空母用カタパルトのお話 その1
皆さん
こんばんは。。。
新章です。
『航空母艦用のカタパルト』
に話を持って行きます。
最初、コラム記事のように書いてみたい…と考えて書き始めたのは良いですけれど、「これじゃない」感が…
とかいろいろと書きながら遊んでしまいました(*^▽^*)
ポチの書き方を出しつつ、とりあえず最後まで書き上げたいと思います。
では
お楽しみください。
「レッコ(甲板から捨て去る)!」
メラメラと燃える機体。飛行甲板が焦げている。穴が空いた甲板から次第に黒々とした油の焼ける煙が……最初は少なかったが、どんどんと広がっている。
数名の兵が燃えてない箇所に取り付き、ずるずると引きずろうとしていた。車輪が付いているとは言え1トン近い機体だ。
「消火器はまだか?!」
「い、今!!!」
転がるように小型消火器を抱えた飛行甲板要員は火が付いたままに引きずられ押し出されている機体にその白い液体を吹き掛けた。火は一瞬小さくなる、しかし艦の動きで吹く風にまたもや勢いを増そうとしていた。やがて車輪付きの大型消火器が到着し、数名の兵が消化器に取り付いた。
そして数分後、甲板から1機の複葉機が転がり、そのエンジンの重さにかズブズブと海面から姿を消そうとしていた。胴体内の浮子はすでに何の役目も果たしていないようだった。
格納庫の火は煙の勢いより小さかったのだろう、既に鎮火させられ、火が付いていた機は消されるか、廃棄された。数本の放水ホースがすぶ濡れの甲板を蛇のように塞いでいるが、どのくらい今回の火災のために役立ったのだろうか?
ほんの一瞬のことだった。地上支援のために迎撃に出た戦闘機部隊が、上海沖を遊弋していた艦隊を離れ、一仕事終わって要員たちは一息を付いていた。最初の頃はピリピリしていた各艦の見張り員もこれまで10日以上も敵機の陰を見なかったことに多少は気を緩めていたかもしれない。B10らしい双発機が2機、通り過ぎたかと思うとバラバラと小型爆弾を浴びせ、そして姿を消したのだ。
「えらことになるぞ……」
上空には待機している航空機が旋回しながら母艦を見守っていた。
今回は
やや趣向を変えて
「ホントのところ、もしも空母用カタパルトを設置したとして、どのくらい影響を与えたのか?」
についての考察しながら、ポチの文章作りを確認してください。
空母用カタパルトをIFしようとして、幾つか考えると
(まぁ、その前に「カタパルト」に目を向けることがあったのか? ということもありますが、今回は無視します)
・いつ(あるいはいつまで)実用化させるか?
・そのきっかけとなることがないか?
の二つがまずは悩みのタネです。
現実はウィキさんによると、加賀に
「1941年9月末に極秘裏にカタパルトを搭載して射出実験が長崎沖で実施された」
とあります。
これが上手くいったとしてもすぐに開戦ですからドック入りでもしないと他の主力艦には新造艦(隼鷹級は時期的に微妙かな?)以外は搭載出来ないですよね。そうするともっと前に試験・実用化に向かわなければなりません。できれば開戦時に6隻+アルファーが搭載していることが大切です。(特に小型空母)ならば何をきっかけとして前倒し出来るか? という結局その問題に陥るわけです。
これについては、実は二つほど考えられます。
一つは山本五十六様です。と聞いて「はは~~ん」と思った人は静かに手を叩きましょう。(先生はうるさい人が嫌いです 笑)
航空本部長時代、その影響力を持って日本海軍の航空技術向上のためにも重要な働きをしているのは確かです。ただ、この方、いろいろと調べていくとホントのところ航空機に対する理解があるのかどうだか分からない人(個人的には「航空機=砲弾・魚雷」みたいに考えてるのかも? と思うのですが…)なのです(まぁ一番の反論者が源田実様という点で、それ自体もホントかよぉ? と考えてしまいますが……)が、それはさておいて航空機の発達に伴う機体重量増大に空母の発着艦が難しくなり始める中で、航空機の諸元を押しつけようという勢力に対して
「母艦発着甲板の方を長くせよ」
と言い放ったのは、蓋し名言だとも思います。以前から述べているようにこの時代の航空機の発達速度はすさまじく、1年たったら旧式な理論・構造となりましたので、
「航空機に空母を合わせる」
ことって乱暴そうで実は理にかなっていたわけです。まぁ現代の目で見れば…なのですけれど、空母自体もこれら戦間期にいろいろと試されてます(「三段飛行甲板」は男の子が喜ぶドラマであるだけで、机上の論なのに実現化した日本海軍って… アホか?(褒め言葉))ので、日米で検討された航空巡洋艦とかアメリカの「卵と籠論」とか、とにかく面白い時代です。時折考えますけれど、
「この時代の技術者に生まれたかったなぁ~~」
みたいな?(英語が苦手なので無理だろうなぁ~~ 泣)
このあたりでなんとかカタパルトを押し込めようとすることはできないことはないよなぁ~~などと妄想したこともあります。これが昭和7年のことです。
もう一つは上海事変です。上海事変は陸上戦闘がいろいろと語られてますが、第一次上海事変時(昭和8年)、海軍は艦隊を派遣してます。「加賀」・「鳳翔」と軽巡3・駆逐艦4という堂々たるものです。更には第二次上海事変時(昭和12年)には「加賀」・「鳳翔」・「龍驤」と、その頃に稼働可能な空母を集中させています。
空中戦も行われましたが、ここで
・中国軍の艦隊への空襲がもしもあったら?
