第七話 生きるために
朝の光が、木々の隙間から差し込んでいた。
相沢悠真は、ゆっくりと目を開けた。
身体の下には、集めた草や落ち葉を敷いてある。決して快適とは言えないが、昨夜のように地面へ直接横になるよりは、いくらかましだった。
すぐそばでは、白銀の小さな狼が丸くなって眠っている。
「……シロ」
小さく名前を呼ぶと、シロの耳がぴくりと動いた。
その姿を見て、悠真はようやく息を吐いた。
昨日は、本当に長い一日だった。
見知らぬ森で目を覚まし、訳も分からないまま獣に襲われ、必死に逃げた。
そして、この世界で出会った小さな白銀狼。
何が起きているのか、いまだに分からない。
夢ならば、そろそろ覚めてほしい。
スマートフォンもない。家族とも連絡が取れない。自分がいた場所に戻る方法さえ分からない。
考え始めると、胸の奥が苦しくなった。
帰りたい。
その気持ちは、今も変わらない。
けれど、どれだけ願っても、今すぐ元の世界に戻れるわけではなかった。
悠真は両手を見つめた。
この手で、何かをしなければならない。
食べ物を探し、水を確保し、眠れる場所を守る。
それができなければ、明日を迎えられる保証すらない。
昨日の獣の姿が脳裏をよぎる。
あんなものに再び襲われたら、今度は逃げ切れるか分からない。
「……まずは、生きなきゃな」
口に出した言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
けれど、その言葉には確かな重みがあった。
帰る方法を探すのも、この世界のことを知るのも、生きていなければ始まらない。
誰かが助けに来てくれるのを待っているだけでは駄目だ。
ここで生き抜く。
今は、それだけを考えよう。
悠真はゆっくりと立ち上がった。
不安が消えたわけではない。
怖くないわけでもない。
それでも、何もせずに立ち尽くしているつもりはなかった。
「よし。まずは食べ物を探そう」
その声に反応して、シロも身体を起こした。
「一緒に来てくれるか?」
シロは小さく鳴くと、悠真の足元へ歩み寄った。
その姿に、悠真の口元がわずかに緩む。
「ありがとう。頼りにしてるよ」
こうして、悠真の新しい一日が始まった。
***
まずは水の確保だ。
昨日見つけた沢なら、場所も覚えている。
悠真はシロと一緒に、森の中を慎重に進んでいった。
周囲に気を配りながら歩く。
昨日のような獣がいつ現れるか分からない。
枝が揺れる音にも、茂みの奥で何かが動く気配にも、自然と身体が反応してしまう。
しばらく歩くと、聞き覚えのある水音が聞こえてきた。
「ここだ……」
木々の向こうに、澄んだ水が流れる沢が見える。
昨日、喉の渇きに耐えかねて水を飲んだ場所だ。
悠真は周囲を確認してから、膝をついた。
両手ですくった水を口に運ぶ。
冷たい水が喉を通り、身体に染み渡っていく。
「ふぅ……」
ようやく少し落ち着いた。
シロも水辺に近づき、ぺろぺろと水を飲んでいる。
「さて、次は食べ物だな」
悠真は周囲を見渡した。
沢の近くには、様々な植物が生えている。
見たことのない草もあれば、どこか元の世界の植物に似ているものもあった。
ただ、見た目が似ているからといって、食べられるとは限らない。
毒がある可能性もある。
「何でも口に入れるわけにはいかないよな……」
そこで、悠真は自分の能力を思い出した。
《生命感知》。
そして、《育成》。
この二つを使えば、何か分かるかもしれない。
悠真は意識を集中させた。
すると、視界の中に周囲の生命を示す淡い光が浮かび上がる。
草木の根元や、岩の隙間。
それぞれの場所に、小さな光が揺れていた。
「おお……」
昨日も見た光景だが、改めて見ると不思議な感覚だった。
悠真は足元に生えている植物へ目を向ける。
すると、頭の中に情報が流れ込んできた。
《植物》
名称:未鑑定
状態:良好
生命反応:微弱
「名前までは分からないか……」
少し残念だったが、何も分からないよりはいい。
別の植物にも意識を向けてみる。
今度は、先ほどとは違う反応があった。
《植物》
名称:未鑑定
状態:良好
特徴:水分を多く含む
「水分を多く含む……」
食べられるかどうかまでは分からない。
それでも、何かの手がかりにはなるかもしれない。
悠真は慎重に植物を観察し、特徴を確かめていった。
そのとき、シロが少し離れた場所で鳴いた。
「どうした?」
近づいてみると、そこには低い茂みがあり、その奥に小さな木の実がいくつも実っていた。
赤紫色をした、丸い実だ。
「木の実か……」
