第二話 名を呼ばれる
眠っては目覚め、目覚めては眠る。その繰り返しの中で、昼と夜の区別だけが、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
障子が白いときは昼。橙になり、青く沈み、やがて何も見えなくなるのが夜。そう分かるようになるまでに、どれほどかかったのか。数えようとしても、数えるための頭が、思うように働かなかった。
考えようとすると、考えが途中でほどける。たとえば、ここがどこなのかと思う。思った端から、腹の底が引きつれたように鳴り、意識はそちらに持っていかれる。空腹は、思考よりずっと強かった。
泣く。すると、すぐに誰かが来る。
抱き上げられ、懐に押し当てられ、温かいものが口に流れ込む。飲んでいるうちに、まぶたが落ちる。目が覚める。また泣く。
あまりにも単純な営みだった。前世で何十年も生きた記憶があるというのに、その記憶は、この小さな身体の中で、ただ静かに沈んでいるだけだ。使い道がない。手足ひとつ、思うように動かせないのだから。
それなのに、不思議と、焦りはなかった。
*
その日は、朝から家が騒がしかった。
廊下を行き来する足音がいつもより多い。襖が開け閉てされ、畳を拭く気配がし、台所のほうからは、何かを煮る甘い匂いが流れてきた。
「ほら、こちらを。そう、そちらの膳を先に」
しわがれた声の女が、あちこちに指図している。聞き覚えのある声だった。あの日、自分を湯に浸けた女だ。
やがて、母に抱かれて、どこかへ運ばれた。
障子が開く。空気の色が変わった。明るく、ざわめいている。
人が、たくさんいた。
顔はまだ、ほとんど見分けがつかない。濃い影と薄い影が、あたりにいくつも座っている。男の声が多かった。低く、よく通る声。誰かが何かを言うと、どっと笑いが起きる。それが、あの遠い掛け声と同じ種類の声だと、なんとなく分かった。
「おお、これが」
「ご立派な若君で」
「お顔立ちが、お父上に」
「似ておらんよ、似ておらん。奥方に似て、よい子だ」
どっと、また笑いが起きた。
母の腕に、わずかに力がこもる。笑っているのが、胸の振動で分かった。
やがて、ざわめきが、すうっと引いた。
衣擦れの音がして、一人の影が、目の前に進み出る。汗と、乾いた木の匂い。あの日の男だった。
男は、すぐには何も言わなかった。咳をひとつして、紙の擦れる音がした。畳に、何かを置く音。
「……この子の名は」
低い声が、広間に落ちた。
そこで、いったん言葉が切れた。
誰かが身じろぎをする。咳払いを堪える気配。男の呼吸が、ひとつ、ふたつ。
それから、男は、ある音を口にした。
短い音の連なりだった。ゆっくりと、噛みしめるように、一音ずつ置くように発せられた。広間が静まりかえっている。
意味は、分からなかった。いや、意味だけなら、字面だけなら想像がつくのかもしれない。だが、それが自分を指しているのだと、どうしても結びつかなかった。
「よいお名で」
「めでたい」
方々から声が上がる。拍手のような音が、ばらばらと続いた。
母が、小さく、同じ音を繰り返した。囁くような声だった。自分の耳元で、確かめるように、もう一度。
その音が、頬のあたりにこぼれ落ちてくるのを、じっと感じていた。
どうして、そんなふうに呼ぶのだろう。
呼ばれる、ということを、長いこと忘れていた。いや、呼ばれたことがあったのかどうかも、もう定かではない。ただ、自分に向けて誰かが何かを言う、ということが、これほど落ち着かないものだとは思わなかった。
居心地が悪くて、身じろぎをした。けれど、母の腕は、びくともしなかった。
*
夜中に、目が覚めた。
闇が、濃い。障子の向こうに、月明かりも見えなかった。
腹が空いていた。それと、どこかが気持ち悪い。濡れている。冷えている。そう気づくより先に、喉が勝手に動いて、声が出た。
出た途端に、身体がこわばった。
だめだ、と思った。
何が駄目なのかは分からない。ただ、真夜中に泣いてはいけない、という考えが、頭より先に身体のどこかに染みついていた。誰かの眠りを妨げてはいけない。面倒をかけてはいけない。声を殺さなければ。
だが、泣き声は止まらなかった。止めようとするほど、喉の奥がひくついて、かえって大きくなる。
隣で、畳がきしんだ。
人が身を起こす気配。ため息は、聞こえなかった。そのかわり、衣擦れの音と、手探りで何かを探す音がして、やがてぬくもりが近づいてきた。
「はいはい。ここですよ」
眠そうな声だった。掠れて、ろくに呂律も回っていない。それなのに、その声は、少しもためらわなかった。
身体が持ち上がる。濡れた布が取り去られ、乾いたものに替わる。手際は、いかにも慣れていた。冷たい空気が肌に触れて、また声が出たが、母は慌てもしなかった。
