第11話「真面目すぎる彼女」
第11話「真面目すぎる彼女」
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木曜日、06:45
赤坂レジデンス――1203号室、港区
蓮は、いつもとは違う音で目を覚ました。
アラームではない。
スマートフォンの通知音でもない。
外から聞こえてくる音だった。
重いトラックのエンジン音。
ブレーキの音。
足音。
そして、何人かが交わす専門的な口調の会話。
蓮は目を開けた。
数秒間、ただ横になっていた。
やがてベッドの端に腰を下ろす。
視線を窓へ向けた。
その朝の東京の空は晴れていた。
淡い青。
薄い雲が、風に流されながらゆっくりと動いている。
外から再び音が聞こえた。
蓮は立ち上がった。
窓まで歩く。
カーテンを開けた。
赤坂レジデンス前の道路には、三台の大型トラックが停まっていた。
一台目にはヤマト物流のロゴ。
二台目は佐川急便。
三台目には企業ロゴがなかった。
ただ真っ白な車体に、側面へ小さな文字が入っているだけだ。
何人かの作業員が荷物を降ろしている。
木箱。
大型のスーツケース。
金色のリボンが掛けられた箱。
蓮はそれらを眺めた。
そしてスマートフォンへ視線を移す。
「特別報酬……」
画面を開く。
《特別報酬――到着》
特別報酬1:
Koenigsegg Jesko by MANSORY
状態:地下3階・専用駐車スペースに到着
特別報酬2:
フル・ウルトラハイエンド高級マンションセット
状態:1203号室にて設置作業中
15分後に作業員が到着し、家具の設置およびその他の物品の引き渡しを行います。
蓮は時計を見る。
06:45。
そして再び通知へ視線を戻した。
十五分。
まだシャワーも浴びていない。
「……早いな」
蓮は画面を閉じた。
キッチンへ向かう。
電気ケトルのスイッチを入れる。
湯が沸くのを待ちながら、ひびの入った白いマグカップを手に取った。
インスタントコーヒーを入れる。
そこへ熱湯を注ぐ。
ゆっくりとかき混ぜる。
一口飲む。
苦い。
熱い。
普通だ。
蓮はマグカップを見る。
「少なくとも、これは変わってないな」
そして浴室へ向かった。
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07:00
赤坂レジデンス――1203号室
コン。
コン。
コン。
玄関からノックの音が響いた。
蓮はちょうどシャワーを浴び終えたところだった。
黒いTシャツにジーンズ。
髪はまだ少し濡れている。
蓮は玄関を開けた。
そこには一人の男が立っていた。
グレーのスーツ。
黒いネクタイ。
整えられた髪。
年齢は四十歳前後だろう。
その後ろには、白い制服を着て清潔な手袋をした作業員が五人立っている。
男が頭を下げた。
「黒瀬様でしょうか?」
「そうです」
「おはようございます。藤田と申します。藤田インテリアワークスの者です。こちらの住戸の家具設置と物品のお引き渡しを担当しております」
蓮は男の後ろを見る。
五人の作業員。
いくつもの台車。
大型の箱。
「作業時間は?」
「主要な設置作業で、およそ二時間を予定しております。できる限り効率よく作業し、音も最小限に抑えるよう努めます」
蓮はドアを大きく開けた。
「どうぞ」
藤田が頭を下げる。
「ありがとうございます」
作業員たちが室内へ入っていく。
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07:15
赤坂レジデンス――1203号室
蓮はリビングの隅に座っていた。
そこだけが、まだ何も置かれていない場所だった。
蓮は作業員たちの仕事を眺めている。
動きは整然としていた。
大きな音はない。
荷物を乱暴に置く者もいない。
一つ一つの物を、慎重に運んでいる。
最初に運び込まれた家具。
黒いイタリア製の革張りソファ。
三人掛け。
ベルベットのクッション。
縫製も非常に丁寧だ。
蓮にはブランドまでは分からない。
だが、品質の高さは簡単に分かった。
続いてコーヒーテーブル。
白い大理石に、灰色の模様が入っている。
脚はミニマルな金属製。
その次は、ウォールナット材の本棚。
読書灯まで組み込まれている。
オーク材のダイニングテーブル。
椅子は六脚。
そして、新しいベッド。
以前のベッドよりも大きい。
藤田がマットレスを指差した。
