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強くなるほど「味」が消えるダンジョンで、俺だけが人間のまま地下の観客を引きずり下ろす  作者: 平八


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第2話 ウェルカム・ボーナスは拒否できない

観客は、プレゼントをくれる。


ただしそれは、助けるためではない。

もっと面白く壊すためだ。

朝になっても、舌の奥に砂の感触が残っていた。


歯を磨いても消えなかった。

水を飲んでも流れなかった。

朝食の味噌汁を口に含んでも、出汁の匂いの向こう側に、あのざらつきが沈んでいた。


砂みたいになったカレー。


ガリッ、と脳の奥まで響いた嫌な音。


そして、端末に浮かんだ最後の通知。


初回限定:ウェルカム・ボーナスを付与しました。

内容:絶望。


冗談にしては悪趣味すぎた。


夢だった、と思いたかった。


けれど、食堂の窓に止まっていた羽虫の黒い目を思い出すたびに、胃の底が冷たくなる。


あれは、見ていた。


俺を。

カレーを。

俺が飲み込むところまで。


「黒瀬、顔色悪いぞ」


訓練棟へ向かう廊下で、篠田が笑った。


「カレーの食いすぎで腹でも壊したか?」


いつもなら適当に流すところだった。


だが、カレーという単語に反応して、舌の奥がざらついた。


俺は無意識に口元を押さえる。


篠田はそれを見て、ますます笑った。


「マジかよ。強化食にしとけって言っただろ。余計な匂いも味もないし、腹も壊さない。効率いいぞ」


「うるさい」


「お、怒った」


篠田は軽く肩をすくめた。


その手には、今朝も銀色のパウチが握られている。

彼は歩きながら、それを吸っていた。


食べる、ではない。


吸う。

補給する。

流し込む。


喉が一定のリズムで動く。

味わう表情はない。

眉も動かない。


それを当たり前みたいにやっていることが、昨日よりもずっと気持ち悪く見えた。


俺は視線を外す。


廊下の壁に、小さな羽虫が一匹止まっていた。


黒い点のような目。


足が止まりかける。


だが、次の瞬間にはもういなかった。


「……見間違いか」


そう言い聞かせた。


言い聞かせなければ、足が動かなくなりそうだった。



今日の実技訓練は、浅層模擬ダンジョンだった。


探索高専の地下にある、人工的に管理された訓練区画。

低ランクの魔獣、簡易罠、偽装された資源ポイント。

探索者候補生が、初歩的な立ち回りを覚えるための場所だ。


危険はある。

だが、死ぬほどではない。


少なくとも、普通なら。


「本日の訓練区画は、浅層B三番。脅威度は最低。出現する魔獣は小型ラット系、および低位スライム系のみだ」


教官が端末を見ながら言った。


「各班は三名一組。制限時間は四十分。目的は資源タグ三つの回収。戦闘よりも探索ルートの組み立てを重視しろ」


俺の班は、最悪だった。


篠田。

小森という女子学生。

そして俺。


篠田は適応値が高い。

戦闘成績も上位。

性格は最悪だが、実力だけはある。


小森は成績中位。

真面目で、周囲に合わせるのがうまいタイプだ。

俺のことを馬鹿にしてくるわけではないが、深く関わろうともしない。


つまり、篠田が前衛。

小森が補助。

俺が荷物持ち。


そういう扱いになるのは、始まる前から分かっていた。


「黒瀬、足引っ張んなよ」


篠田が訓練用の短剣を回しながら言った。


「浅層でビビってたら、本当に探索者やめた方がいいぞ」


「分かってる」


「あと、腹鳴らすなよ。カレー臭いから」


小森が少し困ったように笑う。


俺は返事をしなかった。


訓練区画のゲートが開く。


冷たい空気が流れ出した。


湿った土の匂い。

金属の匂い。

消毒液では消しきれない、ダンジョン特有の生臭さ。


浅層模擬区画なのに、今日は妙に空気が重かった。


俺はゲートの上部を見た。


監視カメラがある。

学校側の安全管理用だ。


その横に、小さな虫が止まっていた。


黒い目。


まただ。


「黒瀬?」


小森が首をかしげる。


「何か見えた?」


「……いや」


俺はゲートをくぐった。


背後で扉が閉まる。


その瞬間、端末が震えた。


通知音はない。


だが、画面には黒い文字が浮かんでいた。


≪ウェルカム・ボーナスを起動します。≫


「……は?」


俺は足を止めた。


初回演出を開始。

観測対象:黒瀬律。

難易度調整:個別適用。


個別適用。


その言葉を理解するより早く、通路の奥で何かが鳴った。


小さな足音。


いや、小さくない。


爪が石を削る音。

濡れた肉が床を擦る音。

低い呼吸音。


篠田が眉をひそめた。


「……おい。ラット系って、あんな音したか?」


通路の曲がり角から、それが現れた。


ラットではなかった。


大型犬ほどの体躯。

皮膚の下で筋肉が不自然に盛り上がっている。

目は赤黒く濁り、口からは黒い唾液が糸を引いていた。


背中には、浅層魔獣にはありえない鉱石状の棘が生えている。


小森が小さく悲鳴を漏らした。


「な、何あれ……」


篠田の顔から笑みが消える。


「教官! 異常個体! 訓練中止を――」


篠田が通信を開こうとした瞬間、端末が砂嵐になった。


俺の端末も同じだった。


画面全体に黒いノイズが走り、白い文字が浮かぶ。


外部通信:一時遮断。

演出保護中。


演出。


その単語で、背筋に冷たいものが走った。


通路の隅。


また、文字が見えた。


壁に浮かぶように、薄く、白く。


来た

初回から当たり

小さいのに強そう

逃げる?

泣く?

カレー個体どう動く?

