第17話「眠らせておくには、もったいない」
第17話「眠らせておくには、もったいない」
赤坂の朝は、東京の中心部に比べてずっと静かだった。
赤坂レジデンスのリビングには、大きなカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
テーブルの上では、一杯のコーヒーがまだ薄く湯気を立てていた。
蓮は一人で座り、高橋から送られてきた報告書を読んでいた。
視線が、一つのページで止まる。
ページをめくる。
そして、また戻る。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面に高橋健司の名前が表示される。
蓮は電話に出た。
「おはようございます」
「おはようございます、黒瀬様。朝早くから申し訳ありません」
「サクラ・フレイトの件なら、朝の挨拶だけの電話じゃないな」
向こうから小さな笑い声が聞こえた。
「私のことが分かってきましたね」
「残念ながら」
「では、早速本題に入ります」
蓮はコーヒーを一口飲んだ。
「話して」
「昨日の件ですが、サクラ・フレイトに圧力をかけていた側が、予想より早く動きました」
「どれくらい早い?」
「正式な買収提案を送ってきています」
蓮はカップを置いた。
「会社全部?」
「その通りです」
「それで、佐倉さんは?」
「まだ受けていません」
「それならいい」
「先に金額を見たくはありませんか?」
「今、見てる」
高橋がしばらく黙る。
「もう私が送った報告書を読んだのですか?」
「読んだ」
「そんなに早く?」
「そんなに長くない」
「問題は書類の長さではありません、黒瀬様」
「そうなのか?」
「普通なら、あのような報告書はメモを取りながら読むものです」
「俺のメモは頭の中にある」
「そういうことを言われると、本当に大学生なのかどうか、ますます分からなくなりますね」
蓮は薄く笑った。
「それは高橋さんの問題だ」
高橋が再び笑う。
「分かりました。もう一つあります」
「何?」
「先方が直接会いたいと言っています」
「どこで?」
「六本木です。ビジネス向けのレストランで」
「誰が来る?」
「先方の執行役員、三浦浩一です」
蓮は目の前の資料を再び開いた。
「経験は?」
「物流と投資業界で二十年以上です」
「役職は?」
「執行役員兼、事業開発部門の責任者です」
「じゃあ、ただ書類を持ってくるだけの人じゃないな」
「その通りです」
蓮は数秒、報告書を見つめた。
「何時?」
「昼前です」
「行く」
「よろしいのですか?」
「なんで?」
「念のため確認しただけです」
「高橋さん」
「はい?」
「彼らがサクラ・フレイトを買いたいなら、その理由を知りたい」
「もし、圧力をかけるために来るのなら?」
蓮は立ち上がった。
「まず聞く」
寝室へ向かって歩く。
「何を望んでいるのか分かる前に、言い争う必要はない」
「それで、もし黒瀬様を軽く見てきたら?」
蓮はクローゼットを開ける。
「放っておく」
「放っておく?」
「相手を早くから軽視する人間は、たいてい話すことに夢中になって、数字を見る余裕がなくなる」
高橋が黙る。
やがて、少し真剣になった声が返ってきた。
「承知しました」
通話が終わる。
蓮はしばらくクローゼットの前に立っていた。
それから、白いシンプルなシャツと暗い色のスラックスを取り出す。
フォーマルなスーツは着ない。
ネクタイもつけない。
今日は式典ではない。
ただのビジネスミーティングだ。
そして、自分を金持ちに見せようとしているような格好をするつもりもなかった。
部屋を出る前、蓮の視線がドアの近くにある小さなテーブルへ向いた。
そこには車の鍵が置かれている。
蓮は一つを手に取った。
P9LMの鍵ではない。
Jeskoでもない。
ここ数日、ほとんど触れていなかった鍵。
