高速潜水艦を投入せよ その1(甲標的と七十一号艦)
皆さん、2ヶ月ぶりです。
ちゃんと生きてます。
どうも自治会の仕事に振り回されてましたが、なんとか忙しい時期が終わりました。
(体調も悪かったのですが、とにかく会合が多い 泣)
さて、今回は
「高速潜水艦」
のお話です。
では
お楽しみください。
「樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、
それは果実だと誰もが答えるだろう。
しかし実際には種なのだ。」
ニーチェ
◇ ◇
「逆探、感1」
伝声管からの報告があった。
「方角は?」
「アンテナ位置からは南方面かと…それ以上は無理です」
いくつかのやり取りの後で、潜水艦長からの指示がある。
「よし、南に艦を回すぞ。アンテナ収納、急速潜航準備」
「見張り員、よろしく頼むぞ」
本日の哨戒長である航海長は見張り員に声をかける。スルスルと高く伸びていた逆探とレーダーアンテナ(こちらは発信していない)を付けた短波アンテナが艦橋構造物に収まっていった。ディーゼルのくぐもった音が大きくなる。
「聴音機、前感2、右感1」
「エンジン停止、急速潜航」
未だ見張り員は見つけてはいなかったが、その声とともに艦橋上部で見張りを続けていた数名の兵員が次々とハッチに飛び込む。海流や海温のためか時折かなり遠い音が聞こえることを乗員は経験的に知っている。最後に航海長がハッチを閉める頃になると、艦橋の基部に波が当たっている音が聞こえた。甲板はもう海の中かもしれない。すでにエンジンは止まり、給排気弁の閉鎖完了を緑のランプで知らせていた。
これからはベント手と操舵手の力量の見せ所であった。
「深度10、舵戻します」
「前部タンクより後部に移せ、50」
いくつかの復唱が続く。
「深度10、速度2ノット、安定しました」
「潜水艦長、指揮願います」
ここまでは哨戒長の仕事であり、潜水艦長に指揮権を渡す。
「よし、潜望鏡を上げるぞ」
潜水艦長の小さな声が、それでも指令室全員に響く。
ほぼ真ん中に備えられていた航海用潜望鏡を覗きながら、ぐるりと周辺をうかがう。そして上げて10秒もしないうちに潜望鏡を降下させた。
「ソナー手、状況は?」
「前感3、右感1、反応6以上、2軸、タービンです」
「うん、ここからだと二隻しか見えんかった。駆逐艦2…あとは分からんが…」
潜水艦長は副長でもある水雷長としばらく相談をしていた。もちろん狭い指令室のことであるので、周囲にも聞こえている。
そして一つの作戦が練られた。といってもこれまでの襲撃方法を多少変更したものに過ぎない。敵の進路に先回りして、攻撃を加えるだけだ。しばらくは我慢の時だ。
「甲標的」という、特殊な潜水艇がある。
小型の潜水艇…というならば、ドイツ・イギリスやイタリアなどにも存在する。「ミゼットサブ」とも称される。
いわゆる潜水艦(潜水艇を含む)を戦争の場に引き込んだのはアメリカの「南北戦争」に遡る。1864年、南軍(手回し人力!)潜水艦ハンレー(「ハンリー」とも・重量(排水量ではない)約30t)が北軍木造帆走艦フサトニックを撃沈した戦いが潜水艦の始まりと言える。何せ魚雷が未登場の時代、槍状の爆薬(スパートーピード 炸薬量約40㎏)を突き刺して爆発させたわけである。(ちなみに作戦成功後に乗員全滅)
実用的な魚雷の発明によって、潜水艦は次第に大型化の道に進む。そして第1回目の潜水艦時代を迎える。第一次大戦である。ドイツのUボートは実験的な潜水艦を実戦的な戦闘できるものとして改良に改良を重ねた。その結果としてイギリスを干上げる寸前まで追い込んだことはその後の潜水艦の進歩に大きな足跡を残した。
では、小型潜水艇は無くなったのか?