「こちらのマットレスは、最適な休息環境を確保できるよう調整されております」
蓮はそれを見る。
「前のベッドもまだ使えたけど」
藤田は気まずそうに笑った。
「そうでございますか、黒瀬様」
蓮はそれ以上何も言わなかった。
次々と家具が運び込まれていく。
カーペット。
照明。
観葉植物。
いくつかの装飾品。
すべてが整った配置で置かれていく。
蓮は、少しずつ変わっていくリビングを眺めた。
一つ。
そして、また一つ。
一時間も経たないうちに――
何もないように感じていた部屋が、高級マンションの上質なインテリアへと変わり始めていた。
蓮は古いソファに頭を預ける。
「……全部、多すぎるだろ」
藤田がリストを手に近づいてきた。
「まだいくつか、お客様用の私物をお渡しする予定となっております」
蓮が振り向く。
「私物?」
「衣類、腕時計、電子機器、その他いくつかの生活用品でございます」
蓮は黙った。
「……結構あるな」
藤田が合図をすると、作業員の一人が大型のポータブルクローゼットを運んできた。
扉が開かれる。
蓮は中を見る。
スーツ。
黒。
グレー。
ネイビー。
白いシャツ。
淡いブルーのシャツ。
黒いシャツ。
さまざまな色のネクタイ。
すべて種類ごとに整理されている。
蓮がわずかに眉を上げた。
「仕事用か」
作業員が次の区画を開く。
Tシャツ。
黒。
白。
グレー。
ダークブルー。
必要以上に多い。
「普段着」
次の区画。
フランネルシャツ。
ジャケット。
パーカー。
セーター。
「大学用か」
下段には靴が並んでいた。
白いスニーカー。
黒いスニーカー。
革のフォーマルシューズ。
ローファー。
サンダル。
蓮はすべてを見る。
フォーマルウェアから普段着まで。
揃っている。
揃いすぎている。
藤田が小さな黒い箱を差し出した。
「こちらは腕時計でございます、黒瀬様」
蓮が開ける。
中には三本の腕時計。
グランドセイコー スノーフレーク。
白い文字盤。
ロレックス サブマリーナー。
黒い文字盤。
パテック フィリップ ノーチラス。
青い文字盤。
蓮は三本を見つめた。
腕時計など、ほとんど着けない。
箱を閉じる。
「たぶん、そんなに使わないと思う」
藤田は笑顔を崩さない。
「ですが、すべてご指示に沿ってご用意しております」
箱はテーブルの上に置かれた。
次の箱が開く。
電子機器。
iPhone 15 Pro Max。
MacBook Pro M3 Max。
iPad Pro。
Apple Watch Ultra 2。
AirPods Pro 2。
蓮はそれらを見る。
そして、テーブルに置かれた自分の古いスマートフォンを見る。
iPhone 8。
何年も使ってきたものだ。
古いノートパソコンにも目を向ける。
「俺のノートパソコン、まだ壊れてないけど」
藤田は何と答えればいいのか分からないようだった。
蓮は新しいiPhoneを手に取る。
少しだけ重さを確かめる。
「……あとでいい」
そして元の場所へ戻した。
藤田が頭を下げる。
「それでは、設置作業を続けさせていただきます」
「どうぞ」
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09:30
赤坂レジデンス――1203号室
作業員たちの仕事が終わった。
彼らが出ていったあと、ドアが閉まる。
蓮は一人、リビングの中央に立っていた。
周囲を見回す。
部屋は完全に変わっていた。
革張りのソファ。
大理石のテーブル。
ウォールナットの本棚。
カーペット。
照明。
観葉植物。
ダイニングテーブル。
すべてが整然と配置されている。
派手すぎるわけではない。
だが、明らかに高価だ。
蓮はゆっくり歩く。
ソファの背もたれに触れる。
そして寝室へ向かった。
新しいベッド。
白いシーツ。
枕。
掛け布団。
蓮は少しだけ腰を下ろした。
確かに寝心地はいい。
「……これは悪くないな」
蓮は寝室を出る。
キッチンには、新しい食器類が並んでいた。
ケトル。
カップ。
皿。
カトラリー。
すべてショールームから出てきたばかりのように綺麗だ。
蓮は小さく息を吐いた。
そして新しいiPhoneを手に取る。
画面が点灯する。
《特別報酬――完了》
特別報酬――完了
フル・ウルトラハイエンド高級マンションセット
状態:設置完了
報酬:
・無欲ボーナス ×50
・30億円
・《空間管理》――ランク:C