賭ける

前衛が先に壊れるに一票


「何だよ、これ……」


俺は呟いた。


見えているのは、俺だけらしかった。


篠田は魔獣だけを見ている。

小森は震えながら補助杖を構えている。


地下の観客。


昨日の通知。

羽虫の黒い目。

砂のカレー。


全部がつながる。


こいつらだ。


こいつらが、見ている。


俺たちが死ぬかもしれない場所を、観ている。


「下がれ!」


篠田が叫んだ。


異常個体が突っ込んでくる。


速い。


浅層の魔獣じゃない。

少なくとも、学生三人で相手にするものじゃない。


篠田が短剣を構える。

反応は悪くない。

だが、相手の速度が上だった。


爪が振り下ろされる。


篠田は防御姿勢を取った。

その瞬間、短剣ごと腕が弾かれた。


「ぐっ――!」


篠田の身体が壁に叩きつけられる。


小森が悲鳴を上げる。


異常個体は、次に小森へ向かった。


合理的に考えれば、逃げるべきだった。


小森は俺より適応値が高い。

篠田も俺より強い。

ここで俺が前に出ても、何もできない。


逃げて、どこかに隠れて、通信が戻るのを待つ。


それが正しい。


分かっていた。


でも、小森は足がすくんで動けない。


異常個体の爪が、彼女の顔へ向かう。


俺は、横に積まれていた資源タグ用の空コンテナを蹴り飛ばした。


金属音が通路に響く。


異常個体の目が、ほんの一瞬だけこちらに向いた。


「こっちだ、クソネズミ!」


自分でも馬鹿だと思った。


だが、魔獣は小森ではなく俺に向かってきた。


速い。


視界が追いつかない。


逃げ切れない。


そう思った瞬間、端末が勝手に震えた。


黒い画面に、文字が浮かぶ。


≪プレゼントが届きました。

使用しますか?≫


その下に、選択肢が出る。


≪YES / NO≫


俺は迷わず、NOを押そうとした。


だが、指が画面に触れる前に、選択肢が勝手に消えた。


≪なお、拒否権はありません。≫


「ふざけ――」


言い終える前に、胸の奥で何かが破裂した。


熱い。


血液が沸騰するみたいだった。


骨の内側に、熱した針金を通されたような感覚。


視界が変わる。


異常個体の動きが、遅く見えた。


爪の軌道。

肩の沈み。

足の踏み込み。

棘の揺れ。


全部が、線になって見える。


身体が勝手に動いた。


いや、違う。


勝手に動かされたのに、気持ちよかった。


重かった足が、急に正解だけを選ぶ。

遅れていた視界が、敵の爪の軌道を線でなぞる。

筋肉が、俺の迷いより先に、最適な角度へ跳ねた。


怖いと思う前に、避けていた。


痛いと思う前に、踏み込んでいた。


生き残るための答えが、身体の内側から勝手に湧き上がってくる。


悔しいほどに、正確だった。


俺が積んできた訓練より。

俺が必死に考えた判断より。

観客が投げつけたこの力の方が、ずっと強く、ずっと速く、ずっと正しい。


細胞の奥が、それを認めてしまう。


そのことが、何より気持ち悪かった。


俺は異常個体の爪を、紙一重で避ける。

床を転がり、壁に手をつき、反動で横へ跳んだ。


ありえない動きだった。


俺のステータスでできる動きじゃない。


観客ログが、視界の端に流れる。


初回ボーナス適用

反射補正:三二〇%

痛覚抑制:一時付与

運動予測補助:解放

今の回避、スローで再生して

すごい

カレー個体、動けるじゃん

でもまだ味ある?

代価、何にする?

玉ねぎでよくない?

安いし

玉ねぎゲットw

次のログインボーナスは何かな

投げ銭したいけど、まだ早い?

次はもっといいリアクション期待

ほら、泣く?

怒る?