「寒かったねえ。ほら、すぐ済むから」
何がおかしいのか、喉の奥で笑っている。眠いはずなのに。夜中に、起こされたはずなのに。
懐に収まると、温かい鼓動が戻ってきた。
飲んでいる間、母は何も言わなかった。ときどき、頭の上を、指がゆっくりと往復した。ただそれだけだった。小言も、ため息も、遠慮もない。
当たり前のことのように、そこにいた。
その「当たり前」が、分からなかった。
自分は、迷惑をかけたのではないのか。起こして、手間をかけさせて、それなのに、なぜこの人は、何でもないような顔をしているのか。
いや、顔は見えない。見えないが、声が、そうだった。
飲み終わっても、すぐには眠れなかった。母は、背をとんとんと叩きながら、何か低く歌っていた。節は聞き覚えのないもので、言葉もほとんど聞き取れない。ただ、その拍子が、鼓動と少しずつ重なっていった。
眠る前に、ふと思った。
さっき、身をすくめたのは、なぜだったのだろう。
答えは、浮かばなかった。まぶたが落ちる。落ちながら、母の指が、また頭の上を往復するのを感じていた。
*
日に日に、見えるものが増えていった。
はじめは、ただの濃淡だったものが、いつからか、形を結ぶようになっていた。天井の木目。障子の桟。そして、自分の顔のすぐ上に現れる、丸い、白っぽい何か。
それが顔だと分かったのは、ある日、それが動いたからだった。
目がふたつあり、口がひとつあった。母の顔ではない。母よりずっと小さく、もっと近い。息が、ふうふうとかかる。
「……おきてる」
小さな声だった。まだ幼い。舌足らずな響きが残っている。
「かあさま、おきてる。めがあいてる」
「そっとですよ。触ってはだめ」
「さわってない」
「いま、触ろうとしたでしょう」
「してない」
「しました」
押し問答の気配のあと、小さな影が、また顔の上にかぶさってきた。丸い目が、こちらを見つめている。瞬きもしない。
どうしていいのか分からなかった。見つめ返すしか、なかった。
「ねえ、こっちみてる」
声が弾んだ。
「みてるよ。ぜったい、わかってる」
「分かりませんよ、まだ」
「わかってるもん」
また、母の笑う気配。小さな影は、その場で、うれしそうに跳ねた。畳が、とんとんと鳴る。
「おい、あまり揺らすな」
奥のほうから、別の声がした。少し年かさの子供の声だった。誰かが、その子を窘めるように、何か言っている。
名前を呼ばれた。いや、あの日に聞いた音とは違う。この家の誰かが、誰かを、呼んでいる。
家には、たくさんの人がいる。そのことが、分かってきた。
見上げれば、小さな顔が、まだこちらをのぞいている。目が、ひどく大きい。口の端に、何かの食べかすがついていた。
おかしい、と思った。
何がおかしいのかは、分からなかった。ただ、胸の奥のどこかが、くすぐったかった。
*
その日の夕方だった。
障子が橙に染まるころ、母は縁側近くに座り、自分を膝に乗せていた。外では、何かの鳥が鳴いている。遠くから、稽古の掛け声が、変わらず響いてくる。
「ほうら」
母が、顔を近づけてきた。
間近に見る顔は、思っていたよりも、ずっと若かった。目尻に細い皺があり、頬のあたりが、夕日に透けている。
「ほうら、ほうら」
母は、節をつけて、ゆらゆらと揺らしながら言った。意味のない音だった。それを、飽きもせずに繰り返している。
「ほうら。ふふ」
ばかばかしい、と思った。
大人の女が、赤子に向かって、意味のない音を並べている。そんなことに、何の意味があるのか。
そう思ったとき、口元が、勝手に動いた。
引きつったのではなかった。力が入ったのでもなかった。ただ、頬のあたりが、ふわりと持ち上がって、喉の奥から、あぶくのような音がこぼれた。
「……あ」
母の動きが、止まった。
「いま」
声が、上ずった。
「いま、笑った。笑いましたよ、この子」
自分では、何が起きたのか分からなかった。もう一度、同じことをしようとしたが、どうすればいいのか、もう分からない。
母が、振り返って、誰かを呼んだ。
「ねえ、ちょっと。いらして。いま、笑ったのよ」
「どれ」
「ほら、もう一度。ほうら」
ばたばたと足音が集まってくる。影が増える。誰かが顔を寄せ、誰かが覗き込み、誰かが笑った。
笑ってくれと言われても、うまくいかなかった。それなのに、誰も、がっかりした顔をしなかった。
ただ、そこにいて、笑っていた。
障子の橙が、ゆっくりと濃くなっていく。
自分の頬のあたりに、まだ、あの感触が残っていた。何だったのかは、分からない。ただ、それがいやなものではなかったことだけは、はっきりしていた。