Ghost Series II by MANSORY。
「ずっと停めてたら、本当に埃がたまるな」
蓮は鍵をポケットへ入れた。
* * *
数分後。
蓮は地下駐車場へ降りた。
エレベーターの扉が開く。
駐車場は、いつも以上に静かだった。
P9LMは定位置にある。
Jeskoは特別区画。
そしてGhost Series IIは、その隣で静かに停まっている。
蓮は車の前で立ち止まった。
黒いボディが、駐車場の照明を受けている。
蓮は顎に手を当てる。
「久しぶりだな」
もちろん、返事はない。
蓮はドアを開ける。
エンジンが始動する。
低いエンジン音が駐車場いっぱいに響き、やがて車が外へ出るとともに遠ざかっていった。
東京は、すでに動き始めている。
蓮は急がなかった。
流れに合わせて車を走らせる。
赤信号で停車すると、スマートフォンが再び震えた。
高橋からのメッセージだった。
「先に到着しています」
蓮は短く打つ。
「向かってる」
続いて、もう一件。
「先方は投資顧問を同行させる可能性があります」
蓮は返信する。
「そのほうがいい」
数秒後。
「そのほうがいい?」
蓮は返した。
「人が多いほど、意見も増える」
スマートフォンを元の場所へ戻す。
六本木までの道のりは、大きな問題もなく進んだ。
高層ビルが少しずつ視界を埋めていく。
レストラン。
ホテル。
ブティック。
投資会社。
企業の看板。
東京は、本当に止まることを知らないようだった。
Ghost Series IIが選ばれたビジネスレストランの駐車場へ入ると、係員が一瞬だけ振り返った。
蓮は気にせず車を降りる。
シャツのカフスを整える。
そして店内へ入った。
高橋は個室の近くですでに待っていた。
蓮を見ると立ち上がる。
「お待ちしていました」
「待たせた?」
「いえ、それほどでも」
高橋が入り口のほうを見る。
「今入ってきた車、黒瀬様のですか?」
「どれ?」
「さっき入ってきた車です」
「Ghost」
高橋は息を吐いた。
「本当に車が多すぎますね」
「売ってないからな」
「それは答えになっていません」
「そうだな」
高橋が小さく笑う。
そして表情を戻した。
「三浦さんは、もう来ています」
「一人?」
「法務顧問と財務部門の責任者も一緒です」
「本気だな」
「そのようです」
蓮は頷く。
「行こう」
二人は個室へ入った。
中では、五十代ほどの男性が席を立った。
こめかみには白髪が混じっている。
着ているダークスーツはシンプルだが、質の良さが分かる。
動きは落ち着いていて、視線は鋭い。
その隣には、分厚い書類ファイルを持った男性と、眼鏡をかけてタブレットを持った女性が座っていた。
三浦が手を差し出す。
「黒瀬さんですか?」
「そうです」
「三浦浩一です」
二人は握手を交わした。
三浦はしばらく蓮を見た。
ほんのわずかに表情が変わる。
非常に小さな変化だった。
だが、蓮は見逃さなかった。
驚き。
蓮が有名だからではない。
おそらく三浦は、もっと年上の経営幹部が来ると思っていたのだ。
「どうぞ、お座りください」
三浦が言う。
蓮は座った。
高橋も隣の席につく。
三浦はまだ蓮を見ている。
「失礼ですが、少し驚いています」
「問題ない」
「黒瀬ホールディングスを、とても若い方が率いているとは聞いていました」
「その情報は合ってます」
「ここまで若いとは思いませんでした」
「それなら、今分かったな」
三浦が笑う。
「率直ですね」
「時間の節約になる」
三浦の隣にいる法務顧問が、笑いをこらえるような表情を見せた。
三浦がファイルを開く。
「早速、サクラ・フレイトについて話しましょうか?」
「どうぞ」
「我々は、サクラ・フレイトを買収したいと考えています」
「知ってる」
「現在の会社の状況は、かなり厳しいと判断しています」
「そうだな」
「今回発生した契約問題によって、先方の交渉力はさらに弱くなっています」
