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高速潜水艦を投入せよ その2(甲標的改良と波200)

皆さま、暑い中、いかがお過ごしでしょうか?


僕は…溶けてます。猫と一緒に……



いやぁ

遅くなりました。


自分の自治会のバタバタもありますが、

なにせ資料がない。

モーター一つとっても、調べると海軍技術の功績は挙げられていても民間企業の活躍はまず分からない…下手すれば、戦前・戦中の頑張りが隠されていることがあります。


困ったものだ…


まぁ

苦しい中でも

なんとかでっち上げました(笑


では

お楽しみください。


「途中であきらめちゃいけない。

 途中であきらめてしまったら、得るものより失うものの方が、ずっと多くなってしまう」

                         ルイ・アームストロング


  ◇           ◇


「潜水艦長、予定地域です」


海図を広げた指揮台越しに、副長兼任の航海長が顔を近づけてぼそりと呟く。

潜水艦長は軽く頷く。

これまでにソーナー手は何の報告もしてこなかった。

既に司令部には船団発見の連絡を出していた。定時連絡では、2隻の僚艦が周辺海域に集まるらしいことが告げられた。


「エンジン停止、吸気筒下げ。……… 速度3ノット」


 復唱が続き、操縦手、機関長を中心に艦内の乗員が動き出す。

 ディーゼルエンジが止まり、数瞬後に外気の流入もなくなる。ディーゼル独特のやや焦がれたオイルの匂いが艦内を占める。以前は艦内に空気を入れるだけで順番を間違えると、艦内の空気圧が急激に低下してキーンとした耳鳴りなどとなるが、現在では吸気塔から直接空気をエンジンに入れるために、ありがたいことにそのようなことがなくなった。


「ソナー手?」


「三つとも感なしです」


ソナー手は備えていたのだろう、テキパキと答えた。


「逆探手、レーダー手、用意しろ。手はず通りだ ……… 短波筒上げ」


静かなモーター音とともに短波筒が上がっていく。

いつも通り……逆探で10分、レーダーで5分、さらに逆探で10分。もちろんソナーはずっと探知している。


「逆探、感1、東北です」


「右感1、感、高まりつつあり」


発見からすでに6時間半、どうやら先回りができたことを知らせる。


「水雷長、攻撃用意を。予定通り4本とも準備をしておけ。航海長、計画通りに攻撃地点に移動するぞ」


艦内は急いで、そして静かに攻撃準備を整え始めた。


「短波筒下げ。速度12ノット、5分間。航海長、進路任せる」


海図に線を引いていた航海長が打ち合わせ通り攻撃位置に導くよう指示した。機関長は電池の配電板に取り付く。

後部より主機モーター音が高まった。




 日本だけでなく、他国も高速潜水艦に対する要求があった。

 イギリスは第一次大戦中に

 「R級潜水艦」

という潜水艦を12隻建造した。ドイツの潜水艦を攻撃して沈めるために特別に設計され、バッテリー容量と船体形状が水中性能に最適化されていた。水中速度は

 14ノット

かの第71号が潜水するまで破られることのない水中速度記録を樹立していた。Uボート対策のためにイギリスは数々の研究・実戦を続けるのであるが、

 「潜水艦対潜水艦」

という現在の予想的海戦(攻撃型潜水艦の先駆け ?)に匹敵することを考えていたことはさすが「変態兵器国イギリス」(ほめ言葉)である。ただ、この潜水艦については戦争末期に建造されたこともあって活躍した(一応浮上Uボート1隻に対して攻撃したとされる話もあるが、戦果は不明)という話もなく、ほとんど日本には伝わっていない。(後に「R級」と称する潜水艦がイギリス・アメリカで作られているがそれとは別物)

 そして以降、高速潜水艦の研究は成されていない。第一次大戦以降は平和を享受するために軍需費が抑えられていたこともあるが、かなりの戦果を上げたUボートの影響を受けて、Uボートをモデルとした潜水艦、そして更に船型の大型化(水上航行能力・航続力)への需要が各国で始まったからである。航空機の搭載、そして大型砲(!)の搭載……戦争に有効だと考えられたからこそ軍縮枠を設けられたので、その建造枠の中では高速潜水艦の必要性が考えられなかったのであろう。