否
イタリアでその存在を示していた。第一次大戦時、イタリア海軍が開発したイグミナータ(ほぼ魚雷に操縦装置を付けただけの存在)は、1918年11月、ポーラ(プーラ)港 (クロアチア)でオーストリア戦艦V・ウニーティスを撃沈。その後も第二次大戦にその改良型を実戦投入している。
イギリスはその情報を得て同様の現在で言う「水中スクーター」に限りなく近いものを準備し、実戦投入を行っている。後に「X艇」と呼ばれる艦内にフロッグメンを乗せて、長距離の攻撃(なにせ「水中スクーター」は30分程度の行動力しかない)能力を持つものとして期待されて開発された。この潜水艇の活躍の場としてティルピッツへの攻撃が挙げられる。
ドイツの小型潜水艦は沿岸防御のために(外部)雷装仕様で作られたものであり、特に戦争後半に連合軍の上陸作戦時に多用されたが、その戦果は投入された艇の数からいっても芳しくない。
いずれにしても「甲標的」とは用途も能力も異なる。
甲標的は、ワシントン・ロンドン軍縮によってその軍艦比率の不利さを少しでも埋めるために作られた(「陸攻」もその一つである)もので、他国の「サブミゼット」との差は、
・洋上戦闘能力
・高速性
にある。
戦力差を埋めるために出されたさまざまなアイデアの中で、横尾敬義予備役海軍大佐の提案した「魚雷肉攻案」(ほぼ「回天」と同様なもの)があった。さらに志波国彬大佐の案に母艦搭載の超小型潜水艦の着想があり、より実用的なもの(生還可能なものとするため)とする小型の潜航艇から魚雷を発射する計画が採用された。
艦政本部第一部第二課長威岸本鹿子冶大佐は朝熊利英造兵中佐に、
速力 30 ノット、航続距離 6 万メートル程度の有人小型潜航艇
の研究を命じる。(速力の根拠は、米戦艦速力(20ノット)の 1.5 倍であり、航続距離は砲戦決戦距離(30,000メートル前後)を基としたもの)
ここで注目すべきなのは、その水中速度である。その頃の潜水艦(潜水艇を含む)の水中速度は5~6ノットでありせいぜいが10ノットに過ぎない。そんな中で30ノットを目指したということは画期的であったことだろう。
実際の実物試験では、A標的(試作品)が無人海上航走試験で24.85ノットを記録。潜航時の速度は正確には伝わっていないが24ノットを発揮したとされる。但し、より実戦に作られた甲標的の場合水中速度は18ノット程度に低下したものと言われている。
しかし、この特別な潜水艇は「魚雷」を原型として(開発に潜水艦関係者が一切関わっていなかったという日本的縦割り行政の悲しさを感じる)おり、さまざまな試作上の不備を解決出来ないでいた。これにはこの「甲標的」が秘密兵器過ぎて、他の部門への開発時の広がりを見せなかったことがその原因であろう。しかも、この「甲標的」の構想をもとにその母艦たる「千代田・千歳・瑞穂・日進」が建造に入る。ほぼ見切り発車的な建造であったのは否めないだろう。(ちなみに、「㊀金物」「対潜爆撃標的」、「A標的」、「TB模型」等の秘匿名称が用いられたが、最終的に昭和 14年に「甲標的」とされた)
昭和8年より建造された試作艇は不満の残るものであるが、それでも秘密の壁の中にあった。有人試験の後には呉の秘密倉庫に収められたままである。
・縦横の動揺がひどく安定した航走ができない
・電池のみの航続能力の低さ
・旋回距離が長い
・魚雷発射時の動揺が激しい(トリム調整の困難さ)
・潜望鏡で目標を捕捉することが困難で、常時司令塔を露出せざるをえない
・潜望鏡以外に敵艦を補足することができない
などさんざんな欠点が指摘されている。この指摘は「甲標的」が魚雷の延長線上にあることからの指摘でもある。上記に述べた開発に携わった方々のほとんどが「魚雷関係者」であり、「潜水艦関係者」ではない。問題の大きなものは秘密主義と縦割り行政の弊害とも言えよう。
4隻の甲標的母艦は、そのディーゼル機関の不具合もあって建造こそ進んだものの、実戦に投入するには時間がかかっていた。その「時間」を無駄にすることはできない。艦政本部第一部第二課は二つの機関にその解決策を求めた。一つは潜水艦開発の総元締めたる艦政本部第七部である。
「こんなのを勝手に作っていたのか?」
とは、あきれ果てた職員の独り言である。あまりにも独善的で、自分の理想を追求する余りに周囲を見えてない結果にあきれ果てていた。
確かに「高速水中潜水艦(艇)」については第七部でも考慮し、開発を進めていたが、水中での運動をまるで考えていないことに怒りさえ感じていた。ちなみに旋回には戦艦並みの距離が必要となっていた。魚雷を基本形としているにもかかわらず
「推進部の後方に舵を置くだけでも…」