蓮は答えない。
三浦が続ける。
「我々としては、公平だと考える条件を提示するつもりです」
書類がテーブルの中央へ押し出される。
蓮はすぐには触れなかった。
三浦が言う。
「サクラ・フレイトの全株式に対して、二億八千万円を提示します」
高橋が資料を見る。
蓮は三浦を見た。
「それを公平だと思ってる?」
三浦がわずかに眉を上げる。
「リスクを考慮しています」
「どのリスク?」
「法的問題、キャッシュフローの安定性、主要契約への依存、そして現在の経営環境です」
「業務ネットワークは?」
「計算に入れています」
「継続中の契約は?」
「もちろん」
「ヤマトとの関係は?」
「それも含めています」
蓮は背もたれに体を預けた。
「なら、なぜ二億八千万円?」
三浦が笑う。
「我々の評価結果です」
「何を基準に?」
「資産価値、負債、キャッシュフロー予測、そして統合リスクです」
蓮は頷く。
「筋は通ってる」
三浦の表情が少し緩む。
しかし、蓮は続けた。
「サクラ・フレイトを買いたい会社としてはな」
部屋が静かになる。
蓮は書類を指差した。
「問題は、この数字が既存の配送網における会社の価値を反映していないことだ」
三浦が腕を組む。
「黒瀬さん、戦略的価値は必ずしも企業価値に組み込めるものではありません」
「そうだな」
「なら?」
「だからこそ、その金額を出すのが不思議なんだ」
三浦が蓮を鋭く見る。
「安いと?」
「そう」
高橋は口を挟まなかった。
蓮は資料を手に取る。
数秒読む。
「あなたたちは、サクラ・フレイトを問題企業として評価している」
「実際に問題を抱えています」
「でも、買収後に必要になるコストを十分に計算していない」
三浦が黙る。
蓮は続けた。
「統合コストがかかる」
ページをめくる。
「従業員を維持する必要がある」
さらにページをめくる。
「契約関係を修復する必要がある」
そして三浦を見る。
「主要顧客が離れないようにする必要もある」
三浦が落ち着いた声で答える。
「我々には、その能力があります」
「疑ってない」
「では、問題は?」
「二億八千万円払って、それら全部を引き受ける」
三浦が黙る。
蓮は資料をテーブルへ置いた。
「俺は、全部を買う必要がない」
三浦の隣にいた財務担当者が、ついに口を開いた。
「どういう意味でしょう?」
「サクラ・フレイトが立ち続けられるように、俺たちが支援する」
「資金提供ですか?」
「一部は」
「残りは?」
「契約の再編」
三浦が眉をひそめる。
「それで十分だと?」
「分からない」
その答えに、全員が黙った。
蓮は続ける。
「全部のデータを見る前に、十分だなんて言う理由がない」
財務担当者が蓮を見る。
「つまり、まだ決断していない?」
「決めてる途中だ」
「何を基準に?」
「数字」
三浦の隣にいる眼鏡の女性がタブレットを起動した。
「では、一つ確認させてください」
蓮が彼女を見る。
「どうぞ」
「黒瀬ホールディングスがサクラ・フレイトを買収しない場合、あの会社が存続できるという保証はありますか?」
「ない」
「それなら、黒瀬さんのほうが立場は弱いのでは?」
蓮は彼女を見る。
「その通り」
女性が少し笑う。
だが、蓮は続けた。
「でも、あなたたちの立場も、思っているほど強くない」
女性の笑みが消えた。
蓮は高橋を見る。
「高橋さん」
「はい」
「サクラ・フレイトが現在維持している契約の価値は?」
高橋が資料を開く。
「全体としては、直接影響を受けるネットワークにおいて年間およそ八億円相当と見ています」
三浦がすぐに口を挟む。
「それはサクラ・フレイトの売上ではありません」
「分かってる」
蓮が答える。
「業務への影響額だ」
三浦が再び蓮を見る。
「それで?」
「あなたの会社がサクラ・フレイトを買うなら、その契約を維持しなければ買収を成立させる意味が薄くなる」
「その通りです」
