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欲のない俺に、最強の資産システムが降ってきた ~望んでないのに、金も家も車も会社も美女も増えていく~  作者: Ren Hazumi


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第16話「初めての本格的な商談」

第16話「初めての本格的な商談」


火曜日の朝。


東京の空はまだ薄い灰色に染まっていた。


蓮がアパートのカーテンを開けると、赤坂レジデンスの大きなガラス窓から朝の光がゆっくりと差し込んでくる。


蓮はしばらく窓の前に立ち、少しずつ人の動きが増えていく港区のビル群を眺めた。


下から、車の音がかすかに聞こえてくる。


仕事の一日は、もう始まっていた。


蓮はテーブルの上からスマートフォンを取った。


メッセージが一件。


高橋健司からだった。


蓮はそれを開きながら、キッチンへ向かう。


高橋健司:

「おはようございます、黒瀬さん。サクラ・フレイトについて、状況に変化がありました」


蓮の足が止まった。


続きのメッセージを読む。


高橋健司:

「以前、サクラ・フレイトに接触していた企業から、本日正式な面談を申し込まれています」


蓮は眉をひそめた。


驚いたわけではない。


それより、まだコーヒーを飲み終えていないことのほうが気になった。


蓮は返信する。


「何時?」


数秒後、返事が届いた。


高橋健司:

