99式自動貨車(ケース<義烈>1 〜蠢動〜)
戦史をいろいろと調べる中で、ついつい活躍した話に目を奪われますが、その反面、理不尽に振り回される部隊、どうみてもその部隊の責任ではない、あってはいけないような損害の話に涙があふれる(消して老人的過感情ではない…多分)戦場が存在します。ガダルカナル島、ニューギニア島、インパール…それこそ敵弾に倒れたほうがまだましの戦場です。
前回の『彼』を、戦史上無理なく使うとするとインパール作戦なのですが、『義烈空挺隊』(あまりに理不尽な沖縄戦突入)の話になんとか粗めないかと思い、今回の話となりました。
自分の生命を愛しても憎んでもいけない。
だが生きてる限りは生命を大切にするがよい。
長く生きるか短命に終るかは、天に委せるがよい。
(ジョン・ミルトン『失楽園』)
これまで何度か経験した飛行機と比べ、グライダーというものの静かさと上下左右に軽くふわふわした感触は何度経験してもなかなか慣れないものであった。
遠くでけん引しているはずの重爆のエンジン音がまるで子守歌のように聞こえた。
乗り組んだ時の緊張感がいささか緩んだ気がした。
また夜である。
私の戦場は大半が夜か雨中である。
マレーでもビルマでも…
明るい日差しが自分には似合わないのかもしれない。
「中尉殿だけでは行かせませんやぁ」
だいぶ前に小隊長にはなった自分だが、昔なじみの伍長は今でも階級で呼ぶ。
戦場の拡大に伴う下士官・下位士官の不足により、開戦時に一等兵だった平井はいつの間にか伍長となっていた。
「死ぬなよ」
「中尉殿こそ」
「俺は生きるさ」
平井はニヤリとした。たぶん自分ではにっこりと笑ったつもりだろうが、その南方で日焼けした肌の色と仁王様面ではニヤリとしか見えなかった。
開戦の時にともに戦った残りの二人は、新しい車の配備に伴って別の車両を受け取り別れてしまった。
ク8Ⅱと名付けられた狭い軍用グライダーの中には、99式自動貨車が細いワイヤーとロープで固縛され、それに乗り込むはずの3人が静かに時を待っていた。
数か所空けられた窓から星が見える。
あと数時間、死ぬつもりはない。
生きるために戦うのだ。
確か、この車は四台目かな…マレー戦の時の一台目はシンガポール直前の道路上で敵襲を受けてその役目を終えた。エンジンに数発被弾したのだから仕方がない。二人の負傷を受けて四人とも後送され、打ち身以外のなにものでもない「戦傷」の二人は自軍の勝ち戦の中、半分忘れられたような存在で連隊の野戦病院(以前は白人の邸宅だったらしい)でだらだらと二週間近くを過ごすこととなった。
「異常なし」
という軍医の声に送られ、私たち四人を出迎えた大隊長は
「生きていたか…」
と唖然とした顔をしていたのが何か不自然で面白かった。いくら勝ち戦と言えども情報は錯そうする、
『○○少尉は、○○方面において…勇猛果敢に敵陣に乗り込み…』
などという手紙が送られる手筈になっていた。
二台目は長く持ち、マレー半島やビルマ南部方面を走り回り、雨期のエンジン下部がかぶるくらいの川とも道とも言えない中やタイヤがとられる泥濘の中を、何度も修理・調整しつつさまざまな作戦に導いてくれた。
大小の傷や素人くさい溶接痕は年増女郎の圧化粧のように数回塗り重なれたペンキでさえ消すことができないでいた。
「替えませんか?」
それから数回の新しいトラック配備のたびに車両整備の係が気を利かせてくれていたが、戦場でも行軍中もエンジンが止まることがなかったこの車を手放すことができなかった。
エンジンが止まらない、それだけでも戦場では必要不可欠なことであった。
「ゲンがいいんだよ」
第一この車に乗った者は負傷することがあってもすぐさま原隊復帰が当たり前で、私自身も何度か負傷したことがあったが、ほとんど軽傷と打ち身、一番ひどかったのは右足首の捻挫という始末であった。
いや、その反面、仕事自体はひどかった。戦後に
「日本軍は逃げる民間人を虐殺した」
などと言われているが、中国系のマレー・シンガポール人が武器を取ってゲリラまがいの活動をしていたのを制圧しただけに過ぎない。(いや、もう少し圧制だったか)現在の目からは、なぜマレーやシンガポールに中国人が?と思えるが、そのあたりはイギリス人の植民地経営の妙技とも言える。そのあたりの少数民族に「植民地経営の下部組織」を任せ、少数が大多数を支配(権利を与える)する事により、大多数の植民地の現地人はイギリスよりその下部組織を形成する人々に恨みを持つことになる。インドにおけるシーク教徒(日本人にとって「インド人=ターバン(シーク教徒)」のイメージは非常に根強いが、全体の2%以下でしかない)であり、マレー・シンガポールにおける中国系人である。日本軍の進行により中国系のマレー・シンガポール人はその特権を奪われ、それに反抗するためのゲリラまがいの戦闘であった。法律的(ハーグ法など)には、そのような民間の兵は山賊であり、犯罪者である。(レジスタンがもてはやされているのは戦勝国だからでしかない)判別即死刑が当たり前である。しかし、民間人でもある。
死の意味を考える。
絶望的な状況のなかで銃を取る意味は?
