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欲のない俺に、最強の資産システムが降ってきた ~望んでないのに、金も家も車も会社も美女も増えていく~  作者: Ren Hazumi


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第38話「欲望のない経営者」

第38話「欲望のない経営者」



翌朝、銀座は再び、いつもと変わらない都会のリズムに包まれていた。


オフィスビルの前では、車が絶え間なく出入りしている。


エレベーターの扉が、何度も開いては閉じる。


人々はコーヒーやタブレット、書類の入ったファイル、それからほとんど手放すことのないスマートフォンを抱えて歩いていた。


西園寺インベストメント・グループも例外ではない。


戦略投資部門のあるフロアへ入った途端、麗華は朝から待っていたいくつかの書類を受け取った。


一つは商業用不動産に関するもの。


もう二つは、物流・流通分野における投資機会について。


そしてもう一つは、複数の地方企業との関係を担当するチームから上がってきた追加報告書だった。


麗華は多くを語らず、それらをすべて受け取った。


そのまま自分の執務室へ向かう。


扉が閉まる。


外の音が、ずっと遠くなった。


そこでようやく、彼女は書類を机の上へ置いた。


だが、一枚目の報告書を開くことはなかった。


代わりに、彼女の手が机の上で止まる。


脳裏に浮かんだのは、昨日の会話だった。


「あなたは、本当は何を望んでいるんですか?」


蓮の答えが、今も鮮明に残っている。


「平穏です」


麗華は椅子を引いた。


腰を下ろす。


そしてノートパソコンを開いた。


「平穏を望む経営者……」


まるで一つの仮説を確かめるように、彼女は小さく呟いた。


すると、目の前の画面に黒瀬ホールディングスの報告書が表示された。


黒瀬蓮。


二十一歳。


黒瀬ホールディングス。


ヤマト・ロジスティクス。


三井マリンフーズ。


サクラ・フレイト。


そして、持株会社の管理下にあるいくつかの資産。


報告書のどこを見ても、蓮が積極的な事業拡大を追い求めていることを示すものはなかった。


イメージだけを目的とした大規模なオフィスの新設もない。


手当たり次第に企業を買収することもない。


自分を最も影響力のある若手経営者として世間に知らしめようとするような、公の活動も見当たらない。


外部から資金を調達できる機会があったとしても、彼はその資金が本当に必要なのかを確認することを優先している。


麗華は画面をスクロールした。


次の報告書が表示される。


ミウラ・キャピタルへの出資提案の拒否。


続いて、ヤマト・ロジスティクスに関する決定。


蓮は、最も金のかかる方法を選んでいない。


必要な資料を要求する。


監査を求める。


過去の契約書を確認する。


法務分析を依頼する。


そして、本当に問題のある部分だけを修正していく。


麗華は背もたれに身体を預けた。


読み進めれば進めるほど、一つの傾向がはっきりしてくる。


蓮は、より多くを手に入れたいという欲求によって動いているわけではない。


何かをする必要があると本人が判断したときにだけ、動いている。


小さな違いだ。


しかし投資の世界では、そうした違いが意思決定の仕方を左右することがある。


大抵の人間は、十分な財力を持てばこう考える。


何が買える?


どんな企業を支配できる?


来年には、どれだけ資産を増やせる?


だが蓮が考えるのは、むしろこちらだ。


これは本当に必要なのか?


必要ないなら、なぜやる?