「午前十時、黒瀬ホールディングスのオフィスです」


蓮はスマートフォンをポケットに入れた。


「まだ朝なのに……」


キッチンの棚を開ける。


いつものコーヒー。


湯を沸かす。


何も変わっていない。


少なくとも、ここだけはまだ普通だった。


蓮はダイニングテーブルに座り、高橋から送られてきた報告書を読み始める。


サクラ・フレイト。


これまでヤマト物流にとって重要な取引先の一つだった、中堅規模の運送会社。


その会社は現在、経営者である佐倉大輔が契約を巡るかなり深刻な紛争に巻き込まれていることで、問題を抱えていた。


蓮は昨日、その件をすでに確認している。


そして佐倉本人とも会った。


蓮が興味を持ったのは、会社そのものではなかった。


その中にいる人たちだった。


佐倉が数十人の従業員が職を失う可能性について話したとき、蓮はすぐに、この問題をそのまま放置することはできないと感じた。


だが、今朝は新しい問題が出てきた。


大企業がサクラ・フレイトを買収しようとしている。


蓮は報告書を閉じた。


「買収したいなら、なんで俺に会う必要があるんだ?」


当然、答えはない。


蓮は誰かに話しかけているわけではない。


コーヒーを飲み干す。


そして立ち上がった。


今日は、本当のビジネスの世界に入らなければならない。


なのに、不思議なことに、まったく気分が高揚しなかった。


* * *


午前九時を少し過ぎた頃。


蓮は自分の部屋を出た。


白いシンプルなシャツ。


ダークグレーのブレザー。


黒いパンツ。


革のフォーマルシューズ。


手首には、システムから与えられたGrand Seikoの時計。


エレベーターの扉に映った自分の姿を見て、蓮は小さく呟いた。


「……ちょっとフォーマルすぎるな」


扉が開く。


蓮は中へ入った。


一階で、エレベーターを待っていた別の住人が、蓮の服装をちらりと見た。


「最近の若い人は、本当に格好いいな」


蓮は反応しなかった。


そのまま外へ出る。


地下駐車場では、三台の車がそれぞれの場所に停まっている。


四十七番スロットにはMANSORY P9LM EVO 900。


四十八番スロットにはGhost Series II by MANSORY。


そして地下の特別区画には、Ko〇〇nigsegg Je〇〇ko by MANSORY。


蓮は少しだけ立ち止まった。


視線が一台ずつ移っていく。


「今日は……」


Jeskoを見る。


それからP9LMを見る。


「こっちは目立ちすぎる」


視線をGhost Series IIへ移す。


数秒考える。


「こっちも、いい選択じゃないな」


最後に、P9LMの前で立ち止まった。


「これでいい」


ドアが開く。


蓮が乗り込む。


エンジンがかかり、重い音がコンクリートの壁に直接反響した。


蓮は小さく息を吐く。


「今日は車のことで騒がれませんように」


車を走らせ、駐車場を出る。


その朝、赤坂から丸の内へ向かう道はかなり混んでいた。


蓮は港区の道路を抜け、東京の中心的なビジネスエリアへ向かう。


オフィスビルは次第に密集していく。


歩道には人が増え、タクシーが停まっては走り出す。


配送トラックも物流ルートへ入っていく。


蓮は急がなかった。


流れに合わせて走る。


赤信号で車を止めたとき、スマートフォンが再び震えた。


高橋だった。


蓮はハンズフリーのボタンを押す。


「はい」


スピーカーから高橋の声が聞こえた。


「黒瀬さん、もう出発されましたか?」


「出た」


「到着前に、少しだけ状況をお伝えしたいのですが」


「言って」


「今回、面談を申し込んできた企業は、トーワ・ロジスティクス・コーポレーションです」


蓮はその名前を頭に入れた。


「大企業?」


「かなり大きいです。関東で強いネットワークを持っています」


「どうしてサクラ・フレイトに興味を?」


「サクラ・フレイトが持っている、これまでなかなか入り込めなかったいくつかの配送契約です」


蓮は信号を見つめた。


「つまり、配送網を買いたい」


「簡単に言えば、そういうことです」


「それで、佐倉大輔は?」


「彼らは、佐倉さんの現在の状況を好機だと見ています」


蓮は黙った。


高橋が続ける。


「おそらく、断りにくい金額で買収を提案してくるでしょう」


「なら、佐倉さんに選ばせればいい」


「問題は、圧力があることです」


「どんな圧力?」


「サクラ・フレイトが主要契約をいくつか失えば、会社の立場はかなり弱くなります」


蓮は眉を寄せた。


「つまり、ただ買いたいだけじゃない」


「私も、そのように見ています」


信号が青に変わる。


蓮は再び車を走らせた。


「誰が来る?」


「先方の執行役員、神田雅之です。投資部門から二名が同行します」


「弁護士は?」


「まだいません」


「それならいい」


「いい、ですか?」


「弁護士がいないなら、まだ交渉の段階だ」


高橋が小さく笑った。


「本当に落ち着いていらっしゃいますね」


「まだ慌てる理由がないだけだ」


「それが私には心配なのですが」


「どうして?」


「普通、会社のオーナーとしてこの席に座る人間なら、もっと緊張するものです」