・実績:【Luxury Living】
蓮は画面を見つめる。
30億円。
新しいスキル。
新しい実績。
すぐには反応しなかった。
スマートフォンをテーブルへ置く。
視線を窓へ向ける。
「30億……」
蓮は息を吐いた。
「それに、車はまだ見てないんだよな」
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10:00
赤坂レジデンス――地下3階
蓮は地下3階へ向かった。
エレベーターのドアが開く。
冷たい空気がすぐに出迎えた。
綺麗に磨かれた床へ、蛍光灯の光が反射している。
地下3階は地下2階とは違った。
より静かだ。
より高級感がある。
見える車も数台だけ。
蓮は一番奥へ向かって歩く。
そこには専用の駐車スペースがあった。
金色のラインで囲まれている。
そして、その中央に――
車があった。
蓮は立ち止まった。
数秒間、ただ眺める。
低い。
幅が広い。
攻撃的。
空力性能を意識したフォルム。
しかし、最も目を引いたのは色だった。
蛍光灯の下では、ボディは暗く見える。
だが蓮が数歩横へ移動すると――
色が変わった。
まるで二つの色の層が、光を交互に受け止めているようだった。
リアには小さな文字。
JESKO.
その下に――
MANSORY.
蓮は近づく。
「Koenigsegg Jesko……」
スマートフォンを取り出す。
システム画面が表示された。
《車両詳細》
Koenigsegg Jesko by MANSORY
エンジン:5.0L V8 ツインターボ
最高出力:1,600hp(E85使用時)
最大トルク:1,500Nm
0–100km/h:2.5秒
最高速度:480km/h
生産:1台のみ――黒瀬蓮専用
登録名義:黒瀬蓮
自動車税:支払い済み
保険:有効
駐車場所:地下3階・専用駐車スペース
蓮は最後まで読み終えた。
そして目の前の車を見る。
「1,600馬力……」
蓮はこめかみを掻く。
「俺、大学に行くだけなんだけど」
車の周囲を歩く。
ボディのディテール。
エアロ。
ドア。
ホイール。
すべてが街中を走る車というより、サーキットを走るために作られたように感じる。
蓮は運転席のドアの前で止まった。
ドアを開ける。
中へ入る。
P9LMとは違うインテリアだった。
カーボンパネル。
レザー。
アルカンターラ。
Koenigseggのロゴが入ったステアリング。
蓮はさまざまなボタンを眺める。
「俺、どうやってエンジンかけるのかすら分からないんだけど」
視線を動かす。
スタートボタンを見つけた。
押す。
エンジンが始動した。
V8の音が一瞬で地下駐車場を満たす。
低い。
重い。
空気そのものが震える。
蓮は数秒間、黙っていた。
そしてエンジンを切る。
「あとでいいな」
車から降りる。
ドアを閉める。
蓮は車の横に立った。
スーパーカーが二台。
一台はP9LM。
もう一台はJesko。
それでも蓮には、二台をどう使えばいいのか分からない。
「俺に車って、実際何台必要なんだ?」
答えはない。
蓮はエレベーターへ向かって歩き出した。
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11:00
赤坂レジデンス――1203号室
蓮は新しいソファに座っていた。
部屋の雰囲気が違う。
家具が変わっただけではない。
空間全体の印象が変わっている。
蓮は新しいiPhoneを手に取る。
メールを開く。
新しいメッセージが一件届いていた。
差出人:黒瀬ホールディングス――総務部
件名:黒瀬ホールディングスへようこそ
黒瀬様
謹んでご報告申し上げます。
黒瀬ホールディングス株式会社は、正式に事業を開始いたしました。
組織体制は以下の通りとなっております。
代表取締役:黒瀬 蓮
取締役・業務統括:高橋 健司
傘下企業:
・ヤマト物流株式会社
・三井マリンフーズ株式会社
総従業員数:207名
月次報告書は毎月1日に送付いたします。
黒瀬ホールディングス総務部
蓮はメールを最後まで読む。
そして画面をロックした。
207人。
蓮はソファに頭を預ける。
「それでも俺、まだ大学生なんだよな」
時計を見る。
昼の講義がある。
サボる理由はない。
蓮はリュックを手に取る。
そして立ち上がった。
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12:30
