第一話 生まれ落ちた日
窓の外が、白みはじめていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、床に細い線を引いている。それが少しずつ幅を広げていくのを、青年は天井を向いたまま、目の端で追っていた。首を動かすのが億劫だった。
点滴の管が腕から伸び、規則正しく雫を落としている。音とも言えないその音を、彼は何時間も聞いていた。いや、何日もかもしれない。時間の感覚は、いつの頃からか曖昧になっている。
枕元の棚には、飲みかけの水と、栞を挟んだままの文庫本が一冊。栞の位置は、ずっと変わっていない。開いて、数行で目が滑って、閉じた。それだけのことだった。
廊下を台車の転がる音が通り過ぎていく。看護師の足音。誰かの笑い声。どれも扉の向こうのもので、この部屋には入ってこない。
やがて、隣の部屋の前で人の気配が止まった。
「おじいちゃん、来たよ」
弾んだ声だった。青年は目を閉じた。
誰も来ない、とは思わなかった。来るはずだ、とも思わなかった。ただ、この部屋の扉が開く場面を、もう長いこと想像していないだけだった。
携帯電話は、充電が切れたまま棚の奥にある。取り出さないのは、充電器を探すのが面倒だからだと、自分では思っている。
昼を過ぎたころから、息が浅くなった。胸の上に、水を張ったような重みがある。ナースコールのボタンは、手の届くところにあった。指先がそちらへ動きかけて、止まる。
光の線は、いつしか床を離れ、白い掛け布団の上に移っていた。
温かい、と思った。
布団の上の光だけが、ほんのりと温かい。指を伸ばせば届きそうだったが、腕は上がらなかった。それでいい、と思った。光はそこにあった。
隣の笑い声が遠のいていく。雫の音も、いつの間にか聞こえなくなった。
最後に残ったのは、瞼の裏の、うっすらとした明るさだけだった。
*
暗い、と思った。
だがそれは、明るさというものが、まだ形をなしていなかっただけかもしれない。
あたりは、ぼんやりとした濃淡の中にあった。橙とも茶ともつかない色が、にじむように揺れている。輪郭はない。目を凝らそうとしたが、焦点というものが、どうしても合わなかった。
息ができない。
胸が潰れるように苦しい。吸おうとしても、うまく入ってこない。次の瞬間、喉の奥から、勝手に声が漏れた。かすれた、細く高い声だった。
止めようとしても止まらない。身体のどこにも、自分の意思が届かなかった。腕を動かそうとしたが、何かがかすかに震えただけだった。手足は、ひどく遠い。
濡れた布の感触。誰かの手が、背の下に差し入れられ、ふわりと持ち上げられる。
「おお、よう泣くこと。元気な声じゃ」
しわがれた女の声がした。言葉の意味は、霧の向こうから届くように、少し遅れて頭に染みてきた。聞き慣れない抑揚だった。
水の音がして、肌を布が滑った。冷えた。また声が出た。
消毒薬の匂いが、どこにもなかった。かわりに、木を焚いた煙の匂いと、湿った藁のような匂いがある。それに、どこか鉄を思わせる、生々しい匂い。
ここは、病室ではない。
それだけは、はっきりと分かった。
ぼやけた視界の端で、肌色の小さな塊が揺れた。動かそうとした自分の手が、そこにあった。あまりにも小さかった。
*
「奥様、お抱きなされませ」
身体が、また宙に浮いた。今度は、ゆっくりと運ばれていく。誰かの腕に渡されると、それまでとは違う重みと、やわらかさに受け止められた。
温かい、と思った。
布越しに、じわりと熱が染みてくる。光の温かさとは違った。あれは、触れられなかった。これは、向こうから触れてくる。
とく、とく、と何かが鳴っていた。耳のすぐ近くで、ゆっくりと、絶えることなく。
「よう、来てくれたねえ」
低く、少し掠れた女の声が降ってきた。息が頬にかかる。声の端が、わずかに震えていた。