麗華は画面を見つめた。


「本当に、変わっている……」


それは感心しているからではない。


まだ、そこまでではない。


正確に言えば、彼の思考パターンを理解するのが難しいからだった。


人間には、普通なら何かしらの欲求がある。


どれほど質素な生活をしている人間であっても、何かしら達成したいものを持っている。


もっと良い家。


もっと快適な車。


もっと自由な生活。


地位。


認められること。


家族。


あるいは、ただ安心して暮らせること。


だが蓮は、普通なら人間が追い求めるもののほとんどをすでに手にしている。


金。


会社。


資産。


人脈。


自分で選択できる自由。


それなのに、彼が望んでいるのは平穏だと言う。


麗華は報告書を閉じた。


数秒間、暗くなった画面に映る自分の顔を見つめる。


そして、小さく首を横に振った。


「深入りしないで」


これは仕事だ。


それだけを考えるべきなのだ。


昨日、二人が一緒に食事をしたのも、たまたま互いに昼食を取っていなかったから。


それ以上ではない。


麗華は次の報告書へ手を伸ばした。


しかし、開くより先に――


スマートフォンが震えた。


一件のメッセージが届く。


個人秘書からだった。


『麗華様、家族会議の予定が前倒しになりました』


麗華は一度読む。


そして、もう一度読み返した。


家族会議。


彼女はゆっくりと息を吐いた。


「やっぱり……」


スマートフォンを手に取り、立ち上がった。


西園寺家・本邸


しばらくして。


西園寺家の本邸は、銀座の大通りとは比べものにならないほど静かな場所にある。


車の音も少ない。


道沿いに並ぶ木々が、東京のビジネス街とは違う空気を作っていた。


だが、麗華にとって、この場所が本当の意味で家だと感じられたことは一度もない。


ここでは、あまりにも多くの決定が下される。


そして、家族の会話と呼ぶには、あまりにも多くの会話が交わされてきた。


会議室へ入ると、すでに何人かが席に着いていた。


上座には父親が座っている。


その隣には、二人の年長の親族。


そのうちの一人は、叔父だった。


黒瀬ホールディングスについて何度も報告を聞いているものの、その所有者本人とは一度も会ったことのない男だ。


麗華は席に着く。


長い前置きはなかった。


父親がすぐに話を切り出す。


「黒瀬に関する最新の報告が上がっている」


麗華は頷いた。


「はい」


「お前の評価は?」


単純な質問だった。


だが、麗華には話の方向がすでに分かっていた。


持ってきたファイルを開く。


「黒瀬ホールディングスは、当初の予想よりも健全な状態にあります」


叔父が眉を上げた。


「健全?」


「事業運営の構造を見る限り、一時的な勢いだけで成長しているとは考えにくいです」


「流動性は?」


「問題ありません」


「拡大方針は?」


「保守的です」


「負債は?」


「十分に管理可能な範囲です」


男は背もたれに身体を預けた。


「それで、お前は我々も入るべきだと?」


麗華はすぐには答えなかった。


「直接投資については、いいえ」


部屋の空気が少し静まる。


父親が麗華を見る。


「なぜだ?」


「彼らには、私たちの資金が必要ないからです」


叔父が薄く笑った。


「それとも、彼が受け入れたくないだけか?」


「理由なく拒否したのであれば、私はそれを拒絶と判断します。ですが、問題はそこではありません」


麗華は一枚の資料を開いた。


「現在の彼らの構造なら、蓮は戦略上の意思決定権を完全に維持できます。そこへ私たちが資金を入れるだけでは、彼らが本当に必要としているものを提供できません」


「では?」


「もっと意味のあるものを提示します」


「協力関係か」


「はい」


叔父は黙った。


麗華は続ける。


「流通網。市場情報。地方の提携先へのアクセス。必要に応じた投資面でのコンサルティング。すべて限定的で、案件単位です」


父親が目の前の資料へ視線を落とす。


「それで、彼は受け入れたのか?」


「初期段階については」


「どの程度だ?」


「まだ大きくはありません」


叔父が眉をひそめる。


「お前はこれを戦略的提携と呼んでいるが、規模が小さすぎないか?」


「まだ初期段階ですから」


「麗華」


男の声色が少し変わった。


「西園寺は、小さな規模で仕事をするために築かれたわけではない」


麗華は顔を上げた。


「分かっています」


「なら、なぜ契約をもっと大きくしなかった?」


麗華はすぐには答えなかった。


返答の方法はいくらでもある。


蓮は説得しにくいと言うこともできる。


黒瀬ホールディングスはまだ若い企業だと言うこともできる。


時間が必要なのだと言うこともできる。


しかし、本当の答えはもっと単純だった。