 そして「七十一号艦」を経て、ドイツの

 「小型潜水艦V-80」

に到達する。戦間期では最高水中速度を記録している。

 水中速度 26ノット

水中排水量76トン(定員4人・武装なし)であるので、七十一号艦よりも甲標的に近い大きさである。


 この速度を発揮した要因こそが「ヴァルター」機関である。いわゆる閉鎖式機関であり、過酸化水素を触媒によって酸素を発生させ、外部からの給気なしでタービンを発動する。つまり電池式ではなく、水中でエンジンを無理矢理動かすわけである。

 ドイツは狂喜した。潜水艦の保有をベルサイユ体制(ベルサイユ条約以降のヨーロッパの国や軍備の状態)の下でゼロにされた恨みは多大なものがあった。この実験結果を受けてドイツはUボートXVIIB型・XXVI型に高温式ヴァルター・タービンを搭載し、通常型潜水艦の戦況的不利を挽回しようとした。しかし時既に遅し…… 戦場に送るには開発が遅すぎた。(終戦時に数隻が洋上に繰り出してはいたものの)


 現在、ヴァルター機関を使わないのはその欠点である。過酸化水素水はあまりにも不安定であり、機関自体の取り扱い自体が難しいものであった。(職人気質のドイツ人でしか使いこなせなかっただろう)第二次世界大戦後に、イギリス・アメリカ、ソ連はドイツ潜水艦を元にそれぞれ実験艦的なものを建造したが、安全性の問題と原子力潜水艦の開発の目処が付いたこともあってそれ以上の興味を示さなかった。


 つまり、「七十一号艦」は鉛蓄電池の通常潜水艦としては戦前、最速の記録を持っていたのである。




 「GSユアサ」という会社がある。


 現在の正式名称は「株式会社ジーエス・ユアサコーポレーション」と称する。日本ではトップの電池(正確には「蓄電池」)メーカーである。特に「鉛蓄電池」のシェアーは世界でも七位としている。(2011年度・ランキング1位は米国のクラリオス(旧ジョンソン・コントロールズ社))


 現在の潜水艦では原子力潜水艦が主になった。そして、いわゆる「通常型」では燃料電池やリチウムイオン電池の搭載が始まり、鉛蓄電池を使うことが少なくなったが、第二次世界大戦後のかなりの期間(原子力潜水艦の登場)まで、潜水艦の水中での行動では欠くことができないものであった。


 日本海軍の畜電池開発は、横須賀工廠電池実験部と民間の湯浅蓄電池製造株式会社、日本電池株式会社が当たっていた。

 現在でも電気自動車以外の車に載せられている蓄電池は鉛蓄電池であるが、今でも使われている理由はその利点である。

 ・主原料の鉛が豊富で安価な資源であること

 ・長い歴史の中で絶えず特性改善された高い信頼性であること

そして

 ・大電流で放電が可能であること

は、特にエンジンのセルモーターを回すために必要な要求であった。


 1859年にガストン・プランテにより発明された鉛蓄電池は、カミーユ・アルフォンス・フォーレの海綿状の鉛の板発明によってほぼ現在の形に繋がっている。


 日本の蓄電池開発はフランス・アメリカ(後にはドイツも)からの輸入品の解析から始まる。そして日本蓄電池の前身である島津製作所の2代目島津源蔵が国産の蓄電池を試作した。

 「GS電池」

という名で知られている鉛蓄電池は、民間に広がり、また日本海軍・陸軍で利用される。そして第一次世界大戦によってドイツからの鉛蓄電池の輸入が途絶えたことで、より国産化への道が開かれ島津製作所は大規模な工場を立ち上げた。その後、日本蓄電池という別名の会社となる。そしてユアサの前身である「湯浅蓄電池製造会社」が遅れた形ではあるが第一次大戦後に起業する。この二つの会社(現在は合併)が横須賀工廠と共に戦前の鉛蓄電池開発・生産の主流となる。

 その開発された電池の中で見落としてはならないのが甲標的に開発され使われた「特D型」鉛蓄電池、瞬間的な大出力・大容量のものである。224個が搭載され、20ノット以上の速度を発揮した。(この電池の開発によって名和武造兵中佐は海軍技術有功章を受章する)

 ところがこの電池は小型艇専用に作られているので、中・大型艦には不都合である。一つには数を増やさないと中・大型艦が速度を発揮出来ない。それぞれの電池を繋いでいかないといけないので維持管理・整備性も悪い。(伊201型原案では4176器の電池を36群に並列)もう一つには充電能力、時間がかかり再充電回数(80回(ちなみに一般的な一号十四型は400回))が少ない。その欠点を補うために、大型化し、充電能力を高める必要があり、「特E型」、「特F型」と改良が続き、伊201型で「特F型」(後にその改良型の「特G型」を後期量産型が搭載)を搭載することとなる。