死を目の前にして、それでも満足か?
3台目は、18年に戦死・戦傷者、そして他の連隊に引き抜かれた者が全体の4分の1を超した時点で、連隊の再編成のために内地に大隊規模ごとに帰国した際に出会った。2台目は、他の装備ごとそのままマレーの連隊に置かれた。
新しい車は量産間もない丙型であった。
「いいもん見つけましたぜ」
と、引き渡し間もない車に城木軍曹が細長く大きな木箱を持ってきた。
中身は機関銃らしかったがかなり大きなものであった。初めて見る。
見た途端、ピクリと眉が上がった。
「どっから」
こんなものを…という言葉は声にならなかった。そんな私の態度に城木軍曹はにんまりとした。以前から表情豊かな人物であったが、こんな嬉しそうな顔は久しぶりだ。
「員数外ではないですよ。倉庫に転がっていたから二丁もらってきました。」
もらってきた…などと当たり前のような口調で言う。が、そんな簡単なものではないだろう。つまりは、この大隊内部での力関係である。
「一丁はうちで使いますが、そっちで一丁使ってください。うちの中隊長には話がついてます。書類なんかは適当にしておきます」
有無を言わせないように早口で言いつのった。
「それに…」
小さい声で城木軍曹が続ける。
「中尉殿が活躍すれば、その分、こっちも楽になります」
冗談なのか?
その顔は先ほどと違いそれなりに真面目なものである。
あぁ、そういえば徳島が死んだときに
「若いもんが先に死にやがって…」
と霧雨そぼ降る中つぶやいていたことを思い出した。雨期のじめじめした戦線の中で流れ弾に当たったのであった。
新兵、補充兵の増加に伴う大隊再編成の際に二人は更に別の中隊へと移動となっていた。それでも私のことを何を気に入ったのか気がけてくれ、自分の上司でもないのに侮蔑ではない「少尉殿」と呼んでくれていた。そのおかげか自分の中隊の中でもそれなりの扱いを下士官・兵から受けていた。
新車とともに、中尉の階級章を受け取り無事に小隊長となった私は、新兵補充兵の訓練を続け、自分の小隊を鍛え続けた。とはいえ、平井上等兵(伍長待遇)などの古参の下士官・兵の手助けは必須であった。五個支隊(小隊付き分隊一・機関銃分隊三・擲弾筒分隊一)60名に、小隊付きの車5台(小隊長指揮車一・火器支援車二・連絡車(補給を含む)二)とかなり贅沢なふるまいをされたものであり、中隊の中でも
「威力偵察や敵陣突破の役割を願う」
と大隊長自ら私に訓示を述べた。
そして帰国から三か月後、私たちは久しぶりのビルマ戦線へと帰ってきたのである。ビルマは雨季の後半に入っていた。
その雨の中、偵察に行かされたのにはかなりうんざりした。三台の車で、道なき道を走る。場合によっては斧やのこぎりと車のウィンチを利用して森を切り開く。そして到着したら簡易屯所を設けて、その先は徒歩での偵察。たった8人(全員が運転できる)が、敵味方の区別のつかない戦線を見て回ったのである。軍服もそうであるが、靴が10日以上土まみれに濡れた状態であったのには心底雨をうらんだ。
兵は交代できるが、この小隊に命ぜられれば私は必ず行かざるを得ない。そして偵察線が伸びれば伸びるほどその期間は長くなった。ただ、敵を見ることはなく、戦闘がないだけマシだった。顔見知りの死を見ることはない。
そんな中、禁止されていたことではあったが、幌付きの荷台で固形燃料を使った飯盒炊爨をしたおかげで、温かい食事は格別であった。
「おいおい」
と、初めて見たときにはあきれて怒ることもできなかった。
「黙ってりゃ、分かりませんて」
などと笑いながら缶詰をつつく古参兵。なんでもコーンビーフとかいう肉の塊の缶詰らしいが、いわゆる『チャーチル賞与』というシンガポール陥落の際の鹵獲品らしい。
そうそう『チャーチル賞与』といえば、格段の『賞与』を手に入れることができた。
短機関銃である。
トミーガンとも呼ばれる米トンプソン社のものであるが、シンガポール陥落に伴い、数百丁が手に入ったという。この連隊にも50丁あまりが支給され、偵察隊に配備された。