蓮は前方の道路を見ながら答える。


「俺、まだ大学生だから」


「存じています」


「期待しすぎないで」


「私は、むしろ興味があります」


通話が終わる。


蓮は再び運転に集中した。


大学生。


会社経営者。


どういうわけか、その二つの生活はずっと同時に進むことを強いられている。


* * *


黒瀬ホールディングスは、丸の内のオフィスビル八階に入っている。


蓮が中へ入ると、これまで訪れたオフィスとは雰囲気が違っていた。


騒がしくない。


過剰に飾られてもいない。


社員たちは静かに仕事をしている。


何人かのスタッフが蓮を見ると立ち上がった。


「おはようございます、黒瀬さん」


蓮は頷く。


「おはよう」


一人の女性スタッフが近づいてきた。


「トーワ・ロジスティクスとの面談は、あと十五分ほどで始まる予定です」


「会議室は?」


「メイン会議室です」


「サクラ・フレイトの報告書を用意して」


「すでに用意しております」


「ヤマトの報告書も」


スタッフが少し驚いた。


「全部ですか?」


「サクラ・フレイトに関係する部分だけ」


「承知しました」


蓮は会議室へ向かう。


ドアの前では、高橋がすでに待っていた。


「時間ぴったりですね」


「道がそこまで混んでなかった」


高橋は蓮の服装を見る。


「本当に大きな取引をしに来た経営者に見えます」


蓮は自分の服装を見る。


「ただの普通の服だけど」


「黒瀬さんにとっては、そうでしょうね」


蓮はドアを開ける。


「そういうのはいいから」


高橋が笑う。


二人は中へ入った。


テーブルにはすでにいくつかの資料が用意されていた。


蓮はテーブルの片側に座る。


高橋は隣の席に腰を下ろした。


数分後。


ドアが開く。


三人が入ってきた。


先頭は四十代後半ほどの男性だった。


黒髪には、こめかみを中心に白髪が混じっている。


濃紺のスーツ。


暗い色のネクタイ。


礼儀正しい笑み。


男性が頭を下げる。


「初めまして。トーワ・ロジスティクス、執行役員の神田雅之です」


高橋が立ち上がる。


「高橋健司です」


神田は次に蓮を見る。


その表情が、ほんの少し変わった。


黒瀬ホールディングスのオーナーは、もっと年上の人物だと思っていたのかもしれない。


「そして、あなたが……」


蓮が立ち上がる。


「黒瀬蓮」


神田が一瞬だけ黙った。


「あなたが黒瀬さんですか?」


「はい」


神田は高橋を見る。


それから再び蓮を見る。


「失礼ですが、私はてっきり……」


「もっと年上だと?」


神田が気まずそうに笑った。


「まあ、そのような感じです」


蓮は椅子を引いた。


「どうぞ、お座りください」


神田が座る。


後ろの二人も席についた。


そのうちの一人がファイルを開く。


神田は再び笑った。


「正直に言いますと、我々も少し驚いています」


「年齢ですか?」


「はい」


「俺は二十一ですから」


神田が小さく笑う。


「軽視するつもりはありません」


「分かっています」


蓮の返答で、少しだけ空気が軽くなった。


神田が資料を開く。


「本日はサクラ・フレイトについてお話しするために伺いました」


蓮は背もたれに体を預ける。


「どうぞ」


「我々も、あの会社の状況を把握しています」


「どこまで?」


「財務状況については、大部分を把握しています」


蓮が顔を上げる。


「大部分?」


「公開情報と業界情報です」


「では、内部資料は見ていない」


神田が黙る。


同行していたスタッフの一人が答えた。


「まだです」


蓮はテーブルの上の資料を手に取った。


「なら、事実から始めましょう」


報告書を開く。


「サクラ・フレイトは、優良企業とは言えない」


神田が少し驚いた。


蓮は続ける。


「でも、捨てるべき会社でもない」


神田が蓮を見る。


「興味深いですね」


「問題はキャッシュフロー、契約、そしてオーナーの立場にある」


蓮はいくつかのページを指で示した。


「主要契約が維持されれば、会社にはまだ立て直す余地がある」


神田が腕を組む。


「だからこそ、我々も興味を持っているのです」


「契約が理由?」


「その通りです」


「なら、問題はもう分かっている」


神田が眉を上げる。


「どういう意味でしょう?」


「俺たちは、サクラ・フレイトが買収する価値のある会社かどうかを話しているんじゃない」


蓮は神田を見つめた。


「誰があの会社を生き残らせることができるのか。それを話している」


部屋が突然静かになった。


高橋は口を挟まなかった。


蓮に任せている。


やがて神田が笑った。


「黒瀬さん、かなり率直ですね」


「そのほうが早い」


「では、私も率直に話しましょう」


神田が買収提案の資料を開く。


「我々は、サクラ・フレイトを買収する用意があります」


蓮は一ページ目に記載された数字を見る。


すぐには何も言わなかった。


神田が続ける。


「会社が抱える一部の債務を整理し、戦略的な契約については維持するつもりです」


「従業員は?」


神田の動きが止まる。


「従業員、ですか?」


「何人いる?」