電池とともに必要なものがエンジンとモーター(発動機、発電機を兼ねる)。


 水中高速を目指している船型であるので、水上速度はそれほど重視されていない。伊201型では日本海軍の中では珍しく「4サイクル単動ディーゼル」を採用した。発電機を回し、水上での速度を諦めるという割り切りである。(2サイクル複動ディーゼルは値段が高いこともある)ドイツのMAN社から小型艦艇用として購入、三菱重工業横浜船渠・川崎造船所でコピー生産を行ったが、小型・軽量の割に出力が高いものの構造自体が複雑で華奢なエンジンであり、三菱・川崎が共同で再設計したものが採用された。(海軍制式名「マ式一号改10型過給機付内火機械」)

 ここで日本海軍は他国の状況を勘案し、これまでの

 水上 ~ ディーゼル・エンジン

 水中 ~ モーター

の形を崩すこととなる。他国の「ディーゼル・エレクトリック方式」(つまりは現在の「(エンジン発電・モーター駆動形式の)ハイプリッド」)を採用したのである。このことは建造先行していた波200の状況(充電時間などを含む)と、伊201用に開発されていた2機の軸で一つのスクリューを回すためのギア(減速歯車装置)の開発が思うようにいかなかったことが挙げられる。海軍としても、ギアの開発を続けるとともに、時間がないこともあって直結する(できるだけ避けたい)のことも考えたが、ギアの開発を続けるともにディーゼル・エレクトリック方式での再設計を行った。すでに甲標的の改良型での採用を決定しており、以前より興味を持っていた艦政本部や技術本部電気部などの大幅な協力があり(大量の電池の充電時間短縮にも有利)再設計のついでに直線的な艦舷を艦中央部に最大幅を持つ(電池・配電盤などの整理に有効)船型へと変更した。


 現在、日本でのモーター生産はコンピュータ用のハードディスクドライブなどの影響もあり「二デック(旧名「日本電産」)」、車両用各種モーターの「ミツバ」などが売り上げ上位を占めている。そして「安川電気」・「マブチモーター」、ベアリングでも有名な「ミネベアミツミ」(満州飛行機の系列?)などが続くが、そのほとんどが戦後の企業であるのは、戦前に比較して大容量のモーターの需要よりも、小型・マイクロモーターが必要となったことが上げられる。

 歴史上、明治維新以降の電気の急速な普及(小さな発電会社が日本全体にさまざまに乱立した)の中で日立が明治43年に国産したのを始まりとする。まだ蒸気機関がその産業用動力の大半を占め、ガソリンエンジンの黎明期、ディーゼルエンジンが形もなかった頃に、スイッチ一つ(昔のスイッチは大きかった (*^▽^*))で動力として動くモーターはさまざまな場で使うことができるためそれぞれの工場ごとに発電施設が作られて周囲に売電していた。(発電機の故障・停電時のバックアップとして、先の日本電池は工場用にバックアップ電池システムをさえ作っている)大規模な発電施設は河川での水力発電所が設けられ町への送電が行われていたが、それぞれに小さな売電会社ができた時期であった。日本の工業化の中での一つの歴史と言えるが、それ自体、日本でのモーター利用の便利さに圧倒されていたことの証明になるだろう。(その後、それぞれの地域ごとに現在のような大規模な発電・送電会社となるには数十年の時間が必要となる)その後、産業の場でのモーター利用が増え続けて、関連の制御盤などのさまざまな関連機器の開発・生産が続く。


 伊201のモーターは海軍の技術本部が原型を作ったもので、改良・生産は川崎製鋼所電気部(旧鳥羽造船所電気部。以前より海軍の求めに応じて潜水艦蓄電池向けの全密閉型油冷式直流電動機兼発電機を開発・生産していた。現「シンフォニア」)に任せた。これまでの潜水艦用発動機は発電機を兼ねるものであったが、ディーゼル・エレクトリック方式にしたためにモーターと発電機を別々に搭載することとなる。


