茶道の陰徳(見せない努力)と応援団の「見せる」努力
「奥ゆかしい」という日本語があります。
日本の総合芸術とも言われる茶道にも、その奥ゆかしさは根付いているようで、目に見えない努力のことを「陰徳」と言いますし、茶事はあらゆる陰徳の集まりでできているようです。
舞台の上演にも似ているかもしれません。
スポットライトを浴びて主役となるのは演者たちですが、その演者たちを支えるたくさんの、それこそ演者の人数の何倍もいる裏方が存在しなければ、舞台上演をうまく進行することはとても難しいです。
音響、照明、大道具、小道具、衣装係、メイクする人、ヘアスタイリスト……。
より観客から見えやすいところにいる人としては、受付の人や案内スタッフなどなど。
しかし彼ら全員がステージの上に立ち、観客の拍手を浴びることは滅多にありません。確かに存在しているけれどその存在を誇示することもなく、また気づかず、特に意識することもなく会場を後にする観客もいることでしょう。
つつがない舞台を陰から支える彼らも、舞台の陰徳を積んでいると言えるのではないでしょうか。
茶道で言えば、それは水屋に詰める人たちを指すことが多いようです。
客の前に出て手前をするのは亭主一人ですが、その亭主を陰からサポートする水屋の人たちがいなければ、スムーズな茶事は進行していかないそう。自分が目立つことなく他者の役に立つ。
私は高校生の時バンカラの応援団に所属していましたが、陰徳とは逆を行っていたなと回想します。
応援団の自分に厳しい態度や精神性には茶道と通じるところが多いにあるなと感じる最近なのに、陰徳だけは全然ないところがなんだか不思議。
それはもしかしたら、茶道が音を聞くような静けさが求められるのに対し、誰かを応援するというのは声を張り上げて気持ちを届けることだからかもしれません。
相手を思いやる気持ちを静かに一碗のお茶に込めるのと、大声に乗せて届けるの。
その日の練習が終わると先輩進行による反省会が行われるのですが、ほとんど毎日何らかのお話があるのが通例でした。応援団の精神性に関する話が多かったです。
自校の応援団が途絶えかけた中で、すでに大学に進学した先輩たちが忙しい合間を縫って、限られた時間の中で短期集中的に指導に来て下さっていたことも理由の一つかもしれません。
本来なら途切れることなく幹部がいて、日々の練習の中で言葉にせずとも体得していった精神性のようなものを、言葉にしてでも伝えておかなければならなかった。私と、同時期に入ったひとつ上の学年の先輩には、毎日つきっきりで指導しそれを体得させてくれる先輩はいなかったのでした。
そんなお話の中で問われたことがあります。「なぜ応援団は目立つところで練習すると思う?」という問いです。
最初にこれを問われた時の私には、全然回答が思い浮かびませんでした。
幹部になりたての私にはできないことの方が多すぎて、怒声を浴びている時間の方が長かった。
大声であることと、校庭の一角で指導を受けていたことも相まって、私が「できない」ことは部活中のほぼ全校生徒に筒抜けです。私がヘロヘロになりながら演舞しているのもね。
自分ができない姿が、口には出さずとも大勢に知られているという認識はなかなかの羞恥心を掻き立てるものです。私は遠くに見える走り込み中のサッカー部とかを見ながら「あー、こっち見てるな。『あいつまた怒られとるやん』とか思われてるんだろうなー」なんて思っていました。
私もひとつ上の先輩も正解に辿り着かなかったので、OBの先輩は「なぜ応援団は目立つところで練習するのか」の答えを教えてくださいました。
それは「応援団が必死に練習しているところを見せるため」。
応援団の仕事は他者を応援することです。傾向としてはやはり運動部の試合会場に出向き、声援を送ることが多くなります。人に「頑張れ」と言う仕事なのです。
もしも応援団が毎日ヘラヘラしていたり、練習に身を入れていなかったら……。「頑張れ」と声援を送られた選手は「お前が何言っとんねん」と言う気持ちにしかならない。
応援団が日々頑張っていることが知られていて、また幹部自身にも自負があるからこそ、力の宿った「頑張れ」の声援が送れるのだ、と。
私は目が覚めるような思いをしました。
「できない」姿を見られているということはつまり、「できる」ようになった変化にも気づいてもらえるということです。
団内の昇段試験で演舞を1000本行ったとき、上階から眺めていた一般生徒たちが拍手してくれた瞬間の爽快さを今でも思い出します。(演舞中にミスがあったので、無事に100本ほど追加されましたが)
演舞を1000本切れるようになるために、毎日100本ずつノルマを増やして練習していました。
それを部活中にどことなく耳にして知っていたからこそ、見かけた人たちが「今日は1000本やってる」とか「こないだより数増えてね?」と気づいてくれて、「本当に1000本やり切ったぞ」「すごい!」と感じてくれたんだと考えています。
陰徳の逆をいく、目に見せる努力です。
一方で茶道の陰徳が「陰徳」となるのは、仏教や禅宗と縁が深いため「仏様が見てくれている」とか、自分の精神的向上につながるとかの内面的あるいは精神的充足の面もあるでしょうが、茶室にやってくる人々の多くに茶道の心得があるからこそではないでしょうか。
その人がどのくらい茶道に心を傾けているか、技量を持った人なのか。点前という動きの決められた一定の流れがあるからこそ、その進行に人間性や技量が映し出されるはずです。
心得のある人がそれを見れば、「できる」「できない」「雑念がある」「あ、手順忘れてない?」などが見抜けてしまう。
逆に初心者は知識と経験がまだ不足しているために、以上のことを読み取れない。
前提として共有されている枠があるからこそ、どんなところに心を配っているか、裏にどんな努力があるのかに思いを馳せて理解することができるのでしょう。
私が所属していた応援団は、その高校に入学した時点で応援団員となる慣例がありました。
しかし日々学ランを着て演舞を覚えるのは志ある「応援団幹部」であり、幹部だけが団室に入ることを許され、専用の道具を受け渡し、壮行式を取り仕切り……と、目立つところで練習する一方で、秘される部分も多かったです。
秘しておく部分があったからこそ、団員誰が見てもわかる「あいつ頑張ってるな」を作っている面もあったのかもしれません。
団員が見れば「できている演舞」でも、心得のある幹部同士が見れば「ここが甘い」と見抜けるわけです。
逆に次回の練習までに後輩がそこを直してくれば、自主練してきたんだなということがわかります。
別に「自主練してきました!」と誇示するでもなく、またそんな主張は必要ないけれど(むしろ「だからなんだ」とか言われそう)、見れば無言のうちに了解できる。
そういう無言の意思疎通や見抜きは、茶道と通じるところがあるような気がします。
応援団の陰徳は練習をあえて目立つところでやり、応援団にとっての本番である試合会場で声を張り上げる中に潜んでいたのかもしれません。




