3話 太古の導者と神功皇后
ハルを追って木立に足を踏み入れると、世界が鮮やかに切り替わった。
さっきまでのじりじり焼ける日差しは、厚い緑の天蓋に遮られ、空気はひんやりと肌を撫でる。
太古から積み重なった落ち葉の匂いと、湿った苔の香りが鼻を突いた。一歩踏み出すごとに大地の柔らかな弾力が、弥沙を異界へと誘うようだった。
前を歩く白い猫――ハルは、時折振り返っては藍色の瞳で弥沙を確かめ、また迷いのない足取りで落ち葉の絨毯を踏みしめていく。
ジェーッ、ジェーッ!
静かな木立を切り裂くような、少ししわがれた鋭い鳴き声。
弥沙が思わず耳をふさぐほど、それは唐突で激しい響きだった。
『ハルじゃあないか』
頭上の高い枝から、不意に、人のしわがれ声が降ってくる。
「……源じい?」
見上げると、太い枝の上に一羽の鳥がいた。美しい青みがかった一筋の翼を持つ、小さな鳥――カケスだ。鳥がしゃべった。けれど、猫がしゃべるのだからおかしくはない。弥沙は、不思議とすんなり納得していた。
ひらりと舞い降りてきたカケスは、弥沙のすぐ上、手の届きそうな枝に止まった。その瞬間、森の空気がしんと静まり返ったような気がした。
その小さな瞳は、まるで磨き抜かれた黒曜石のように深く、すべてを見透かすような底知れない知性に満ちている。
「源じい、久しぶりだね」
ハルの声が少し高くなった。嬉しさがこちらまで伝わってくる。白い優美なしっぽが、パタパタと小刻みに揺れた。
『そうさのう。何千年ぶりかや』
「そんなに経ってないよ」
『そうさのう。昨日のことのようでもあるのう』
「今度は鳥なの?」
『ここのとこは鳥さ。自由に飛ぶのが気に入ってね』
カケスが、ちょこんと首をかしげた。
それから、弥沙をじっと見つめる。
『その娘は』
「覚えてるだろう」
覚えてる?──弥沙には、この鳥に会った記憶などない。なのに、なぜか懐かしいような気がした。
でもカケスは、「ふうん」と小さく鳴いて、また枝の上で羽を整え始めた。
『どうしたんだい。わしのとこに来るからには、何か聞きたいことがあるじゃろう』
「うん」
ハルは迷わず答えた。
「僕、記憶のロックがかかってるみたいで。ここで何があったの?」
ロック?......って鍵?
弥沙は、木漏れ日に光るハルを見た。
カケスは少し黙り込む。木の葉が風に揺れて、薄暗い木立の中に光の斑が躍った。
『そうさのう。……遠い昔のことじゃ』
源じいは、ゆっくりと瞬きをした。
『あの……二人が来る前は、水がなくてのう。乾いた土地じゃった。水が来て、稲が育って、人が集まってきた。この台地が、賑やかになったのはそれからじゃよ』
「源じい」
ハルが、頭上の枝を見上げて言った。
「二人の話、もう少し詳しく教えてよ」
源じいは、首をくるりと回して弥沙を見た。その瞳は、鳥のそれにしてはあまりに深く、静かな光を宿している。
『そうさのう。あの女の方は、凛としておった。まるで、その場に立つだけで周囲の空気が静まるような……そんな気高いお人じゃったよ』
「女の方……」
弥沙は、その言葉をなぞるように呟いた。
水が来て......。脳裏に、ひとつの名前が浮かび上がる。
「神功皇后……のこと?」
言葉が、口をついて出た。自分でも驚くほど、自然に。この土地で育った者なら、誰もが耳にする伝説の女王の名だ。
弥沙の問いに、ハルがぴくりと耳を動かした。
深い藍色だったその瞳に、まるで瞳の奥で太陽が目覚めたかのように鮮やかな黄金が宿り、瞬きをひとつすると、また静かな藍色に戻った。
ハルは、くんと頭を少し上げた。
「そう。日本書紀にはね、彼女がこの土地を訪れて溝を掘らせた記録があるんだ。でも大岩に当たって工事が止まってしまった。それを武内宿禰に祈らせたら雷が落ちて岩が砕けたんだよ」
「ハル、あなた、それを知ってたの?」
ネットにアクセスしたのだと、猫は事もなげに言った。
「 ネット?......あなた、いったい何なの?」
枝の上では源じいが、すべてを見透かすような目で二人を見下ろしている。
