60話.母は強し
朝起きると、宵華の布団は既に畳まれていた。どうやら早いうちから出ているらしい。昨晩話していた、水路まわりを調べに行くのだろう。
「母さんの所へ行くか」
樹希もおもむろに出かける準備を始めた。
以前書きとめておいた住所に着いたが、表札が【榊原】ではない。母直々に教えてもらったものなので、間違ってはいないはずだが…。
「あら」
「あ。どうも…」
おそるおそる玄関のベルを押そうと手を伸ばすと、視界の外から声がかかった。玄関横に広がる中庭の真ん中で、洗濯カゴを抱えた女性がこちらを見ていた。
「いらっしゃい樹希、どうぞ上がって」
「お邪魔します。突然ですみません」
実母である杏奈は、突然の訪問にも関わらず、快く樹希を出迎えてくれた。
表札をもう一度見る。書かれた【立花】の姓を見て、そういえばこの人の旧姓も知らなかったと、昨日考えていた事を改めて実感する。
敬語で返す樹希に母親は少し寂しそうな顔を見せるが、こればかりはまだまだ時間が足りなさすぎる。扉を開けてくれた杏奈を横目に、樹希は肩をすぼめて敷居をまたいだ。
「今日はどうしたの?仕事の方は大丈夫?」
「午前中で済むからって、ひと言断ってきました」
テーブルに淹れたてのハーブティーを置きながら、杏奈は尋ねた。
「母さんの顔を見たくなって」
「嬉しいわ。でもわざわざ私の休日に合わせてきたんだもの。用件はそれだけじゃなさそうね」
上品に杏奈が笑う。前に会った時は駅前の喫茶店だったか。あれから半年ほどだろうか、心配だった疲れ目と皺はほとんど無く、いくらか若返った印象すら受ける。
明るい照明に、丁寧な手入れの成果が伺えるインテリア。ハーブティーの良い香りも手伝って、以前顔を合わせた時が嘘のように力を抜いて対面できている。
何だかんだで自分も彼女に安心感を求めているのかもしれないと思いつつ、樹希は本題を切り出した。
「実は…」
「なるほどねえ」
「父さん…泰然宮司にはまだこの件は話してません。多分俺から伝えても断ると思うので」
神社のセキュリティ強化ーー手始めに監視カメラの設置を考えている事を話した。昨日の泰然の態度から、彼には事後報告の形で考えている事も。
頷きながら経緯を聞いていた杏奈は、顎に手を当てて何やら考え込んでいるように見える。流石に親子、そして神社のスポンサーという名目をもってしても、虫の良い相談だったろうか?
「どうでしょう?何とか融通できないですか?」
樹希は思わず尋ねてしまった。心配が顔に出すぎていたのか、杏奈は息子を安心させるように返事をした。
「大丈夫だと思うわよ。必要な台数を教えてちょうだい、それから神社の見取り図まであれば助かるかしら」
「用意してます」
昨夜のうちに用意していた見取り図を取り出した。渡しながら、断られる可能性を欠片も考えていなかった事に思い至って顔が少し熱くなるのを樹希は感じていた。
「ありがとう」
杏奈は図面を受け取り、ふと真剣な顔で樹希を見た。その表情に樹希は体を少し硬くした。
「それから樹希、この事はちゃんと泰然さんに話しておきなさい。1人じゃ伝えづらいなら、私やおじいちゃんも連れて行っていいから。大切な事よ?」
「う…はい」
ごもっともな指摘。絶対に言われるだろうと予想はしていたが、年甲斐もなく叱られた子供の気持ちになり、樹希は顔を赤くして俯いた。
「樹希、こんな大事な案件を1人で決めてはいかんだろう」
社務所で泰然に事の経緯を報告し、樹希は同じ事で注意を受けてしまった。
結局、杏奈は用事もないのでと樹希に付いてきていたのだが、それを苦笑混じりに眺めている。
「ごめん…父さん、昨日防犯カメラの取り付けについて渋ってたし、そもそも支援受けるのだって申し訳なさそうにしてたから、つい」
「それもそうだが、しかしだな…」
話がまとまりそうにないと見かねたか、2人を取りなすように杏奈が割って入った。
「まあまあ泰然さん。樹希の独断も神社を思っての事ですし、その辺にしませんか?それに、お客さんのプライバシーを考慮するにしても、妙なトラブルの種というのは摘んでしかるべきだと思うのです」
「む…」
泰然が返答を言い淀む様子を見て、杏奈が樹希に一瞥を送った。世間では母は強しという言葉があるらしいが、なるほどその意味がわかる気がする。彼女の同行に樹希はひそかに感謝した。
「…分かりました、今回は私が折れましょう」
よろしくお願いします、と泰然が杏奈に頭を下げ、継寂乃杜にセキュリティ強化が施される事となった。
工事の見積もり金額を見た泰然が「杏奈殿には足を向けられんよ…」と青い顔で乾いた笑いをしていたのは、ここだけの話だ。
樹希の母、杏奈さんの旧姓が決まりました。
そういえば天野家のお母さんを一切出していない事に気が付き…出すかはともかく、設定は考えておこうかなと思います。