大学――経済学部棟・3階
蓮は時間通りに教室へ入った。
後ろの席を選ぶ。
田中はすでに席についていた。
蓮を見るなり、すぐに振り向く。
「おはよう」
「おはよう」
田中は蓮を数秒見つめた。
「お前、なんか違わない?」
蓮は席に座る。
「どこが?」
田中が蓮の服を指差す。
「なんか服、変わっただろ」
蓮は自分の黒いTシャツを見る。
確かに新品だ。
特別報酬の一つだった。
「新しい服」
「ほらな。俺の勘は当たった」
田中は満足そうに頷く。
「高いブランド?」
蓮はバッグから教科書を取り出す。
「知らない」
田中が笑う。
「お前、本当に変な奴だな」
教授が入ってくる。
会話が止まった。
授業が始まった。
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15:00
大学――地下1階駐車場
授業が終わる。
蓮は教科書をバッグへ入れた。
駐車場へ向かう。
望みは単純だった。
帰る。
たぶん、お茶でも淹れる。
あるいは本を読む。
しかし、地下1階の駐車場へ到着したところで――
足が止まった。
P9LMの近くに誰かがいる。
美雪ではない。
佐野悠斗でもない。
警備員でもない。
一人の女性だった。
グレーのスーツ。
黒いスカート。
白いシャツ。
肩を越える長さの、赤みをわずかに帯びたダークブラウンの髪。
赤みのあるブラウンの瞳。
仕事のできる印象の顔立ち。
しかし、厳しすぎるわけではない。
女性は一枚のファイルを確認していた。
そして顔を上げる。
視線が蓮と重なった。
女性は蓮のもとへ歩いてくる。
「こちらは、あなたのお車ですか?」
蓮はP9LMを見る。
「そうです」
女性は身分証を取り出した。
高峰 静香
東京都交通局――コンプライアンス部門
蓮は身分証を読む。
「何か問題でも?」
「ヤマト物流について、お話を伺いたいのです」
蓮は女性を見る。
ヤマト。
ここ数日、その名前は何度も自分の人生に現れている。
「あなたは?」
「高峰静香です。コンプライアンス調査を担当しています。現在、東京都内の運送事業者を対象とした定期監査を行っております。ヤマト物流も監査対象に含まれています」
蓮は彼女の顔を見る。
真剣だ。
攻撃的ではない。
自分を怖く見せようともしていない。
ただ、自分の仕事に集中している。
「監査の内容は?」
静香がファイルを開く。
「いくつか事務上の不整合があります。犯罪の疑いにつながるものではありません。主に書類の不備と社内手続きに関するものです」
蓮は小さく息を吐く。
大きな問題ではない。
ただの事務処理だ。
「今、話しますか?」
静香はゆっくり首を横に振った。
「落ち着いて話せる場所のほうがよいでしょう。近くにカフェがあります。席はすでに予約してあります」
蓮は時計を見る。
15:00。
まだ時間はある。
「案内してください」
静香は、そのあまりにも直接的な返答に少し驚いた様子を見せた。
「分かりました」
二人は駐車場を後にした。
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15:30
大学近くのカフェ
カフェは比較的空いていた。
数人の客が、それぞれ別のテーブルに座っている。
蓮はブラックコーヒーを注文した。
静香は紅茶。
二人は隅のテーブルを選んだ。
静香がファイルを開く。
いくつかの書類がテーブルの上に並べられた。
「ヤマト物流には、コンプライアンス関連の報告にいくつか不整合があります」
蓮は書類を見る。
「どんなものですか?」
「いくつかの申請書が更新されていません。それから、社内手続きの一部が最新の書式で記録されていません。運行関連の書類にも、未記入の箇所があります」
蓮はざっと目を通す。
難しくはない。
「修正にはどれくらいかかります?」
「会社側が協力的であれば、それほど時間はかからないでしょう。修正が必要な項目については、すでに一覧を作成してあります」
静香が一枚の書類を差し出す。
蓮は読む。
「黒瀬ホールディングスの総務に対応してもらいます」
静香が頷く。
「それが一番重要です」
そこで一度言葉を止める。
そして蓮を見る。
その視線が少しだけ変わった。
より個人的なものになる。
「黒瀬様。一つ、質問してもよろしいでしょうか?」
蓮は書類を置く。
「どうぞ」