「僕たちは『導者』と呼ばれている。道を示す者だよ。でも、今の僕は記憶を失っている」
そして、弥沙を見つめた。
「……というよりも、強力なロックがかかってる。そして、それを開く鍵が君にあることだけは、確かなんだよ」
風が吹き、木立が揺れた。光の斑が、弥沙たちの周りで激しく踊る。ハルは静かに体の向きを変え、木の上のカケスを見上げた。
「源じい。その時、君が見たことを聞かせて」
ハルの言葉に応じるように、源じいが翼をバサリと鳴らした。その瞳の奥に、重苦しい熱を帯びた「真実の記憶」が灯る。
『そうさのう......』
源じいの語る言葉は、乾いた風に乗って、太古の土の匂いと怒号を運んでくる。
その響きに触れた瞬間、弥沙は喉の奥がキュッと締まるような、鋭い緊張に貫かれた。まだ何も聞いていない──。
なのに、次に語られる『真実』が、自分が知っている世界を根底から覆してしまうことを、魂が予感していた。
常識という名の『歴史』が、足元から音を立てて崩れようとしている。
『あの二人が来る前、この地は痩せさらばえておった。川はあるが低うてな。
水はあっても田畑に届かぬ、ただ眺めるだけの恨めしい流れじゃった。村の衆は皆、天を仰いで嘆いておったよ』
源じいの声は、どこか遠い響きを持って弥沙の胸に沈んでいく。
『そこへ、あの二人が現れたのじゃ』
それが、神功皇后。弥沙は、その姿を脳裏に浮かべた。この地に豊穣をもたらした女王……。
その時、リュックの中の本が、ぶんと重くなったのを感じた。話の腰を折りたくはなかったが、たまらずリュックを下ろす。
『娘さん』
カケスは弥沙を見下ろし、バサバサと羽ばたいた。
『その中にあるもの、見せてみんしゃい』
「はい」
ジップを開け、本を取り出す。
本は、重さを増し、淡い光を漏らしていた。
『これをどうなすった?』
「いつの間にか家にあったの。でも、何が書いてあるのか分からなくて。……それが、今朝、急に光りだしたから」
『なぜ、そうなったか、心当たりはあるかの?』
「ぼくもそれを聞きたい」
ハルはエジプトの猫神様のような佇まいで、弥沙を見つめた。
「……夢を見ていたの。ずっと前から見ていたけれど、最近、それがやけにリアルになってきて。今朝、本が光ったのも、その夢を見た直後だった」
弥沙は、泥の冷たさ、噴き上がる怒り、そしてあの重苦しい音について二人に話した。
ハルは時折、耳をふるっと震わせて、一言も漏らさぬようじっと聞き入っている。
「どう思う? 源じい」
『そうさのう。その答えは、わしの口からは言えぬことじゃ』
「どうして?」
『禁忌に触れる』
「禁忌――」
弥沙とハルの声が重なった。なぜ同時に、と思う間もなく、周囲の木々がざわりと身震いし、木漏れ日の斑が激しく踊る。
目に見えぬ『定め』の糸が、弥沙とハルを固く結びつけたことを、空気の震えが告げていた。
周囲の温度が、しんとわずかに冷えた。
『言えることは、おまいさんが見た夢とその本は、固く結ばれておるということ。そしてハル。おまいさんたちが、その本に導かれる先で『真実』を解き明かしていくことじゃな』
ハルと弥沙は、示し合わせたように顔を見合わせた。
『では、わしからの贈り物じゃ。その本の『真の使い方』を教えてしんぜよう。導く者にしかできんぞ。……さあ、二人とも、そこに手を置いて』
弥沙は近くの切り株に腰を下ろし、膝の上に光る本を広げた。その上にハルが前足を重ね、弥沙の手がさらにその上を包み込む。
『本よ、開け。約束の刻は来た』
*
源じいの低い呟きが、静かな木立に波紋のように広がった。
次の瞬間、膝の上の本が——千数百年の沈黙を破り、眩いばかりの咆哮を上げる。
少しでも『面白いな』『続きが気になる!』と感じていただけたら、ブックマークや画面下にある【☆☆☆☆☆】の評価をポチっと押していただけると嬉しいです。ランキング向上の大きな力になります!
※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです。