同行スタッフの一人が資料を確認する。


「四十五名です」


蓮はその人物を見る。


「全員残す?」


神田は少し間を置いて答えた。


「評価を行った上で、判断します」


蓮は資料を閉じた。


「つまり、全員ではない」


「黒瀬さん、再編なしにすべてのポジションを維持することはできません」


「分かってる」


「もし、より良い解決策をお持ちなら、ぜひ伺いたい」


蓮はすぐには答えなかった。


高橋を見る。


「高橋さん」


「はい」


「サクラ・フレイトがヤマトの関東圏の配送に占める割合は?」


高橋がタブレットを開く。


「現在、外部パートナーを通じて処理している地域輸送需要の、およそ四十パーセントです」


神田がすぐに蓮を見る。


「お分かりでしょう。だからこそ、この買収は戦略的なのです」


蓮は小さく頷いた。


「そうだな」


再び神田を見る。


「サクラ・フレイトが倒れれば、ヤマトも影響を受ける」


「その通りです」


「ヤマトが代替先を探したら?」


神田が笑う。


「コストは上がります」


「いくら?」


神田のスタッフが答える。


「初期試算では、年間八億円前後です」


蓮が振り向く。


「八億?」


「おおむね、その程度です」


蓮は指先で一度、テーブルを叩いた。


「つまり、サクラ・フレイトを買うことは、単に会社を手に入れることじゃない」


神田は答えない。


「物流網を維持することが目的だ」


高橋が頷く。


「その通りです」


蓮は再び神田を見る。


「なら、質問がある」


「どうぞ」


「なぜ買収する必要がある?」


神田が少し眉をひそめる。


「経済的に合理的だからです」


「誰にとって?」


神田が黙った。


蓮が続ける。


「トーワ・ロジスティクスにとって?」


「はい」


「サクラ・フレイトにとって?」


神田はすぐには答えなかった。


蓮は待った。


やがて神田が口を開く。


「……必ずしも、そうとは言えません」


蓮は頷いた。


「そのほうが正直な答えだ」


神田のスタッフの一人が居心地悪そうに身じろぎする。


神田は小さく手を上げた。


「落ち着いて」


そして再び蓮を見る。


「黒瀬さん、少し失礼に聞こえるかもしれませんが、一つ言わせてください」


「どうぞ」


「あなたはまだ若い」


「分かってる」


「成長途上の会社を持っている」


「そうだ」


「そして今、経営が苦しい会社を守ろうとしている」


「そうだ」


神田が笑う。


「それが、合理的な経営判断だと思いますか?」


蓮は数秒、神田を見た。


「必ずしもそうとは限らない」


神田が少し困惑する。


「では、なぜ?」


蓮は表情を変えずに答えた。


「すべての判断を、利益だけで決める必要はないからだ」


高橋が少しだけ頭を下げた。


神田が黙る。


蓮は続けた。


「会社は利益を出さなきゃいけない。それは分かってる」


「私も分かっています」


「サクラ・フレイトが利益を出せないなら、立て直す必要がある」


「はい」


「でも、財務諸表を良く見せるためだけに、四十五人を切るつもりはない」


神田のスタッフの一人が小さく息を吐いた。


蓮はそちらを見る。


「本当に仕事ができない人がいるなら、それは別の問題だ」


再び神田を見る。


「でも、会社を買ったからという理由だけで、その会社で働いている人たちを切るのは、俺が望むことじゃない」


神田はしばらく蓮を見つめた。


そして薄く笑った。


「あなたは、本当に変わった人ですね」


「よく言われる」


* * *


その後も面談は、ほぼ一時間にわたって続いた。


神田はさまざまな質問を投げかけてきた。


ヤマトの立場。


黒瀬ホールディングスの能力。


資本。


再編を実行する能力。


蓮はすべてを自分一人で答えようとはしなかった。


技術的な部分は高橋に任せる。


法務については、法務担当スタッフに説明させる。


業務データについては、ヤマトの資料を提示させる。


そして数字が出てくるたびに、蓮は出所を確認した。


「この数字はどこから?」


「内部データです」


「期間は?」


「直近の四半期です」


「前の期間と比較して」


スタッフがノートパソコンを開く。


「差は約十一パーセントです」


「なぜ?」


「配送量の減少です」


「どの地域?」


「関東です」


「どの契約?」


スタッフが資料を探し始める。


神田は蓮を見る。


「かなり細かいですね」


「数字を一つ読み違えれば、判断も間違う」


「ビジネスを勉強しているんですか?」


「経済学を専攻してる」


「何年生です?」


蓮は淡々と答えた。


「三年」


神田が短く笑った。


「この後も授業があるんですか?」


「間に合えば」


「本気ですか?」


「なんで?」


高橋は笑いをこらえた。


神田は首を横に振る。


「私は二十年以上、この仕事をしています」


蓮は神田を見る。


「それで?」


「こんな会議の後でも、大学のことを考えている会社オーナーには、まだ会ったことがありません」


蓮は肩をすくめた。


「俺はまだ学生だから」


神田が笑う。


会議室に入ってから初めて、その表情には本当の余裕が見えた。


* * *