もっと削って


ぞっとした。


その瞬間、頭の奥で、小さな引き出しが無理やり開けられた気がした。


焦げた玉ねぎの甘さ。


昨日まで、当たり前にそこにあったもの。


安いカレーの中で、少しだけ舌に残る、あの頼りない甘み。


それが、指先でつままれるみたいに引き抜かれていく。


やめろ、と思った。


思い出そうとした。


「甘い」という言葉は分かる。

漢字の形も分かる。

口に出せば、音にもできる。


でも、それを舌がどう感じていたのかが分からない。


神経のどこかが、物理的に断線したみたいだった。


甘みは、薄れたのではない。


最初からそんなものは存在しなかったみたいに、そこだけ世界から消えていた。


そこにはもう、味の記憶ではなく、冷たい穴だけが残っていた。


「……返せ」


声が漏れた。


異常個体が再び突っ込んでくる。


俺は避けた。


避けられてしまった。


身体が軽い。

反応が速い。

さっきまでなら死んでいた攻撃が、見える。


助かっている。


この力がなければ、俺は死んでいた。

小森も死んでいたかもしれない。


だからこそ、吐き気がした。


これは救いじゃない。


延命だ。


もっと長く苦しませて、もっと面白く観るための延命。


「黒瀬!?」


篠田が壁にもたれながら叫んだ。


「お前、今の動き……」


「黙ってろ!」


俺は通路を見た。


狭い。

天井は低い。

壁際には訓練用の資源コンテナ。

床には、さっき篠田が落とした短剣。


異常個体は速い。

真正面からは勝てない。

でも、速すぎる。


曲がり切れない。


俺は空コンテナを蹴って、通路の中央へ滑らせた。


異常個体が爪で弾き飛ばす。


その瞬間、俺は篠田の短剣を拾い、壁際の安全装置カバーへ突き立てた。


本来は非常時に訓練区画の扉を開くための装置だ。

学生が触れば減点。

壊せば停学もの。


だが、今はどうでもいい。


カバーをこじ開けると、赤い警告灯が点いた。


『不正操作を検知。』


端末ではなく、訓練区画のシステム音声が響く。


異常個体がこちらに向かって突進する。


俺は、開いた安全装置の配線を引き抜いた。


火花が散る。


通路脇の簡易罠が誤作動した。


本来なら、学生に軽い電撃を与えるだけの訓練用罠。

だが、引き抜いた配線が異常個体の濡れた唾液と、床の水たまりに触れていた。


電流が走る。


異常個体の身体が跳ねた。


「今だ!」


俺が叫ぶより早く、小森が動いた。


震える手で補助杖を構え、光弾を撃つ。


狙いは雑だった。

でも十分だった。


光弾は異常個体の目に当たり、魔獣が大きく仰け反る。


篠田が歯を食いしばって走った。


折れかけた腕を押さえながら、もう片方の手で予備短剣を抜く。


「くたばれ!」


短剣が、異常個体の喉に突き刺さった。


魔獣は痙攣し、黒い唾液を撒き散らして倒れた。


通路に、ひどい臭いが広がる。


鉄。

獣。

焦げた肉。


俺は膝をついた。


身体中が震えている。


さっきまで痛みを感じなかった右足に、急に激痛が走った。