「急いでしまえば、この協力関係が始まった理由そのものを失うからです」


叔父が麗華を見る。


麗華は続けた。


「彼は私たちを求めていません」


その一言で、部屋は再び静まり返った。


「それで?」


「誰かが何かを求めていないのなら、こちらが与えられるからといって、無理に押しつける理由はないと思います」


父親は、しばらく娘を見つめていた。


怒っているわけではない。


むしろ、何かを見極めようとしているようだった。


「お前は変わったな」


麗華が少し眉を寄せる。


「変わった?」


「以前のお前は、最後の最後まで機会を追い続けていた」


麗華は資料へ視線を落とした。


「たぶん、以前は追いかける必要のない会社に出会っていなかっただけです」


叔父が短く笑った。


「変わった会社じゃない。変わっているのは、その所有者だ」


麗華は否定しなかった。


まさに、それが問題なのだ。


蓮は、普通の数字だけでは簡単に読み解けない人間だった。


提示される利益が大きくなればなるほど、それが本当に必要なものなのかを確かめようとする。


投資の世界では、そうした姿勢は強みにもなる。


しかし同時に、障害にもなり得る。


父親が尋ねた。


「お前は、彼が本当は何を望んでいると思う?」


麗華は黙った。


一瞬、蓮の顔が脳裏に浮かんだ。


会議室にいたときの顔ではない。


報告書を読んでいたときでもない。


契約について話していたときでもない。


昨日、小さなレストランで向かい合っていたときの顔。


落ち着いていた。


急ぐ様子もなかった。


スマートフォンを弄ることもなく、食事をしていた。


そして、望みを聞かれたとき――


彼は平穏と答えた。


麗華は息を吸った。


「彼は、大きな何かを追いかけているわけではありません」


「人間は誰だって、何かを追うものだ」


「そうかもしれません」


「それで?」


麗華はゆっくりと答えた。


「彼は、あまり多くのものに邪魔されずに生きたいのだと思います」


叔父が小さく笑った。


「ホールディングスのオーナーが、静かに暮らしたいと?」


「だいたい、そんなところです」


「そんなもの、理屈に合わないだろう」


「ええ」


麗華は笑わなかった。


「だからこそ、彼を無理に動かすのは難しいんです」


父親が資料を閉じた。


「なら、無理に動かすな」


麗華は少し驚いた。


しかし答えるより先に、叔父が口を挟んだ。


「だからこそ、直接見てみる必要がある」


麗華が振り向く。


叔父は続けた。


「これまでは、我々は机の上で報告書を読んでいただけだ。お前はもう彼と会っている。なら今度は、私自身が彼の考え方を見てみたい」


麗華はその意図を理解した。


「何のために?」


「お前の評価を確かめるためだ」


「私の評価なら、もう十分です」


「そうとは限らん」


声は大きくない。


だが、十分に強い。


「お前は、この案件に近づきすぎている」


麗華は黙った。


「感情的な利害関係を持たない人間が評価すれば、お前の結論が本当に正しいのかを判断できる」


麗華は叔父を見つめた。


一つの言葉が引っかかった。


感情的。


自分に、そこまでの執着があるとは思っていない。


しかし、否定もしなかった。


あまりにも早く否定すれば、まるでその言葉が自分に当たっていると認めているようにも見えるからだ。


やがて父親が言った。


「行かせてやれ」


叔父が頷く。


「分かった」


麗華はなおも叔父を見ていた。


「蓮に会うおつもりですか?」


「ああ」


「いつです?」


「できるだけ早く」


麗華は息を吐いた。


「それなら、私が予定を調整します」


叔父は首を横に振った。


「いや」


麗華が眉を上げる。


「私自身で黒瀬ホールディングスに連絡する」


黒瀬ホールディングス


ほぼ同じ頃。


黒瀬ホールディングスのオフィスは、はるかに静かな空気に包まれていた。


蓮は執務室に座っている。


机の上には、高橋から送られてきたいくつかの報告書が置かれていた。


一つはヤマト・ロジスティクスの進捗について。


一つは三井マリンフーズについて。


そしてもう一つは、西園寺との合意を受けて、新たに動き始めた複数の協力ルートについてだった。


蓮は最後のページを読み終える。


そして資料を置いた。


大きな問題はない。


少なくとも、今のところは。


背もたれに身体を預ける。


スマートフォンはノートパソコンの隣に置かれていた。


美雪から届いたメッセージは一件、すでに読んでいる。


静香からも一件。


どちらも仕事とは関係のない内容だった。


蓮は必要な分だけ返信した。


それから、再びノートパソコンの画面を見る。


西園寺との協力関係が始まってから、何かが変わったように感じていた。