昼前。


面談は終了した。


しかし、合意には至らなかった。


神田が立ち上がる。


「黒瀬さん」


「はい」


「私は、サクラ・フレイトを売却するよう、あなたを説得するために来ました」


蓮は神田を見る。


「それで?」


「今は逆です」


「?」


「あなたがどうやって、あの会社を守るのかを知りたくなりました」


蓮は資料をファイルに戻す。


「もっといい条件を提示できるなら、送ってください」


神田が笑う。


「それでも私が買いたいと言ったら?」


「また来ればいい」


「機会を逃すのが怖くないんですか?」


「どの機会?」


神田が笑った。


「分かりました」


神田が手を差し出す。


蓮もその手を握る。


「また会いましょう」


「どうぞ」


神田と二人のスタッフが会議室を出ていく。


ドアが閉まる。


高橋は椅子に背を預けた。


「どうでした?」


蓮はテーブルを見る。


「悪くない」


「気に入りました?」


「そういう意味じゃない」


「では?」


「まだ話す気がある」


高橋が笑う。


「それだけでも十分いいことです」


蓮が立ち上がる。


「サクラの問題は、まだ終わってない」


「はい」


「佐倉さんに連絡して」


「今からですか?」


「うん」


「何と伝えます?」


蓮はジャケットを手に取る。


「会社を守りたいなら、売らなくても済むくらい強くする」


高橋が蓮を見る。


「経営を引き受けるおつもりですか?」


「まだ」


「投資ですか?」


「かもしれない」


「再編?」


「当然」


高橋が笑った。


「だんだん、本当の経営者らしくなってきましたね」


蓮はドアの前で立ち止まる。


「そういうこと言わないで」


「なぜです?」


「まだ大学に通いたい」


高橋が笑った。


* * *


その日の昼。


蓮はすぐには大学へ戻らなかった。


高橋とともに、六本木にあるビジネス向けのレストランへ向かう。


過剰に高級な店ではない。


小さな個室。


静かな雰囲気。


外からは、車の音や人々の会話がかすかに聞こえてくる。


佐倉大輔はすでに待っていた。


蓮が入ると、佐倉はすぐに立ち上がった。


「黒瀬さん」


「座って」


佐倉は再び腰を下ろす。


顔にはまだ疲労が残っている。


「面談は、どうでした?」


「あなたの会社を買いたいそうだ」


佐倉が俯く。


「やっぱり……」


「売りたい?」


佐倉は黙った。


「分かりません」


「なぜ?」


佐倉はテーブルの上で拳を握った。


「私の社員たちです」


蓮は佐倉を見る。


「四十五人」


佐倉が頷く。


「みんな、何年も一緒に働いてきました」


「会社を残せる可能性があるなら?」


佐倉が顔を上げる。


「……何ですか?」


蓮はバッグから資料を取り出した。


「まだ売らないで」


佐倉は資料を見る。


「何か考えが?」


「まだ完全じゃない」


蓮は資料を開いた。


「全部見る必要がある。契約、キャッシュフロー、運営コスト、借入、顧客との関係」


佐倉は数秒、蓮を見つめた。


「本当に、私を助けてくれるんですか?」


「あなたはヤマトの取引先だ」


「それだけが理由ですか?」


蓮の手が止まる。


すぐには答えなかった。


そして言った。


「四十五人も、この判断にかかってる」


佐倉は俯いた。


その表情が少しだけ穏やかになる。


「分かりました」


「まだ礼はいい」


「なぜ?」


「まだ解決してないから」


佐倉が小さく笑う。


「では、終わるまで待ちます」


蓮は頷いた。


「それでいい」


* * *


昼食後。


蓮は黒瀬ホールディングスのオフィスへ戻った。


移動中、高橋は助手席に座っていた。


「一つ、分かりましたか?」


蓮は運転に集中したまま答える。


「何が?」


「さっきの交渉についてです」


「どっち?」


「トーワ・ロジスティクスです」


「少し」


「何が見えました?」


蓮はしばらく黙った。


「サクラ・フレイトに興味を持ちすぎてる」


「契約が理由ですか?」


「そう」


「それで?」


「本当に会社を買いたいだけなら、価格を提示して終わりでもいい」


高橋が蓮を見る。


「でも、彼らはヤマトのデータを持ってきた」


「つまり、二社の関係をすでに見ている」


「その通りです」


蓮は続けた。


「つまり、黒瀬ホールディングスも見てる」


高橋が黙る。


蓮が一瞬だけ横を見る。


「もうサクラさんだけの話じゃない」


高橋が頷く。


「これからは、他の企業も我々に注目するようになります」


蓮は再び前を見る。


「それが嫌なんだよな」


「なぜです?」


「俺はただ、問題を片づけたいだけなのに」


「残念ながら、会社を持った以上、問題も一緒についてきます」


蓮は息を吐いた。


「知っておくべきだったな」


高橋が笑う。


「知ってはいたでしょう」


「知ってるのと、実際に経験するのは違う」


* * *


午後。


蓮は再び自分の部屋に戻った。


机の上には追加の資料がいくつか置かれている。


蓮が座った直後、スマートフォンが震えた。


美雪からだった。


美雪:

「黒瀬さん。本日、サクラ・フレイトに関するビジネスミーティングがあったと聞きました」


蓮は一度読む。


そして返信する。


「そう」


すぐに返事が来た。


美雪:

「何か、安全面で問題はありませんでしたか?」


蓮は少し考えた。


「まだない」


美雪:

「もし黒瀬さんや会社に圧力がかかるようなら、私に知らせてください」


蓮の指が止まった。


美雪はいつもこうだ。


余計なことは言わない。


すぐに核心へ入る。


蓮は返信する。


「覚えておく」


数秒後。


美雪:

「それでいいです」


蓮はスマートフォンを置いた。


次の報告書を開く前に、またメッセージが届いた。


静香だった。


静香:

「黒瀬さん、本日のサクラ・フレイトとの件は、問題なく進みましたか?」


蓮は読む。


返信まで、少しだけ長く間が空いた。


「まだ終わってない。でも、大きな問題はない」


静香からすぐに返事が来る。


静香:

「それなら、よかったです」


続いて、もう一件。


静香:

「もし行政面で確認が必要な書類があれば、私でよければ確認します」


蓮は薄く笑った。


二人。


二つの違うやり方。


美雪は蓮が安全であることを確認する。


静香は蓮の事務処理が乱れないように確認する。


蓮は入力する。


「確認が必要な書類があれば送る」


静香が返信する。


静香:

「分かりました」


そして、もう一件。


静香:

「それと……あまり無理をしないでください」


蓮は画面を見つめた。


文字を打つ。


消す。


また打つ。


「遅くなりすぎる前には帰る」


静香からの返事は一文だけだった。


静香:

「そのほうがいいです」


蓮はスマートフォンを置く。


「なんで最近、みんな俺の帰宅時間まで管理し始めたんだ?」


机の上に積まれた資料を見る。


そして一枚を手に取る。


「……まあ、二人とも正しいけど」


* * *


夕方前。


高橋が再び部屋へ入ってきた。


「黒瀬さん」


「入って」


高橋が一冊のファイルを置く。


「今日の面談結果です」


蓮が開く。


「それで?」


「トーワ・ロジスティクスは、引き下がりません」


「いい」


高橋が眉を上げる。


「いい?」


「今ここで引いたら、本当は何を狙ってるのか分からない」


高橋が頷く。


「では?」


「サクラ・フレイトを守る」


「どうやって?」


蓮は報告書を見る。


「キャッシュフローを強くする」


「方法は?」


「ヤマトと配送能力を組み合わせる」


高橋はすぐに理解した。


「統合?」


「一部だけ」


「中期契約?」


「そう」


「安定した配送量を提供すれば、サクラ・フレイトはキャッシュフローを改善できます」


蓮が頷く。


「ヤマトも配送コストを抑えられる」


高橋が笑った。


「面白くなってきましたね」


蓮は高橋を見る。


「喜びすぎるな」


「なぜです?」


「ここから、もっと複雑になる」


高橋が笑う。


「それは確かに」


蓮は再び資料に目を落とした。


「それと、契約紛争には法務コンサルタントが必要だ」


「すでに手配しています」


「誰?」


「黒田武です」


蓮は頷く。


「明日、彼に連絡して」


「承知しました」


高橋が出ようとする。


「高橋さん」


高橋が止まる。


「はい?」


「これから、面談を申し込んでくる企業があっても、すぐには予定を入れないで」


高橋が蓮を見る。


「なぜです?」


「まず相手が誰なのか、何を狙っているのか、誰に接触しているのかを確認して」


高橋が笑った。


「慎重になってきましたね」


「今日のことで学んだ」


高橋は軽く頭を下げる。


「承知しました」


ドアが閉まる。


蓮は再び一人になった。


窓を見る。


東京の色が変わり始めている。


夕方の光が、丸の内のビルのガラスに反射していた。


その下では、仕事を終えた人々が帰路につく。


電車も次第に混み始める。


街は動き続けている。


蓮は体を椅子に預けた。


「……これが会社を持つってことか」


以前、人生で一番大きな問題といえば、大学の課題と食費だった。


今では契約、キャッシュフロー、従業員、競合企業、そして交渉まで考えなければならない。


蓮は息を吐いた。


「俺、こんなの頼んでないんだけどな」


そのとき、スマートフォンが震えた。


メッセージではない。


システムの通知だった。


蓮は画面を見る。


《無欲行動を確認》


《利用者は、他者を圧迫するために資産を利用することなく、ビジネス上の圧力に対処しました》


《利用者は、企業と従業員の生活を考慮した判断を維持しました》


《条件達成》


《無欲倍率:×75》


《新規報酬が確定しました》


《報酬:15億円》


【実績解除】


【初の本格的な商談】


《新規スキル:企業交渉》


《ランク:A》


蓮は画面を見つめた。


動かない。


やがてスマートフォンを閉じる。


「会社、交渉、それからまた金か」


蓮は立ち上がる。


ジャケットを手に取った。


「明日は大学だ」


しかし、部屋を出る前に足を止めた。


一つだけ、これまでとは違うことがあった。


今日、蓮は初めて、本当にビジネスのテーブルについた。


たまたま会社を持っている人間としてではない。


オーナーとして。


そして、テーブルの向こう側にいる人間たちも、蓮をそういう存在として扱い始めていた。


蓮は、その変化を自分が気に入っているのかどうか分からない。


ただ、一つだけ明確なことがあった。


ビジネスの世界は、黒瀬ホールディングスの存在を知った。


そして今日を境に、さらに多くの人間がその名前に注目し始める。


* * *


夜。


蓮は赤坂レジデンスへ戻った。


地下駐車場を通り抜ける。


P9LMは四十七番スロットへ戻った。


その隣では、Ghost Series IIが四十八番スロットに静かに停まっている。


特別区画では、Jeskoもまだそこにあった。


蓮は三台の車を一瞬だけ見る。


「三台か」


息を吐く。


「なのに、一番使ってるのは最初のやつだな」


そのままアパートへ上がる。


リビングにバッグを置く。


再びスマートフォンが鳴った。


高橋からのメッセージが一件。


高橋健司:

「黒瀬さん、新たな面談の依頼があります」


蓮は画面を見る。


続いて、もう一件。


高橋健司:

「大手投資会社から、黒瀬さんとの面談を希望されています」


蓮は黙った。


「まだ一日だぞ」


東京の夜空を窓越しに眺める。


そして短く笑った。


「……なんでこんなに早いんだ?」


スマートフォンの画面に、その会社名が表示された。


サイオンジ・キャピタル・パートナーズ。


蓮は、その名前の背後に誰がいるのか、まだ知らない。


ただ、一つだけ分かっていた。


次の面談は、今日ほど単純ではない。


そしてシステムが現れてから初めて、蓮は少しずつ感じ始めていた。


自分の資産は、もはや自分自身の生活だけを変えるものではない。


自分のことを、世界がどう見るのかまで変え始めている。


蓮は画面を消した。


「面倒だな」


キッチンへ向かう。


「明日は大学が先だ」


しかし、さっきの会社名だけは、頭から離れなかった。


サイオンジ・キャピタル・パートナーズ。


そして、新たな面談が待っている。


---


第17話「若いから、何だ?」


黒瀬ホールディングスの名は、より大きなビジネスの世界へ少しずつ広がり始める。


次の面談で、蓮は若さを弱点だと考える経営幹部と対峙することになる。


彼らは黒瀬ホールディングスの実力の限界を試そうとする。


しかし蓮は、大声で交渉に勝つつもりなどない。


ただ、数字と資産構造、そして会社の本当の立ち位置を示すだけだ。


その一方で、美雪は蓮への脅威が、必ずしも物理的な安全問題として現れるとは限らないことに気づき始める。


そして静香もまた、蓮の決断を自分でも気づかないほど頻繁に気にするようになっていく。


――第17話へ続く。

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