘がないと、なぜか分かった。
「どれくらい」
「ふふふ」
ただ笑うだけだった。
*
弥沙は立ち上がって、もう一度、台地の中心を見た。光の柱は、もうない。
風が草を揺らす音と、遠くの烏の声だけが、台地の上に漂っていた。
でも確かに、あれはあった。
「ハル」
弥沙は呼んでみた。
声に出すと、その名前はこの場所によく馴染んだ。
猫が、ゆっくり立ち上がる。尻尾をまっすぐ立てて、台地の端の方へと歩き始めた。
三歩歩いて、振り返る。
藍色の目が、言っていた。おいで、と。
その瞳に見つめられると、今までの常識や、昨日までの退屈な日常が、足元からさらさらと崩れ落ちていくような気がした。
この先に何があるのか、怖くないと言えば嘘になる。けれど、この白い猫が示す道の先にしか、私の探している「答え」はない――。
ふと前を見ると、ハルと目が合った。木漏れ日の中、光を纏って神々しさを感じた。
猫は神様だっていうの、信じるよ。
「弥沙?」
「ふふふ」
一歩踏み出すごとに、背後に広がる灼熱の陽光が遠のいていく。台地の縁に広がる木立が、まるで巨大な門のように二人を迎え入れた。
一歩。また一歩。
光と影の境界線を越えた瞬間、肌を撫でる空気の熱が、ひんやりとした静寂へと一変した。
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※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです。