金額が増えたからではない。


会社が増えたからでもない。


黒瀬ホールディングスの存在を知る人間が、少しずつ増え始めたからだ。


蓮はこめかみを軽く押さえた。


「これが一番面倒なんだよな……」


以前なら、自分のことを知らない人間が多いほうが生活は単純だった。


だが今では、黒瀬ホールディングスという名前が、より大きな企業ネットワークの中へ入り始めている。


それはつまり、より多くの提案を受けるということ。


より多くの招待が来るということ。


そして、自分が何をしているのかを知りたがる人間が増えるということだ。


蓮は、正直それを好ましく思っていなかった。


それでも、会社を閉じた空間だけで動かし続けることができないのも理解している。


すでに手にしている資産を維持したいのなら、それに伴う結果も受け入れなければならない。


コンコン。


扉がノックされた。


高橋が入ってくる。


「失礼します」


「入って」


高橋はタブレットを持っていた。


「一つ、進展があります」


蓮が顔を上げる。


「西園寺から?」


「はい」


蓮は待った。


高橋がタブレットを机の上へ置く。


「面会の申し入れです」


「麗華?」


高橋は首を横に振った。


「いえ」


蓮は画面に表示された名前を読む。


西園寺家本家の人間。


麗華ではない。


名前の下に記載された簡単な情報にも目を通す。


役職。


家族内での関係。


これまでの事業上の経歴。


蓮はタブレットを戻した。


「目的は?」


「詳しくは、まだ記載されていません」


「なら、決めつけるな」


「私も同じことを考えました」


蓮はしばらく黙った。


会うこと自体は問題ではない。


大きな家の人間と会うことを恐れているわけでもない。


ただ、一つだけ気になることがあった。


麗華が来るのなら、すでに合意した協力関係の続きとして話すことができる。


だが、年長の家族が来るとなれば――


話の方向は変わる可能性がある。


蓮は息を吐いた。


「会う予定を組んで」


高橋が少し驚いた。


「よろしいのですか?」


「理由もなく断れば、逆に疑問を持たれる」


「場所は?」


蓮は少し考えた。


「家はやめよう」


「承知しました」


「それと、あまり堅苦しくしないでくれ」


高橋は頷いた。


「分かりました」


出ていく直前、高橋が足を止める。


「黒瀬さん」


「ん?」


「麗華様には、お伝えしますか?」


蓮が顔を上げる。


数秒が過ぎた。


昨日の会話を思い出す。


小さなレストラン。


望みについての質問。


自分自身の答え。


平穏。


そして蓮は首を横に振った。


「その面会が西園寺家に関わるものなら、向こうから伝えるだろ」


高橋は小さく笑った。


「確かに、そうですね」


扉が閉じる。


蓮は再び一人になった。


ノートパソコンの画面を見つめる。


しかし、しばらくの間、その思考は報告書の上にはなかった。


少しだけ気になる。


一体、何を話すつもりなのか。


協力関係はすでに始まっている。


直接投資は断った。


仕事上の関係にも一定の線引きがある。


それなのに、なぜ突然、年長の家族が会いたがるのか。


蓮は息を吐いた。


「どうやら、平穏ってのは簡単には手に入らないらしい」


西園寺邸


夕方が近づいた頃、麗華はその知らせを受けた。


一つの会議を終えて出てきたところで、秘書が近づいてくる。


「麗華様」


「はい?」


「叔父様が、黒瀬ホールディングスへ連絡されました」


麗華の足が止まる。


「もう?」


「はい」


「返事は?」


「先方は了承しました」


麗華は真っ直ぐ前を見つめた。


なぜ胸の奥が少し重く感じるのか、自分でも分からない。


何か悪いことが起きたわけではない。


むしろ、その逆だ。


いずれ行われるだろうとは思っていた。


それでも、何かが起こると知っていることと、それが本当に現実へ向かって動き始めることの間には、大きな違いがある。


麗華が尋ねる。


「いつ?」


「現在、日程を調整中です」


麗華は頷いた。


「分かった」


秘書が立ち去ろうとする。


「麗華様」


「はい?」


「もう一つございます」


麗華は待った。


「叔父様から、最初の面会には麗華様は同席しないようにとのことです」


麗華は黙った。


なぜか、その言葉が少し引っかかった。


蓮を守りたいからではない。


自分がそこにいなければならないと思ったわけでもない。


ただ、家族がどう動くのかを知っているからだ。


彼らは、ただ世間話をするために会いに行くわけではない。


評価する。


試す。


反応を見る。


隙を探す。


そして蓮は――


少なくとも麗華が見てきた限りでは、そうしたやり方に慣れていない。