悠真は一つに意識を集中させた。
《植物》
名称:未鑑定
状態:成熟
特徴:果実
生命反応:安定
「果実……食べられるとは書いてないな」
やはり、能力だけでは判断できないこともあるらしい。
悠真はすぐに口へ運ぶことはせず、まずは周囲を観察することにした。
焦って行動して命を落とすわけにはいかない。
今は、一つひとつ確かめながら進むしかないのだ。
***
しばらく調べていると、悠真はあることに気づいた。
《生命感知》で周囲を探ると、植物の中には、ほとんど光を放っていないものもあれば、比較的強い光を放っているものもある。
そして、その違いは単純な大きさや種類だけではないようだった。
「もしかして……生命力の違いなのか?」
試しに、状態の良い植物へ意識を向けてみる。
すると、頭の中に新たな情報が浮かんだ。
《育成》を発動できます。
対象:植物
必要条件:微量の魔力
「おっ?」
悠真は思わず声を上げた。
昨日は、何かを育てる能力だということしか分からなかった。
しかし、今なら試せるかもしれない。
「育成って、こういうこともできるのか?」
恐る恐る、植物へ意識を集中する。
すると、手のひらの奥がほんのりと温かくなった。
淡い光が指先から広がり、植物を包み込む。
数秒後。
葉が、わずかに揺れた。
「……おお!」
目に見えるほど大きな変化ではない。
しかし、先ほどよりも葉に張りが出ている。
《育成》を使用しました。
対象:植物
状態:良好 → 良好
生命力:微増
魔力消費:微量
「すごい……」
悠真は思わず植物を見つめた。
劇的な成長ではない。
それでも、自分の力で生命に変化を与えられた。
それは、この世界で生きていくうえで、大きな可能性になるかもしれない。
食べ物を育てることができれば、食料を確保できる。
薬になる植物を育てられれば、怪我や病気への備えにもなるかもしれない。
もちろん、今すぐ何でもできるわけではない。
魔力にも限りがあるようだし、育てられる対象や条件も分かっていない。
それでも、少しだけ希望が見えた気がした。
「この能力、ちゃんと調べてみる価値がありそうだな」
悠真はそう呟き、シロの方を振り返った。
シロは興味深そうにこちらを見ている。
「お前もそう思うか?」
シロは、くぅんと小さく鳴いた。
その声を聞いて、悠真は少し笑った。
***
その後も、悠真は沢の周辺を調べて回った。
すぐに食べられるものを見つけることはできなかったが、いくつかの植物の特徴を確認することができた。
また、周囲には小さな虫や鳥のような生き物もいる。
少なくとも、この場所には多くの生命が存在しているようだった。
「今日はこのくらいにしておくか」
日が傾き始めている。
暗くなってから森を歩き回るのは危険だ。
何より、今の自分には身を守る力が足りない。
帰れるうちに拠点へ戻ろう。
悠真はシロと一緒に、岩場へと引き返した。
ここを安全な場所にする。
食料を確保し、寝床を整え、少しずつ生活できる環境を作っていく。
それが今の自分にできることだった。
***
岩場へ戻った悠真は、まず周囲の様子を確認した。
幸い、何かが侵入した形跡はない。
集めておいた枝や草も、そのまま残っていた。
「よし。今日も無事だったな」
そう言いながら、荷物を置く。
シロは岩場の入口付近を歩き回り、周囲の匂いを嗅いでいた。
そのときだった。
「ん?」
岩場の奥で、何かが動いた気がした。
悠真は足を止める。
シロも動きを止め、そちらへ顔を向けた。
「……何かいるのか?」
ゆっくりと近づいてみる。
岩の陰に、小さな影が見えた。
それは、手のひらに乗るほどの小さな生き物だった。
悠真が息を潜めて見つめていると、その生き物もこちらに気づいたのか、ぴたりと動きを止める。
そして、つぶらな瞳で悠真を見上げた。
「……え?」
思わず声が漏れる。
こんな生き物、元の世界では見たことがない。
シロが一歩前に出ると、小さな生き物は驚いたように身体を縮めた。
「シロ、待って。怖がらせないでやってくれ」
悠真はそっと手を伸ばしかけ、途中で止めた。
まだ、どんな生き物なのかも分からない。
警戒させないよう、少し距離を取る。
すると、小さな生き物はしばらく悠真を見つめたあと、ちょこちょこと岩陰から姿を現した。
その仕草が、どこか愛らしい。
「……ん?なんだこいつ」
小さな生き物は、悠真の足元まで近づくと、ちょこんとその場に座り込んだ。
「……お前、ずいぶん人懐っこいんだな」
悠真がそっと手を差し出すと、その生き物は小さな鼻を近づけた。




