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第三話 ヴェニスの水晶





その日の仕事を終えると、船長から部屋に呼び出された。

間違い無く昼間の一件だろう。

その罰に怯える私をアントニオはやさしく宥めてくれた。


「大丈夫だよ、水の樽一つ位でそこまで怒られないさ」


「確かにな、航海中ならともかく、補給中なら仕方あるまい」

「ソランツォ船長!」


後ろから船長に声をかけられる。


「部屋に入れ、とにかく話を聞こうじゃないか」



「大まかな事情は分かった。故意の事故で無い以上、今回の一件は問わない」


船長の言葉に胸をなで下ろす。


「だが、貴重な物資を損耗させたのは事実だ」

「だが、シロッコ君には支払うお金は無い」

「…アントニオ」

「はい」

「君の監督責任だ。水の代金は君に請求する」

「…下がってよし」




部屋に戻ると、私はいたたまれない気持ちになり、アントニオに謝罪する。


「アントニオ、ごめんなさい。あなたが落とした訳では無いのに…」

「気にする事は無いよ」

「でも!」

「シロッコ、その手!」

「ああ、大丈夫だから気にしないで」


私の手は慣れない力仕事で皮が破れてしまっていた。

仕事中は塩の付いた船具を扱っていた為ひどく痛んだが、次第に慣れてしまった為、今はそれほど気に成らなかった。


「ダメだよ。汚れは落とさないと化膿するよ!」

「ちょ、ちょっと!」


アントニオが私の手を掴み、自分の胸元に寄せる。

タオルで丁寧に汚れを落とすが、傷に染みて痛みが走った。


「……痛ッ!」

「それぐらい我慢しろ」


私の手首にアントニオの体温を感じる。

そういえば、家族以外の人間に触れられた事もそうなかったな。


そう考えると体が熱くなり、顔が赤くなった。


「よし、これでいいだろう」


「シロッコ、そんなに落ち込むなよ。次から気を付ければいいじゃないか」


アントニオは一旦言葉を切り、少し上ずった声で言った。


「明日から今日の分を取り戻せば良いだけだよ!」


 よかった、暗い船内のお陰で私の表情の変化には気が付いていないようだ。


「…うん、そうだね」


 そうよ、私はこれから1人で生き抜いてやるんだ!チェチーリアと言うユダヤ人の血を引く女ではなく、ヴェネツィア人の船乗りシロッコとして!