麗華はやがて答えた。


「分かったわ」


秘書が去っていく。


麗華は一人、廊下に立っていた。


数秒間、窓を見つめる。


目の前には東京が広がっている。


建物には、少しずつ明かりが灯り始めていた。


その下では、車のライトが長い線のように流れている。


麗華が考えていたのは、一つのことだった。


蓮は、静かに暮らしたいと言っていた。


しかし、西園寺という名前が彼の人生へ入ってから――


その平穏は、少しずつ維持しにくくなっている。


麗華は一度、目を閉じた。


そして、かすかに笑う。


「ごめんなさい」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


蓮に対してかもしれない。


あるいは、自分自身に対してかもしれない。


なぜなら、彼女は少しずつ気づき始めていたからだ。


自分の家族が、蓮のもとへ向かっている。


そして今回は――


自分がそれを止めたいのかどうか、確信が持てなかった。


夜になる。


自宅のアパートで、麗華は窓際に座っていた。


スマートフォンはテーブルの上。


蓮からのメッセージはない。


彼女も何も送っていない。


送る理由などない。


二人の関係は、まだ明確な領域にある。


仕事。


協力関係。


そして、たまたま少しだけ個人的なものになった一度の昼食。


それ以上ではない。


それでも、彼女の思考は昨日の会話へ戻っていく。


「俺は、ただあまり面倒事のない生活をしたいだけです」


麗華は小さく笑った。


「それなら……」


ガラス越しに、東京の明かりを見つめる。


「あなたは、私の家族と会うには、ずいぶん悪いタイミングで出会ってしまいましたね」


言葉だけを聞けば、冗談のようにも聞こえる。


だが、心の奥には無視できない小さな不安があった。


蓮の能力を疑っているわけではない。


むしろ、その逆だ。


彼が数字や契約、そして事業上の利害に直面したとき、どのように判断するのかを、麗華はすでに見ている。


しかし、西園寺家は単なる数字ではない。


そこには歴史がある。


名前がある。


人間関係がある。


期待がある。


そして、それらすべてを財務報告書だけで処理することはできない。


麗華はスマートフォンを手に取った。


指が画面の上で止まる。


一度、蓮とのメッセージ画面を開いた。


そこに表示された名前。


新しいメッセージはない。


麗華は文字を入力した。


「明日、私の家族からあなたに連絡が行くかもしれません」


そこで止まった。


入力した文章を読み返す。


そして削除した。


説明が多すぎる。


もう一度、入力する。


「次の面会は、これまでとは少し違うものになるかもしれません」


再び削除した。


やがて、画面は何もない状態へ戻った。


麗華はスマートフォンを置く。


「どうして私が、わざわざ伝えなきゃいけないの?」


自分でも納得できる答えは出てこなかった。


だからこそ、何も送らなかった。


一方その頃、蓮もすでにノートパソコンを閉じていた。


昨日交わした小さな会話が、麗華に自分が思っている以上の時間を考えさせていることを、彼は知らない。


ただ、一つだけ分かっている。


明日は、新しい面会がある。


そして、自分の向かいに座るのは麗華ではない。


投資提案以上に重い西園寺家の名前を背負った人物だ。


蓮は執務室の明かりを消した。


「それなら、会ってみるか」


窓の外では、東京の街がまだ明るく輝いている。


この街は、人間に完全な平穏の中で生きる機会を、決して簡単には与えてくれない。


ましてや――


守りたいものを持ち始めた人間なら、なおさらだ。


そして、もしかすると――


それこそが、蓮自身もまだ気づいていない部分なのかもしれない。


彼は確かに、富を追いかけてはいない。


地位も追いかけていない。


影響力も求めていない。


それでも、自分の人生に入ってくるものが増えるほど、少しずつ守ろうとするものも増えていく。


会社。


そこで働く人々。


意図せず育っていく人間関係。


そして、これまで守りたいと思ってきた、穏やかな生活。


そうした願いは、財務報告書には決して現れない。


しかし、だからこそ――


値段をつけられないものこそが、手放すことが最も難しいものになるのかもしれない。


【第39話へ続く】


「家の名前」


黒瀬蓮はついに、西園寺家の年長者の一人と直接対面することになる。


投資を受け入れるためではない。


助けを求めるためでもない。


ただ、もっと単純な問いに答えるために――


二十一歳の青年は、大きな家の名前が介入し始めたとき、本当に一人の人間として立ち続けることができるのか?

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