「契約がなくなったら?」
三浦は答えなかった。
蓮が言う。
「買収価値も下がる」
「では、維持できたら?」
「それでも維持するためのコストはかかる」
三浦がゆっくり頷く。
「つまり?」
「あなたたちは、死にかけている会社につけた価格を持ってきた」
蓮はまっすぐ三浦を見る。
「でも、サクラ・フレイトはまだ死んでない」
初めて、三浦の表情が変わった。
高橋はわずかに頭を下げた。
どこへ話が進むのか、すでに分かっていた。
蓮は続ける。
「問題は深刻だ」
「はい」
「でも、法的手続きは進んでいる」
「はい」
「オーナーはまだ仕事をする意思がある」
「はい」
「従業員も残っている」
「はい」
「主要契約も切れていない」
三浦は答えなかった。
蓮は資料を閉じた。
「つまり、あなたたちが買おうとしているのは倒産寸前の会社じゃない」
少し間を置く。
「パニックになっている会社だ」
部屋が静まり返った。
三浦は長い間、蓮を見つめた。
そして薄く笑った。
「高橋さんがあなたをそこまで信頼する理由が、少し分かった気がします」
蓮は反応しない。
「俺を信頼する必要はない」
三浦が小さく笑う。
「その通りです」
体を背もたれに預ける。
「では、あなたは何を望んでいる?」
「本当の目的を知りたい」
「目的?」
「なぜサクラ・フレイトなのか」
三浦はすぐには答えなかった。
蓮は待つ。
やがて三浦が口を開いた。
「関東のネットワークです」
「もっと具体的に」
「倉庫の所在地。顧客との関係。配送ルート。そして経験のある人員」
「つまり、会社そのものじゃない」
「物流会社の大半は、ネットワークで成り立っています」
蓮は頷いた。
「そのほうが正直な答えだ」
三浦が笑う。
「黒瀬さん」
「何?」
「あなたはまだ、とても若い」
「知ってる」
「軽視するつもりはありません」
「どうぞ」
「ただ、ビジネスの世界は、数字を読むほど単純ではありません」
「単純だなんて言ってない」
「本当に、これを全部管理できると思っていますか?」
蓮は三浦を見る。
「俺が全部管理するわけじゃない」
三浦が少し困惑する。
蓮は高橋を指す。
「彼が業務を管理する」
そして書類を指す。
「法務は弁護士がやる」
眼鏡の女性を見る。
「財務は財務チームがやる」
そして再び三浦を見る。
「俺は、決定が馬鹿げたものにならないように確認するだけだ」
高橋は顔を伏せ、笑いを隠した。
三浦の法務顧問が短く息を吐く。
三浦は逆に笑った。
「それはなかなか痛い言い方ですね」
「悪い」
「でも、反省しているようには聞こえません」
「してないから」
再び小さな笑いが起こった。
部屋の緊張が少しだけ和らぐ。
だが、蓮は止まらない。
「三浦さん」
「はい?」
「俺は、サクラ・フレイトをオーナーから奪いたいわけじゃない」
「なぜ?」
「まだ本人が会社を続けたいと思っているから」
「それだけで十分だと?」
「違う」
蓮は立ち上がった。
「だから、協力の形を決める前に、全部のデータを見たい」
三浦が顔を上げる。
「協力?」
「買収じゃない」
「提携を?」
「かもしれない」
「かもしれない?」
「まだ全部の数字を見てない」
三浦がゆっくり首を横に振る。
「黒瀬さん、本当に読みにくい人ですね」
「そのほうがいい」
「なぜ?」
「安全だから」
三浦がまた笑った。
* * *
面談が終わった後。
蓮と高橋はレストランを出た。
六本木の空気は、さらに人の気配で満ちていた。
高橋が蓮の隣を歩く。
「どうでした?」
「悪い人じゃない」
「でも?」
「自信がありすぎる」
「経験があるから?」
「会社を失うのを恐れている人間と、ずっと話してきたからだ」
高橋が頷く。
「そして佐倉大輔さんは、まさに今その立場ですね」
「そう」
「怒らないんですか?」
「何に?」
「こちらのパートナーに圧力をかけようとしていることです」