解決出来ることに、開発陣は気づいていない…
ことに対してである。
もう一つの解決のための機関が海軍工作学校である。
「これだけ高速ならば、その機動に関しては飛行機と同等である」
海軍工作学校教官の浅野卯一郎機関少佐は水槽での実験ではなく航空機と同様に風洞での実験を重視して、その水中抵抗・機動についての実験を行った。その結果として、適切な船型を出すと共に、「水中翼」の提案を行った。艇の中央部に大型の水平翼を置き、そのフラップによって艇の降下・上昇の速度が急激に上がった。また、操縦桿とフットバーによって飛行機と同様の操縦(前後水タンクによるトリム処理は艇付と言われる操縦手ではなく艇長が行うが…)ができるように提案した。これら、いわば「水中航空機」としての扱いを浅野少佐が行ったのは、艦政本部などの大規模な組織と比較して、工作学校のより実戦に近い場での教官同士の自由な交流の雰囲気があったためだと考えられる。
・電池能力の向上
・船型の水中抵抗力の低下
・水中翼の設定
・操縦装置の航空機形式の導入
・舵面積の増大・取り付け位置の変更
・(水上航行)充電のためのディーゼル機関の導入
・水中での充電のための水上吸気口(シュノーケルの類品)
・簡易水中聴音機の設定 など
これらの改修によって、速度や航続力・運動性の向上が行われ甲標的はより実戦に耐えうる小型潜水艇となったものの、やはり「洋上決戦」での行動能力には疑問がつき、甲標的は港・泊地攻撃、そして沿岸防御の兵器としての運用を考えられ、最初に想定されていた
「洋上での艦艇攻撃は難しい」
という判断が成された。せいぜいが50トン(改修後は65トン)程度の小型潜水艇が洋上を思うがままに動き、攻撃できると期待したことが原因と言えよう。
「甲標的」は改修後に乙型(それまでの電池のみのものを甲型とした)と称し、この艇の行動能力が2日間となったこともあって、搭乗員の負担軽減のために3人乗員としてものを丙型と称した。これらの量産はのべ60艇余りとなった時点で次の改良型になるが、これらの艇はハワイ・シドニー湾・ディエゴスアレス湾(マダガスカル島)への泊地攻撃を行うと共に、ガダルカナル島を巡る戦いで周辺の米軍泊地に攻撃を加え、輸送艦や駆逐艦に被害を与えたことは余り知られていないものの泊地攻撃・沿岸防御兵器としての役割を果たしたものと言えよう。
それが高速潜水艇のおかげかとは考察の余地はあるが、少なくとも現地では
「それなりに使えるもの」
という評価をもたらせ、次期の
甲標的丁型=「蛟竜」
の開発が進み、中太平洋・フィリピンの戦いの中で防御力の一端とされた、そしてそれなりに戦果を上げたことがその影響といえるかもしれない。
艦政本部第七部は、これら甲標的の情報を得た上で新たな高速潜水艇を実験艦として建造を決定する。簡単に言えば
「あんなできそこないではなく、専門家である我々が作れば…」
ということである。
「七十一号艦」
と呼ばれるその艦艇は、改良型甲標的の構造・形状を踏まえて、より良く改良を重ねた沿岸防衛用の小型潜水艇として計画された。甲標的より洋上での戦闘も考慮した結果、最低限の排水量も2倍以上(基準195トン)になりかの甲標的母艦への搭載は原案の段階で見送られた。
七十一号艦は秘密裏に建造されたこともあって、他部門を交えずに艦政本部第七部のみでの開発、呉工廠での建造となり、その結果としてさまざまな困難さ(自己実現を急ぐあまり)が建造時に起こった。その一つが水上運行用のディーゼルエンジン(ドイツのDB製航空用ディーゼルエンジンを搭載予定)が入手できず、国産のディーゼルエンジンを搭載することとなったことや、ギアの不具合が続きエンジンやモーターにスクリュー軸を直結することとなったために計画された能力を十分には発揮できなかった。例えば計画された水中速度25ノットは公試実計21.3ノットであった。しかも予定されていた運動性能等の向上は思った以上に良くなく、特に安定性(前部ブロータンクのみという甲標的から続く様式が欠点ともいえる)や航洋性が不足していた
艦政本部第七部の困惑はやがて諦めとなる。しかし水中高速性能は望ましい。他国が持っていないということはアドバンテージとなる。自分たちではできないのならば周囲を巻き込もう…ということもあって
「改七十一号艦」
が計画された。そのために、潜水艦建造に携わっている三菱神戸と川崎の両造船所とともに、海軍工作学校教官の浅野卯一郎機関少佐も招き入れられ、
・水中速度25ノット・水上速度15ノット
・500トン以内の水中排水量
・15名以内の乗組員
・行動能力 5日(行動半径1500海里)
・魚雷発射管2門・魚雷数4本