何を言われているのか、半分も分からなかった。ただ、その声の調子だけは、耳に残った。叱る声でも、事務的に呼びかける声でもない。もっと近くて、ためらいがなく、ただこちらに向けられていた。
この人が、母、なのだろうか。
そう思い至ったが、その言葉は、どこにも着地しなかった。身体が強張る。どうしていいのか分からない。腕の力を抜くことも、委ねることも、自分は知らなかった。
何かが頬に触れた。指だった。かさついた、あたたかな指が、頬をそっとなぞって、離れない。
口元に温かいものが触れたとき、考えるより先に、身体が動いた。
*
廊下のほうで、床板の軋む音がした。
重い足音だった。しかし、ひどく静かに踏んでいる。急いでいるのに、急いでいることを隠しているような、妙な足取りだった。
障子が、すっと開く気配。冷たい空気が、一筋流れ込んだ。
「……マキ」
男の声だった。低くて、短い。それだけを言って、あとが続かない。
「はい」
すぐ近くで、女の人が答えた。
「大事ないか」
「ええ。おかげさまで」
「……そうか」
沈黙が落ちた。しわがれた声の女が、気を利かせたのか、衣擦れの音を立てて遠ざかっていく。
大きな影が、視界を覆った。汗と、乾いた木のような匂いがした。影は、枕元のあたりに腰を下ろしたらしい。畳が、ぎしりと鳴った。
しばらく、何も起こらなかった。
見られている、と感じた。じっと、ただじっと。
やがて、何かが顔に近づいてきた。ごつごつとした、硬い掌だった。その手は、ひどく慎重に動いた。頬に触れる寸前で止まり、迷うようにわずかに震えて、それから、指の背で、ほんの一度だけ撫でた。
「軽いな」
ぽつりと、男が言った。
「抱いてみられますか」
「いや、よい」声が、わずかに慌てた。「……落としては、いかん」
くすり、と笑う気配が、頭の上でした。母が、笑っている。
「そんな怖いお顔をなさって。この子が泣いてしまいますよ」
「……生まれつきだ」
憮然とした声だった。なぜか、それがおかしいような気がした。泣くどころではなく、自分は、その男の顔のあるあたりを、ぼんやりと見つめ返していた。
男は、また黙った。それから、ごく低い声で言った。
「よう、やってくれた」
誰に向けた言葉なのか、よく分からなかった。母は、何も答えなかった。ただ、抱く腕に、少し力がこもった。
*
男が去ったあと、遠くから、音が聞こえはじめた。
どん、と床を踏み鳴らす音。それに重なる、大勢の男の掛け声。意味は分からない。一定の間を置いて、何度も何度も繰り返される。家の奥のほうで、何かが行われているらしい。
台所のほうからは、水を使う音。皿の触れ合う音。誰かが何かを言い、誰かが笑った。
廊下を、小さな足音がぱたぱたと駆けてきた。
「かあさま、赤子は」
「しいっ。やっと静かになったところですよ」
「見たい」
「あとで。手を洗ってからです」
幼い声は、不服そうに何か言い返し、また足音とともに遠ざかっていった。
障子の向こうで、人が動いている。声がある。物音がある。名前も顔も知らない誰かが、この家のあちこちにいる。
あの白い部屋には、音がなかった。ここには、音が多すぎる。
どこへ来たのか、分からない。なぜ、こうなったのかも分からない。受け入れたわけでは、まだなかった。それなのに、胸の奥に居座っていたはずの冷たいものが、いつの間にか、少しだけ緩んでいた。
*
日が傾いたらしい。障子の向こうが、淡い橙に染まっている。
母の鼓動は、変わらず一定の間を刻んでいた。点滴の雫の音に似ていて、まるで違った。あの音は、数えているうちに遠くなった。これは、数えなくても、ここにある。
小さな手のひらを、何かがそっと包んだ。母の指だった。握り返そうとしたわけではない。ただ、指が勝手に、それを掴んだ。
「あらあら」
笑みを含んだ声が、ひとつ降ってきた。
どこかで、まだ掛け声が続いている。遠い。遠くて、ちょうどいい。
瞼が、重くなっていく。逆らう理由が、見つからなかった。
闇に落ちる直前、瞼の裏が、ほんのりと温かかった。