「ありがとうアントニオ!」


飛びっきりの笑顔でアントニオに礼を言うと、月明かりに照らされた彼の顔が、何故か赤みを増した。


「さーて、明日から頑張らないとね!早く寝ましょうアントニオ」

「……おっ、おう」

「じゃあ、おやすみなさい」





布団に横になり、低い天井の木目を見ながら昼間の出来事を回想する。


荷揚げ作業中、俺は船に運ばれる在庫の確認作業をしていた。


「うわぁ!」


声が聞こえて、その方向を見るとシロッコが尻餅をついて転倒していた。

突如、一人分の力を失った片側のロープは、ズルズルと滑り落ちて行くのが見えた。


「まずい!」


しかし、ロープに駆け寄るより早く水音が聞こえて、下を見ると海の上に樽が1つ浮いているのが見えた。


「……遅かったか」


「この糞ガキが!貴重な真水をどうしてくれる!?」

「……ご、ごめんなさい」


後ろを振り返ると、船内でも気が荒い事で評判の船員が、シロッコの胸倉をつかみ上げて殴りかかろうとしていた。


シロッコの顔面は蒼白になり、恐怖で震えあがっていた。


「やめろ!」


その姿を見て、とっさにその船員の腕を掴み、動きを止める。

幾ら巨漢とはいえ、腕を背中にまで廻してしまえば、簡単には身動きは取れない。


「まだ、新米だぞ!多少の失敗は目を瞑れ!」


何故か、シロッコに暴力を振るおうとする船員に怒りが沸いた。

普段なら多少の鉄拳制裁はやむおえない物として許されている。


―――しかし、シロッコに暴力をふるう事は許さない。


「いてて!手を離せ!」


手を離してやると、権利を行使できなかった船員の怒りがこちらを向く。


「その失敗はお前の管理不足からじゃねぇか!」


なるほど、それは言えている。つまり俺が罰を受ければ収まりが付く訳だ。

他の船員達も同様の気持ちな様だ。誰か責任を被わなければならない。


それなら、甘んじて受けてやろうじゃないか。


「……そうだ、俺の責任だ」


船員の拳が頬を襲うが、足を踏ん張り堪える。

その瞬間、シロッコは目を瞑り、顔をそむけた。


「お前らは甲板掃除でもしてやがれ!」


船員が作業に戻ると、未だに震えているシロッコに声をかける。


「……行こう、シロッコ」

「……うん」


その日、シロッコは沈んだままで、就寝直前まで治る事は無かった。



「アントニオ、ごめんなさい。あなたが落とした訳では無いのに…」


シロッコが場違いな謝罪をする。


何故、船長の気持ちが分からない。他の船員に対して示しが付かないから、私に代金を請求したのだ!そう怒鳴りつけてやりたがったが、兎のように震えるシロッコにそのような態度をとれる筈は無い。


「気にする事無いよ」


熟練の石弓兵ともなれば、給与的にはかなりの待遇になる。新米の船員と比べるまでも無い。水の一樽ぐらい大した額では無いのだ。


「でも!」


ふと、アントニオの白く細い手が視界に映る。しかし、その掌は豆が潰れて血が滲んでいた。


「シロッコ、その手!」

「ああ、大丈夫だから気にしないで」


大丈夫なもんか!自分も経験したことが有るが、潰れた豆に海の塩が入ると激痛が走るのだ。シロッコの手首を掴み、強引に自分の胸元に寄せる。タオル傷口の汚れを丁寧に落とし始めた。


「痛ッ!」

「それぐらい我慢しろ」


柔らかくて小さな手だ。シロッコは今までどんな生活を送っていたのだろうか?

ユリの花のように細く、白い手が実に美しい。掴んだ手首から伝わる脈動が、目の前の人物が大理石で作られているのではなく、確かにここに存在する事を表していた。


「よし、これでいいだろう」


顔を上げて視線をシロッコに移すが、折しも月が雲に隠れてシロッコの表情を窺い知ることは出来なかった。


しかし、言葉を尽くして励ましていると、天に祈りが通じたのか少しずつ雲が晴れて、うつむいたシロッコの顔が見えて来た。日に焼けたのか、顔が僅かながら桜色に染まっていた。少し上目使いでこちらを見る表情が、堪らなく自分の感情を煽った。


「明日から今日の分を取り戻せば良いだけだよ!」


少々、声が上がってしまったか?等と考えていると、シロッコは小さく「よし」と呟き、顔を上げる。


「ありがとうアントニオ!」


その瞬間、霞掛かった雲は完全に立ち去り、シロッコの満月のような笑顔が空き明り照らされた。初めて見るシロッコの笑顔は、自分を大理石のように硬直させて、その後どのような会話をしたか殆ど覚えていなかった。


月の女神セレネに見染められたエンデュミオンは、今の自分と同じ気持ちだったのだろうな。そのように考えながら、次第に誘われつつある夢の中へと踏み込んで行った。





翌日、私は微睡むアントニオを起こして、その日の仕事に従事する。下船倉に行き積み荷の数を確認する仕事だった。


サン・カテリーナ号の簡単な構造は、船首楼に砲台が設置され、上甲板が有り、船尾楼が有る。私達の部屋は船尾楼の中に存在する。船長室も隣に有り、かなり待遇の良い場所だった。アントニオに聞いたら、ソランツォ船長は親戚筋に当たる人でその伝手もあってこの場所に居るのだよ、と教えてくれた。


甲板の下には漕ぎ手が居る下甲板が有り、上甲板は照りつける太陽から漕ぎ手を護る屋根の様なものだと教えてくれた。甲板の下には積み荷を保管する船倉がある。この場所は暗い上に湿気が多く、足元は常にぬかるんでいた。