どうやら避けた時に、爪がかすっていたらしい。


でも、それよりも嫌だったのは。


思い出せないことだった。


カレーの玉ねぎの甘さ。


あれだけ舌に残っていたはずなのに。

昨日まで何でもなかった味なのに。


そこだけ、黒く塗り潰されている。


観客ログが、また流れる。


生存

いいね

プレゼント成功

代価取得完了

玉ねぎの甘さ、回収

今の戦闘、切り抜き向き

カレー個体の反応、悪くない

次は辛味?

いや、肉の食感がいい

もっと削って

もっと見たい


俺は、血のついた拳を握った。


笑い声は聞こえない。


でも、笑っているのが分かった。


「黒瀬……お前、何をした?」


篠田の声は震えていた。


さっきまで俺を落ちこぼれと呼んでいた男が、俺を化け物でも見るような目で見ている。


俺は、倒れた異常個体を見下ろしていた。


視界がやけに澄んでいる。


おかしい。


目を開け続けているのに、乾かない。

痛くない。

涙も出ない。


瞼が、重力を忘れたみたいに落ちてこない。


「お前、今……」


篠田は、言いにくそうに喉を鳴らした。


「瞬き、してなかったぞ」


息が止まった。


白城怜司。


壇上で、一度も瞬きをしなかった英雄。


あの黒い瞳が、脳裏に蘇る。


俺は慌てて目を閉じた。


瞼が落ちる。


その当たり前の動作に、なぜか少しだけ安心してしまった。


でも、安心したこと自体が、もう怖かった。


小森も、言葉を失っていた。


俺は立ち上がる。


壁の上。


安全監視カメラの横に、小さな羽虫が止まっている。


黒い目。


俺は、それを睨んだ。


「返せ」


ログが止まる。


「俺の味を、返せ」


一瞬の静寂。


それから、端末に新しい文字が浮かんだ。


≪返却申請を受理できません。

取得済み代価は、観客側の所有物です。≫


奥歯が鳴った。


俺は羽虫から目を逸らさなかった。


「なら、取り返す」


そう言った瞬間、口の中に血が滲んだ。


さっき奥歯を噛みしめた時に、どこかを切っていたらしい。


俺は、その血を飲み込んだ。


鉄の味。


するはずだった。


けれど、それも少し遠かった。


血の味まで、薄い。


ああ。


もう、始まっている。


救いに見えたものは、地獄だった。


でも。


俺は、まだ吐き出していない。


まだ、飲み込んで立っている。


なら、終わっていない。


端末の黒い画面に、最後の文字が浮かんだ。


観測対象の敵対意思を確認。

娯楽価値、上方修正。

次のプレゼントを準備します。


足元で、倒れた異常個体の肉が、まだ焦げた臭いを上げていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


黒瀬律への最初の“プレゼント”は、命を救う力でした。

ただし代価として、彼の中から「玉ねぎの甘さ」が奪われました。


次回、律は自分が助けられたのではなく、長く遊ばれるために延命されたのだと、さらに思い知らされます。

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