「ビジネスをしてるだけだ」
高橋が蓮を見る。
「本当に感情的にならないですね」
「全部に腹を立ててたら、仕事する時間がなくなる」
二人は再び車へ乗り込む。
しかし、蓮はすぐにはエンジンをかけなかった。
「高橋さん」
「はい?」
「投資会社へ行こう」
「もう一度計算するためですか?」
「確認する」
「分かりました」
Ghost Series IIが再び六本木を離れる。
移動中、高橋はタブレットでいくつかの資料を開いていた。
「サクラ・フレイトに短期融資を行うなら、古い穴を埋めるだけに使われないことを確認する必要があります」
「そうだな」
「法的問題とキャッシュフローも分けて考える必要があります」
「そう」
「契約の再編が進むなら、配送コストも見直さなければなりません」
「そうだな」
高橋が蓮を見る。
「他に考えがありますか?」
「いくつか」
「例えば?」
「金を注ぎ込んで会社を救うんじゃない」
「では?」
「金が必要になる理由を減らす」
高橋が黙った。
蓮は続ける。
「運営コストが高すぎるなら、追加資本を入れても問題を先延ばしするだけだ」
「その通りです」
「契約が重すぎるなら、追加資金では直らない」
「はい」
「借金の構造が悪いなら、新しい資金を入れても問題を移動させるだけだ」
高橋が笑う。
「つまり、構造から始める」
「そう」
「それで、採算が取れなかったら?」
「やめる」
「後悔は?」
「ビジネスは、すべてを守ることじゃない」
蓮は前方の道路を見る。
「守る価値があるものを選ぶことだ」
高橋は答えなかった。
しかし、今回は本当に理解していた。
蓮は多くの会社を持ちたい人間ではない。
その過程を楽しんでいるようにも見えない。
それでも、一度守ると決めたものには、中途半端に手を出さない。
車が投資会社のエリアへ入る。
蓮が降りる。
エレベーターの扉が八階で開くと、仕事をしていた何人かのスタッフが振り返った。
「お帰りなさいませ、黒瀬様」
蓮は頷く。
「仕事を続けて」
「はい」
高橋が蓮を分析室へ案内する。
黒田武がすでにそこで待っていた。
蓮が入ると、黒田が立ち上がる。
「こんにちは」
「来てくれたんだな」
「法務面を見るように言われましたので」
蓮が座る。
「どう?」
黒田がファイルを開く。
「サクラ・フレイトの立場は、外から見えるほど悪くありません」
「どれくらい?」
黒田は書類を見る。
「初期分析どおり反訴が進めば、法的な圧力はかなり軽くなる可能性があります」
「契約は?」
「維持できる可能性があります」
蓮は頷いた。
高橋が財務資料を開く。
「キャッシュフローに問題があります」
「いくら?」
高橋が答える。
「構造を変えずに業務を維持する場合、短期的に一億八千万円ほど必要です」
蓮はすぐには答えなかった。
資料を手に取る。
視線がページからページへ素早く移っていく。
《資産分析 EX》が、音もなく働く。
光もない。
派手な演出もない。
ただ、情報がこれまでよりはるかに読みやすくなっていく。
蓮の手が止まる。
「車両コストが高すぎる」
高橋が近づく。
「どの部分です?」
「車両の維持費」
「その通りです」
「段階的に切り替えないのか?」
「車両の帳簿価額がまだかなり高いので」
「帳簿価額と経済価値は同じじゃない」
黒田が頷く。
「その通りです」
蓮は別の部分を指す。
「それと、この倉庫契約」
高橋が確認する。
「更新するたびに費用が上がっています」
「再交渉」
「倉庫の所有者が拒否する可能性があります」
「なら、代替案を探す」
高橋が蓮を見る。
「移転させるつもりですか?」
「移転費用のほうが契約を維持するより安いなら」
黒田が笑った。
「株を買わずに、会社を作り直しているようなものですね」
蓮は背もたれに体を預ける。
「かもしれない」
高橋がさらに資料を読み進める。