「ひゃッ!」

「大丈夫かシロッコ!?」


アントニオの腕に抱きとめられ、どうにか転倒しなくて済んだ。


「あの箱が積み荷になる。数が変わって無いか定期的に確認するんだ」


カンテラを台の上に置き、箱を開けて中を確認する。


「……綺麗」


箱の中身を見て思わず呟く。

その中身はヴェネツィアが誇る最高級品のガラス細工のグラスだった。

カンテラの明かりに揺られて、様々な輝きを見せるそれは、夕日に沈む波飛沫を見ているようで目を奪われた。


「“ヴェネツィアの水晶”と例えられる品々さ。豪奢品として高く売れるのだろうな」


アントニオは呟きながら目録と照らし合わせ、木板にチェックを入れて行く。


「シロッコ、その箱はもういい。次はそっちの箱を開けてくれ」


次の箱に入っていたのも見事なガラス細工だった。

人の頭ほどのガラス玉は、全体が深い青色で、幾つかの模様と文字が彫り込まれていた。


「何の模様?」


カンテラの明かりでは文字をなぞる事も模様も良く確認できない。アントニオは箱からその中身を取り出して、光源に近づける。


「…この部分を良く見て」


指差された部分の文字を読むと“VENEZIA”と刻まれていた。


「イタリア半島!」

「正解、これはガラスで作った地球儀だよ」


アントニオはガラス玉を指差しながら饒舌に説明する。


「これがロンドン、イングランドの首都さ。その近くのアムステルダムは最近独立戦争が起きて政情が悪くなりつつある。で、こっちがイスパニアのセビーリャだろ。その近くにポルトガルのリスボン、大西洋を挟んだこちら側がクリストフォロ・コロンボが見つけた新大陸さ!」


アントニオは水晶球をひっくり返して地図の一点を指す。


「イル・ミリオーネを読んだことある?マルコ・ポーロが言っていたジパングが此処さ」

「知ってる!東の海上に浮かぶ島国で、莫大な黄金が産出され、宮殿や黄金は全て金で出来ていると説明されていた場所!」

「勉強できるんだな!えらいぞ」


アントニオは私の頭を犬のように撫でる。


「ねえ!この船はジパングへ行くの!?」


アントニオは頭振って否定する。


「この船の行き先知らないのか?この船の行き先はここだよ」


地球儀を地中海が記載されている面に移し替えて一点を指差した。


「砂漠の国アラビアの街アレクサンドリアさ」





その日も仕事を終え部屋に戻ると、アントニオはすぐに眠ってしまった。

彼曰く、文字を追うのは疲れるそうだ。私は本を読むのは大好きだったから彼の気持ちを理解できないが。


「……アントニオ、眠ったの?」


しばらくして、アントニオに声をかけるが返事が無い。


「眠っている…よね?」


顔を覗いて確認してみる。健やかな寝息が聞こえる。


「…これなら、大丈夫ね」


意を決して、帽子を床に置き、ベルトを脱ぎ捨てるとカサッカのボタンを外していく。粗末なシャツとブラコーニを脱げば、窓から差し込む月明かりにその裸身が露わになった。


タオルに水を浸して、体の汗や汚れをふき取っていく。ヴェネツィアに居た頃は祖父のいいつけで、毎晩のように沐浴をしていた。体を洗わない生活等想像も出来ない。しかし、船の上では水は貴重である。また部屋の外では船員が作業しており、その身体を見られる恐れが無いのはこの部屋の中だけであった。


「……う~ん」

「ひッ!」


とっさにタオルで前を隠し、振り向いてアントニオの顔を覗く。


「寝言か……」


よく考えると、とんでもない行動をしている事に気が付いた。幾ら相手が眠っているからとはいえ、男性の前で裸になるとは娼婦にも等しい行動だ。


急に顔が紅潮していてもたっても居られなくなる。手早く体を洗い清めシャツに袖を通していると、アントニオのはだけたシャツから精悍な胸板が覗かせていた。


「ロレダンさま……」


愛しき元婚約者の名前を呟く、私にはもう二度とエンリコ・ロレダンに抱きしめられることが無いと思うと、一筋の涙が頬を伝った。



―――床に落ちたその雫は


―――月明かりで美しく輝き


―――まるで水晶玉のようだった。






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