「こりゃいいや」
頼み込んで、
「一弾倉、30発だけですよ」
まったく新しいもの好きだから…と苦笑気味の顔に見送られて試射させてもらった。
全長が短く取り回しがしやすく、ジャングルでは使いやすそうだ。そこそこ重量があるので射撃時も安定している。自動装てん式だから反動も少ない。連射すると跳ね上がりがちだが抑えることは十分にできる。
「欲しいなぁ」
ぼそりとつぶやいた。これがあれば、生きながらえる、生きながらえる可能性が高くなる。
ただ、偵察隊に対する配備であって、個人的に支給されたものではない。偵察任務が終われば、返却しなければならない。
返却するたびに恨みがましい目を向けるものだから、係の下士官は
「そんなに欲しいんでしたら、連隊長殿にお願いすれば?」
などとからかった。できるわけない。
憮然とするだけであった私の手にその銃が手に入ったきっかけは、一つの戦闘であった。
雨季に切り開いた獣道よりはましな道は、何度かの偵察任務とともに次第と敵前線へと繋がっていった。乾季を迎える寸前、我が小隊は数台の支援輸送用の車とともにジャングルの途切れる直前に屯所を構築した。といっても1か所には集まらず防水処理をした綿布の屋根に、偽装網を張り声が届く範囲に支隊ごとにキャンプ場を設置したようなものであった。大隊から通信分隊の援助もあり、輸送分隊を含め90名近くがとどまっていた。
何度かの歩兵による徒歩の偵察を経て、ついにその日がやってきた。
連隊からの命令
「威力偵察」
である。
航空偵察によるとこの屯所から、20キロ先に敵大隊レベルの前線基地があり、敵方の勢力や装備、敵の出方などを把握するために、実際に敵と交戦することとなった。実際にはどうあがいても一個小隊規模の我が軍勢であるので、まともに戦うことは無理であり、自動車という機動力を生かして今で言うヒットアンドアウェイを行うのだ。敵の撃破は主目的ではなく、素早く撤退して情報を持ち帰ることこそが優先される。
作戦は簡単なものとした。観測員を敵基地を囲む数か所に配置し、基地後方より車で突っ込む。もちろん内部には侵入しないが、その混乱時に観測員はなるべく敵基地に近づいて偵察・観測を行う。
偵察班は徒歩で20キロ余りを敵兵に悟られずに敵前に侵入し、攻撃班は車で大きく迂回して基地後方から突入するのだからと、計画実施は五日後とした。
計画は4日目にとん挫する。
突入前日午後、敵基地まで7キロ程度まで近づいたところで道を発見する。航空機部隊からの報告からも妥当な発見でもあった。土木作業車両を用いたのだろう、我々のそれよりはかなり立派である。すぐさま道の基地に向かう道と離れる道に偵察を出した。
じりじりと時間がたつ。
普段は気にもしていない虫の羽音が気になって仕方がない。
基地に向かっていた兵が戻ってくる。基地の左側につながっている道と分かった。後方警戒はかなり薄く、入口警護以外の巡回の兵も少なかったらしい。思っていた以上にこちらの動きが悟られていない。どうやら基地の左側後方より侵入するのがよさそうだ。
「小隊長殿、近づくトラック20台余り、敵補給部隊らしき姿を確認しました」
基地より離れる道を偵察してきた兵がかなり遅くに帰ってきた。
「会敵時間は?」
「およそ40分後だと思われます」
「車列の長さは?」
「約250メートル」
「よし、車長たちを呼べ」
迷う暇はない。
周囲の喧騒が何も入らなくなった。
皆がそろうまでに決断しなければならない。
そう、
決断は自分だけでしなければならない。
いかがでしたか?
まだ、『義烈空挺隊』の『義』さえ出てきませんが、
一話完結…1時間後に挫折
2話完結…だめだ、ムリムリ
と書いてる自分がうんざりしてます。
小隊の新兵器(?)は、もうお分かりですね?
義烈にまつわるものです。
なんとか終わらせます。
多分
きっと
では。。。