「まだお若いですよね。二十一歳。大学生です。それなのに、現在はヤマト物流の所有者でいらっしゃる」
静香の視線が一瞬、窓の外へ向く。
そして再び蓮へ戻る。
「それに、あの車も普通の大学生が所有するような車ではありません」
蓮は彼女の視線を追う。
窓の外には、P9LMの姿がぼんやりと見えている。
「監査と何の関係が?」
静香は少し黙った。
「ありません。ただ、少し気になっただけです」
蓮はコーヒーを一口飲む。
「答えるのが難しい質問ですね」
「答えたくないからですか?」
蓮は静香を見る。
「そういうわけじゃない。簡単に説明できる話じゃないんです」
静香が眉を寄せる。
「説明できない?」
「自分自身に説明するのも難しいことがあります」
初めて、静香の表情が少しだけ変わった。
疑っているわけではない。
むしろ、その答えを理解しようとしているようだった。
「裕福な方の中には、財産の出所について話したがらない人も多いです」
蓮はカップを置く。
「意図的に隠しているわけじゃない。全部を説明できないだけです」
静香は黙った。
数秒後、小さく頭を下げる。
「分かりました。無理にお聞きするつもりはありません。プライバシーは今回の監査対象ではありませんから」
蓮は彼女を見る。
この女性は真面目だ。
それでいて、踏み越えてはいけない線を理解している。
そういう人間は、意外と少ない。
「ありがとうございます」
静香は再び書類を開く。
「では、ヤマト物流の件に戻りましょう」
二人の会話は続いた。
書類を一枚ずつ。
手続きを一つずつ。
話が逸れることはない。
静香は細かく説明した。
蓮は重要な部分をメモする。
分からないことがあれば、質問する。
すべて理解できれば――
すぐに判断を下す。
話し合いは、ほぼ一時間半に及んだ。
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17:00
カフェ――大学駐車場
二人はカフェを出た。
静香は入口付近で足を止める。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました、黒瀬様」
蓮はポケットに手を入れる。
「こっちこそ、分かりやすく説明してくれてありがとうございます、高峰さん」
静香は小さく頭を下げる。
「修正が必要な書類は、明日お送りします」
「黒瀬ホールディングスの総務に送ってください。そこからヤマト物流へ回してもらいます」
静香がわずかに眉を上げる。
「黒瀬ホールディングス?」
「新しく作った持株会社です」
「そうですか……」
静香は情報を整理するように考え込む。
「では、現在ヤマト物流は黒瀬ホールディングスの傘下にあるということですね」
「そういう構造です」
静香は頷く。
「報告書に記載しておきます」
蓮は車のドアを開ける。
しかし乗り込む前に――
振り返った。
静香はまだその場に立っている。
二人の視線が重なる。
「また」
「またお会いしましょう、黒瀬様」
静香が背を向ける。
大学の出口へ向かって歩いていく。
蓮はP9LMへ乗り込む。
ドアを閉める。
エンジンを始動する。
フロントガラス越しに、女性の姿が見えなくなるまで見送った。
高峰静香。
真面目。
几帳面。
そして美雪とは違う。
美雪はいつも、脅威を探しているように見える。
静香は、間違いを探しているように見える。
蓮は息を吐く。
「片方には警戒させられて、もう片方には書類を揃えろって言われるのか……」
アクセルを踏む。
車は駐車場を出ていった。
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18:00
赤坂レジデンス――1203号室
蓮は部屋へ戻った。
鍵をテーブルへ置く。
そして新しいソファへ腰を下ろす。
部屋はまだどこか他人の家のように感じる。
整いすぎている。
揃いすぎている。
高価すぎる。
蓮は新しいiPhoneを取り出す。
システム画面が開く。
《無欲行動を確認》
無欲行動を確認
利用者は特別報酬を受け取ったにもかかわらず、驕る様子を見せなかった。
利用者は資産を誇示しなかった。
利用者はこれまで通り、普通の生活を続けた。
無欲ボーナス:×50
報酬:20億円
実績解除:
【Humble Recipient】
謙虚な受領者
蓮はすべてを読む。
そして画面をロックした。
「また20億……」
こめかみを揉む。