「これがいくつか成功すれば、必要な資金はかなり減らせます」
「いくら?」
高橋が計算する。
そして答えた。
「およそ一億円です」
蓮は頷いた。
「そのほうがずっと合理的だ」
黒田がファイルを閉じる。
「なら、選択肢は二つです」
「一つ目?」
「再編を条件に資金を提供する」
「二つ目?」
「サクラ・フレイトが別の投資家を探す」
蓮は高橋を見る。
「佐倉さんにとって、どっちがいい?」
高橋は少し考えた。
「一つ目です」
「理由は?」
「会社の経営権を失わずに済みます」
蓮は頷いた。
「なら、一つ目で進めよう」
黒田が眉を上げる。
「買収しないのですか?」
「しない」
「戦略的な会社なのに?」
「だからこそだ」
蓮は二人を見る。
「まだ自力で立てる会社なら、俺が奪う理由はない」
高橋が笑った。
「それは、今まで聞いた中でもっとも変わった経営判断かもしれません」
蓮が立ち上がる。
「それでいい」
「それでいい?」
「俺と同じ考えの人間が、まだ多すぎないってことだから」
黒田が短く笑った。
そのとき、蓮のスマートフォンが震えた。
登録されていない番号からメッセージが届く。
蓮は開いた。
短い文章だった。
「黒瀬様。三浦浩一です。
本日はお時間をいただき、ありがとうございました。
もう一度、お話ししたいと思っています。
サクラ・フレイトの買収についてではありません」
蓮は一度読む。
そして、もう一度読む。
高橋が蓮の表情を見る。
「何かありましたか?」
蓮は画面を見せる。
高橋が読む。
「方向を変えた?」
「たぶんな」
黒田が後ろから画面を見る。
「買収でなければ、何を?」
蓮はスマートフォンをポケットへ戻す。
「まだ分からない」
その瞬間、スマートフォンが再び震えた。
二通目のメッセージ。
「もう一つ、お話ししたいことがあります。
黒瀬ホールディングスの名前が、いくつかの投資関係者の間で聞かれるようになりました。
あなたが、どこまで進むつもりなのか知りたいのです」
蓮は黙った。
高橋が蓮を見る。
「今日の面談、かなり影響があったようですね」
蓮は息を吐く。
「サクラ・フレイトの問題を片づけたかっただけなんだけどな」
高橋が薄く笑う。
「問題は、黒瀬様……」
「何?」
「もうビジネスの世界から見られ始めているということです」
蓮はスマートフォンの画面を見る。
システムが現れてから初めて、何かが違うと感じた。
金の問題ではない。
家の問題でもない。
車の問題でもない。
人々が、蓮自身に注目し始めている。
そして、その「注目」こそが、蓮が最初からもっとも避けたかったものだった。
蓮はスマートフォンをポケットへ戻す。
「……面倒だな」
高橋が笑う。
「ビジネスの世界へ、ようこそ」
蓮はドアへ向かって歩く。
「入りたいなんて言った覚えはない」
「残念ながら、ビジネスの世界は黒瀬様の意思を気にしていないようです」
蓮は少しだけ立ち止まった。
そして振り返らずに答えた。
「なら、あの世界に俺がルールに従うと思わせないことだ」
蓮は部屋を出た。
廊下の向こうから、再びオフィスのざわめきが聞こえてくる。
そして初めて、黒瀬ホールディングスという名前は、社内資料の中だけに存在するものではなくなった。
その名前は、少しずつ別の会話へと移っていく。
ゆっくり。
静かに。
それでも、経験を積んだ人間に一つの疑問を抱かせるには十分だった。
――いったい、黒瀬蓮とは何者なのか。
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次話予告
第18話
次の面談は、サクラ・フレイトを買収したい企業からではない。
今度は、投資の話を持ってくる者が現れる。
そして蓮は、すぐに一つのことに気づく。
自分が静かに暮らそうとすればするほど、ビジネスの世界は、より大きくなって蓮を探しに来る。
――第18話へ続く。