 生産が先行した波200はテスト艦的な扱いを経て、瀬戸内海や日本海などで熟練・実戦訓練を繰り返していた。新機軸のオンパレードであったために不具合が続いていたが、

続く波201級と伊201級への改良示唆となったことも事実である。

 その波200の初陣は昭和17年である。


 すでにその原型とも言うべき甲標的は、開戦時の真珠湾攻撃(先だって潜入したものの全没・戦果なし)で遂に知られることとなり、マダカスカル島、シドニーへの港湾潜入攻撃も行った。本来洋上決戦のために作られており小型艇といえどもその大きさが徒となったこともあって、英戦艦ラミリーズへの攻撃成功(これ自体は大したものではあるが、日本海軍のインド洋の戦いは既に終わっており、戦争の流れの中ではイギリスへの嫌がらせ以上のものではない)以外、その損害の割に(しかも秘密兵器を晒し鹵獲される)際だった成果を上げていない。中太平洋上での決戦参加に否を出されたための組織的延命処置ともいうべきかもしれない。

 洋上での戦闘訓練こそ長く続けていたが、港湾に入り込む訓練などはその頃生産・整備が行われていた50隻余りの甲型(うち8隻が乙型に改装)搭乗員の中で港湾潜入訓練など1割程度しか経験していなかったのだから、だいたい難しい作戦だったのである。


 そこに契機があらわれた。それは「幸運」ではないだろう、なにせ日本の占領地をアメリカ軍が始めて逆占領したのである。「ウォッチタワー作戦」として知られるガダルカナル島を中心とした南太平洋での戦いである。(その後のガ島を巡る戦いは、それぞれの戦果・損害のわりに、その後に繋がる戦いであったかと言うと首をかしげる。連合軍の南太平洋の安全を保証したもの(マッカーサーのニューギニア島からの北上作戦には役立ったかもしれないが、米海軍の中太平洋での作戦にはさほど効果はない。せいぜいがラバウルの無力化に繋がる程度である)ではあったが、どちらかといえば互いに「メンツ」を賭けた戦いとも言える)


 航空戦を中心とした戦いが続く中で、甲標的(乙型が主)が投入される。母艦「千代田」はラバウルまで進出し甲標的の整備工場・情報提供・作戦司令艦を務めた。ここでの作戦は、ねらいが敵戦闘艦ではなく輸送船になったことがこれまでの甲標的の運用上の変化である。しかも二本の魚雷を1隻の輸送船に使うことを推奨された。(潜水艦戦において、これまでは輸送船に対しては一本の利用しか許可されていなかった)

 哨戒艇2隻・一等輸送艦1隻・潜水艦8隻に搭載された12隻の甲標的は、米軍輸送船が足を止めるルンガ泊地へと投入され、10月の第一次攻撃・第二次攻撃により、未帰還艇3隻(中途帰還艇2隻)によって輸送船7隻、駆逐艦1隻・哨戒艇1隻を沈没させた。更に11月の第三次攻撃では波200も併せて15隻が攻撃を加えて、輸送船10隻、駆逐艦1隻を沈没させ、軽巡1隻を小破させる戦果を上げる。


 乙型は発電機の搭載もあって、2日間の行動時間と300 浬の航続力があり、海底に鎮座したままに攻撃のチャンスをうかがうことができた。また水中での充電を可能にするために吸気筒(シュノーケルの一種)も水中での行動の自由度を増していた。

 波200はその大きさもあって、オーストラリア・ニューカレドニアからガ島へと向かう航路を中心として活動し、輸送船3隻沈没・2隻大破の戦果を上げ、高速水中速度で駆逐艦の攻撃を免れることとなったが、昭和18年2月に航空機の攻撃を受けて沈没した。しかし、それまでの戦闘報告は次の高速潜水艦の戦訓として大きく役立つこととなる。




 海軍は甲標的や実験艦の延長とはいえ波200の戦果にこれから続くであろう米軍の攻撃に対して、防御的武器しての価値を見いだす。また、損害が増大していた潜水艦の対抗策として続く波201と伊201に期待を持ち、その開発・建造のために邁進することとなる。




いかがだったでしょうか?


不十分かなぁ? とも考えましたが、ここまでの筆力しかない僕自身を恨みます。


今回の話は

かなり書き直しを繰り返しました。

それこそ、電池の発明からモーター・発電機の歴史を組み込もうと考えましたが、長くなりすぎたので泣く泣く諦めました。

江戸時代の発明家(笑)の「平賀源内」や、幕末の「からくり儀右衛門」の話を絡めたかったのですが、とっちらかってしまいました。どこが使いましょう(無理かな?


では、最終章までしばらくお待ちください

(半年後とはいってない)




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