という基本的な構想が練られた。結局、太平洋という戦場においては泊地攻撃以外の洋上攻撃を行うためにはこの大きさが最低限必要だとされたのである。
水中性能を最大限に引き出すように設計されていた船形は、これまでの浮上時の航行性を無視し、魚雷型というより基本的には葉巻型と呼ばれるものに近く、全体的にはふっくらた「へら」の形状と言える。尾部に設置された一軸のプロペラ(最初は二重反転プロペラを計画したが、ギアのために断念する)は大きな4枚羽根で構成されているが、その前方に設置されている十字の舵は効きを良くするために、20種以上の模型による水槽・風洞実験が繰り返されて適切な位置と形状を決定した。そして中央部に水中翼を配し上下(潜行・浮上を含む)運動の向上を目指した。
この船以降の日本海軍潜水艦・艇は全溶接船体構造、ブロック建造方式による量産性を高めるのであるが、この船に関してはそのテスト的(全溶接船体構造に関してはすでに始まっていたが、ブロック建造方式は初めてのことである)建造が成されることとなり、設計もそれを前提として行われていた。ちなみに、建造には単艦一ヶ月、潜用建造施設による並行建造によって一ヶ月に3隻以上の造船を計画していた。
水上用機関は「マ式一号10型過給機付内火機械」であるが、この機関は軽量・高出力の代わりに華奢で、量産には不適当なものだったために、三菱重工業横浜船渠と川崎造船所で量産に適した改修がなされ、後の量産型に搭載され「マ式二号10型過給機付内火機械」と称された。(またこの機関だけでは高速潜行のための十分な電池充電がなされないとされたために充電の時間短縮のこともあって、後続艦では専用のディーゼルエンジンが搭載された)いずれも単動4サイクルであり、後に述べる水中充電装置のためには有効なものであった。
水中推進用のモーターはそのころやっと実用のめどが立った特F型電動機(1550馬力)が搭載された。艦型の小型化のために低速(巡行)用のモーターは搭載されていない。そのためにモーターとスクリュー間にギア式の減速装置を設けることになった。しかし、この装置は騒音問題を起こす。研究会は解決のために他社に協力を求めある程度軽減はされたが高速時の騒音からは逃れられず、巡行時のみの装置利用とされ高速時は直結した。
このモーターを動かすために甲標的用に開発された特D型蓄電池を搭載。(但し、この蓄電池は耐久性や寿命の問題があり整備に手間がかかったため、改良型の電池開発が続いた。電池については別述したい)
乗員を少なくするため取られた方策は幾つかあるが、艦の操縦はその最たるものである。甲標的にも用いられた航空機操縦方式によってツリム手とともに2名あれば水中での活動ができるものとした。また、簡易の自動懸吊装置(水中で自動的に深度を一定にするもの)や魚雷用の深度器と揺鐘式横舵機を利用した自動操縦操舵を採用し負担軽減を図っている。
「こりゃ天国みたいなものだなぁ」
とは、甲標的から「改七十一号艦」の公試のために派遣された兵員である。なにせ新型の潜水艦と同様、エアコンが完備しておりトイレも付いてる。船体が小さいこともあって二人に一つではあるが寝台が与えられて(艇長室はないが士官は専用寝台)おり、調理室自体はないものの電気式レンジが備えられ茶や温かな汁物程度は出すことが可能であった。食事自体は缶詰と即席麺・即席飯が続くのは甲標的も同様であるが、一杯の汁物が付くだけでも士気の安定には必要なものであったろう。
公試は比較的順調に続いたものの、
・最大水中速度 19.5ノット
と20ノットに及ばなかったのは、「せっかくだから…」と後付けのように詰め込み過ぎな日本的計画性のなさもありえる。
「せめて2000馬力あれば」
後付けであるが、そう嘆く関係者が多かった。
ほとんど知られていない高速水中航行については無理した設計であったこともあって、不安定さも未だ見られ、また洋上運航のための最低限の大きさということもあって一応の戦力として期待出来るもののより高速により大きくという意見が出たのは致し方ないものだろう。この船は
「波200号」
とし一旦採用され、実戦化への道を探るとともに、次期作のテストベッドとして試験が繰り返された。
そして
開戦を迎えた。
いかがだったでしょうか?
今回はほぼ戦前の話で終わりました。
「(ボクの考えた最強の 笑)「波201」型」
をなんとか間に合わせようと考えた次第です。
まだ話は始まったばかりですし、シュノーケルとかモーターとか電池とか電池とか…の話を十分にしていないことに気づきます。
また間隔が空くかもしれませんが、ダラダラとお待ちください。
ではでは。




