骨董好き極まれりの一形態
昭和刊行の、古めの茶道教本がたまたま手元にやってきてからというもの、昭和に刊行された茶道書や骨董の本を集めて読むのにハマっています。
活版印刷で刷られた文字と紙の風合いや、押し付けが強かったのか文字の形に凹凸したページの感じが、いい。心惹かれてしょうがない。
当時と現在の価値観やジェンダーの違いで、違和を覚えることもあるけれど、そこは忘れてはならぬ歴史の一ページとしてさらりと流しつつ。
現在読んでも「あ、いいな」と感じさせられる文章もやはり存在しているもので、昔の文章はおしなべて感覚の合わないもの、とも限らないのです。
また現在「正しい」とされている送り仮名とは違う表記がされているのも面白いところ。
「美しい」が「美くしい」と書いてあったりとかして。ほんの半世紀くらい前の、名のある人たちが書いた文章の中で。
常用漢字という外見は戦後の頑張りの賜物ではありますが、今はちょっと厳し過ぎないか……? たった半世紀前とだって送り仮名が変わっているんだぞ、と思うなどしてしまいます。
それはさておき。
抹茶碗からスタートして、ぼちぼち骨董沼にふくらはぎあたりまで浸かりかけている私です。
先日古本屋さんで白洲正子編「日本の名随筆5 陶」というのに出会って購入しました。
紙帯? スリーブ? のついた、ややかっちりした本です。中身も綺麗で、普通に読み物として楽しみました。
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陶器を話題にしようとすれば外せないのが骨董なのか、時代的に古いものを集めるのが流行っていたのか……? は、まだ生まれていなかった私には分かりませんが。ともかくアンソロジーの著者たちに共通して出てくる骨董の話題。
中でも印象深かったのは青柳瑞穂という方の随筆「掘出しということ」。この人は小道具屋で気に入った絵皿を買ったらしい……と、ここまでは「ふうん、一度通り過ぎても忘れられない品ってあるよね、わかるわかる」と思って読んでいた……すると青柳氏は、その絵皿を枕元に置いて寝て、夜中に目が覚めることがあると電灯の小さな灯りの下で眺めて楽しんだと書いてある。
わあ! これぞ私がイメージする骨董好き。「なんでも鑑定団」に出演するような人だ!!
……というのは、私の先入観が固定化されすぎているでしょうか?
骨董好きにもいろんな楽しみ方があると思うし、骨董とどう付き合うか、骨董収集の道を進んでいく上でどんなことを心得ておくといいかというのは、他の人が同書の中で書いています。
私にとって特に印象深かったのが青柳さんだったという、だけの話なのでしょう。それでもとにかく鮮烈だったのです。
私だって陶器が好き。
骨董まで行かなくても、一時期ティーカップをできるだけ集めたり眺めたりしていました。
今だって手元にあるニッコーのミングトゥリーをそれはそれは愛好しています。見た目も実用性もあんまり良いから。
でも私の「愛好」は使うことであって、眺めるために使うというか、使うたび眺めて幸せに浸るというか……。食べ物を載せるために作られたうつわを、食器棚や食物から切り離して「枕元に置い」たり、「電灯の下で眺め」たりは、まだしたことがありません。
というよりもしかしたら、そういう愛好の仕方はあまり好意的に見られることではない、という妙な刷り込みが私の脳内にあったのかも。
実家では毎週なんでも鑑定団がついていました。
そこに出てくる骨董好きは、大概家族の中でただ一人、黙々と骨董を愛好しているご様子。
奥さんや娘さんは骨董人の趣味がわからなくて、「ガラクタをたくさん集めて……」と眉を顰めている、というお約束があるようなイメージを受けたのでしょう。
当時小学生だった私は、まさか20年後の自分が骨董沼に入りかけているなんて思いも寄らなかったけれど。潜在意識下に「度を越したうつわ好きは良い顔をされない」と刻んでしまったのかもしれません。
青柳さんの随筆を読んで、そんなことを考えました。
もっと良い言い方をすれば、無意識のタガが外れたということ。
うつわを愛でる手段の選択肢が一つ増えたということです。
うつわとは、確かに食べ物を載せるため、載せられた食べ物を美しく見せるために焼かれたものであるかもしれません。実際に北大路魯山人という人は、料理の道から陶芸へ移ったといいます。いい皿がないから作ろう、という動機で。
しかし皿が「食べ物を載せる」「食べ物を美しく見せる」ためだけにあるのなら、人はなぜ皿に絵付けを施すのか? それも食べ物を載せれば隠れてしまうような部分や、皿の裏側にまでも。
ここに、皿が実用を超えた境界があるような気がするのです。
青柳さんが絵皿を電灯の下で、夜な夜なこっそり眺めて楽しむのは、うつわの美術的側面を存分に味わうスタイルなのではないでしょうか。
小さな電灯の灯りが届く範囲(つまりは自分だけ!)で、自分の好きな角度で、好きなだけ長い時間をかけて、絵柄に眺め入る。
食べ物が載っていないから、溢れる心配もなくひっくり返したり、縦にしたり横にしたり……ありとあらゆる角度から見られる。
なんだかそちらの方が、「うつわ」というものを隅々まで楽しんでいるような感じがするのは気のせい?
うつわにとっての幸せ、綺麗なうつわを持つという幸せの中身について、考えさせられ続けているのです。