「ただ自慢しなかっただけなのに」
再びスマートフォンを開く。
《現在の総資産:154億円》
《物質欲求:2%》
《無欲倍率:×50》
蓮はその数字を見つめた。
154億円。
数日前まで、そんな金額は考えたことすらなかった。
今では――
ただの情報として画面に表示されている。
蓮は息を吐く。
「154億……」
周囲を見回す。
新しいソファ。
新しいテーブル。
新しい家電。
新しい服。
新しいスマートフォン。
そして地下には――
二台のスーパーカー。
それでも蓮は普段着のままだ。
住んでいる場所も同じ。
明日も大学へ行かなければならない。
蓮は息を吐いた。
「154億あっても……」
スマートフォンを置く。
「生活はこんなままか」
立ち上がる。
キッチンへ向かう。
緑茶を淹れる。
そして再び座る。
蓮の思考は、午後の話し合いへ戻っていった。
高峰静香。
彼女はまた来る。
明日。
書類を持って。
そして、おそらく――
また別の質問をする。
蓮はお茶を一口飲む。
そして、もう一人の女性を思い出す。
如月美雪。
美雪はまだ調査を続けている。
静香はヤマト物流の事務面を担当し始めた。
二人の女性。
二つの異なる分野。
そして、自分を見る二つの異なる視点。
蓮は窓を見る。
「……どんどん騒がしくなるな」
カップを置く。
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夜
東京のとある仕事机。
高峰静香は一人で座っていた。
デスクライトが、積み重ねられた書類を照らしている。
パソコンの画面には、ヤマト物流に関する報告書が開かれていた。
いくつかのメモを書き加える。
そして、手を止める。
視線が一つの名前へ向けられる。
黒瀬 蓮。
21歳。
大学生。
ヤマト物流の所有者。
三井マリンフーズの所有者。
黒瀬ホールディングス代表取締役。
そして、大学生が所有するにはあまりにも高額な車両の所有者。
静香は指先で机を叩く。
一度。
二度。
再び企業データを開く。
所有構造。
設立日。
事務手続きの変更。
すべてがあまりにも早い。
しかし、指摘できる違反は何もない。
犯罪の証拠もない。
蓮の私生活に干渉するだけの、職務上の理由もない。
静香は一つの書類を閉じる。
そして次の書類を開く。
「……妙ですね」
手を止める。
違反を見つけたからではない。
むしろ、何も見つからないからだ。
すべてが合法に見える。
だが、その背後にある一連の出来事は――
あまりにも普通ではない。
静香はもう一度、その名前を見る。
黒瀬 蓮。
「……何が起きているのか、確かめてみます」
ノートパソコンを閉じる。
デスクライトは数秒間、点いたままだった。
そして――
消えた。
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一方、その頃。
赤坂レジデンスでは――
蓮はすでに眠っていた。
午後の短い出会いによって、自分の人生の輪の中に、また一人の人間が加わったことを、蓮はまだ知らない。
その人物は、富を追っているわけではない。
スキャンダルを探しているわけでもない。
秘密を探しているわけでもない。
彼女が探しているのは、ただ一つ――
「不整合」
そして蓮にとっては――
それこそが、かえって面倒なものになるかもしれなかった。
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【次話予告】
第12話「偶然って、何回続けば必然になるんだ?」
翌日、高峰静香は直接ヤマト物流を訪れ、現地監査を行う。
蓮と静香の二度目の出会いは、完全に仕事上のものだった。
システムもない。
報酬もない。
無理に仕組まれた偶然もない。
ただ、仕事だけがある。
しかし、静香が会社の書類を直接確認し始めたとき――
彼女は再び、黒瀬蓮という名前に注目することになる、ある一つの詳細を発見する。
その一方で――
如月美雪は、さらに奇妙なものを見つけていた。
黒瀬ホールディングスと、十年前に倒産したある投資会社との関係。
それは、事務上の記録だけを見れば――
本来、存在するはずのないつながりだった。
そして美雪が深く調べれば調べるほど――
疑問は大きくなっていく。
高橋健司とは、一体何者なのか?
そして、なぜ黒瀬という名前が、本来なら関係のない場所にまで現れるのか?
――第12話へ続く。