そして
・空母が傷つけられたら?
そんなIFが考えられます。(できれば第一次の頃が時期的にも嬉しいですね)
で、とりあえず荒々しいながら、文章始め(初め?)の部分になります。
艦政本部は慌てるでしょうね~~ 艦隊側は「叱咤されるのは当然として、巻き込もう」とも考えかもしれません。(日本人的責任転換? 苦笑)この時の司令・艦長は誰だったかなぁ~? などと調べていくとここで幾つかのエピソードを発見したりもします。有効ならば組み込みます。
海軍は同じ問題を繰り返さないように(というか、責任を誰にひっかぶせるか? かな?)「(臨時)調査委員会」を組織することでしょう。さて、これらを踏まえて
・敵機の早期発見の手段・連絡の手順
・カタパルトによる護衛機の促進発進(風上に艦を向けなくて良いように)
・艦から航空機への連絡方法(無線電信・電話 など)の改良
・被害時のハード(放火設計・設備)・ソフト(内務科の働き)双方の検討
あたりを出すことができたら、筆者としては有り難い。次にスムーズに進めます。
まぁそうは行かないのが「調査委員会」だろうとも考えます。確かに原因は見つけることができるでしょうしその対策も立てられるでしょう。なにせ「頭がいい人たちの集まり」ですからね。しかし結局は政治的な条件(「お山の大将」的権力争い)があります。前述の「排気タービン過給機」でも蒸気タービンの部分で軍令部と艦政本部の争いを述べました(実際に起こっていることですよ)が、これに上海派遣艦隊司令部が加わるでしょうから三つ巴の争い化するのは必然でしょうね。そして誰か(何せ上海事変ですので海軍内部だけとは限らない)がそれぞれを後押しする…… 下手をすれば「自殺者」が出るかもしれません。
ここでちょっと寄り道。
このように考えていくと、カタパルトの問題だけでなく、
・レーダー
・無線機
の二つの派生的文章を組んでしまいます(笑
これはやばい…… また長々と書いてしまいそうです。実際にレーダーと無線機についてはどっかの機会に書きたいと思っていますが、またまた離れ続けて収拾が付かなくなる可能性がありますね。
「排気タービン過給機」の時に広げまくった風呂敷を畳まずに終わった僕を許してください(泣 ホントは陸軍の装甲板やら大砲やら弾体などの話もふくらませたかったし、ディーゼル機関車を前倒しで採用させたり、かの三菱のディーゼルエンジンの活躍の場を設けたかった…
え? 飛行機どこ行った?
になりつつありまして泣く泣く諦めました。どこかで派生的な文章(外伝的な?)を書くかもしれません。
さて、やっとカタパルトの開発です。
艦政本部が主な開発の場となるでしょうが、これで終わりたくない(真剣
どっかの会社を絡められないかと考えてしまうのが僕の悪いところですね。と書くと…もうお分かりでしょうが「萱場製作所」(現在のKYB)です。萱場製作所についてはどっかの機会で詳しく書く予定があるので詳細は省きますが、とても面白い会社ですね。(せひ社長は登場させたいですし、全翼機「カツオドリ」がらみで、かの日野少佐を登場させたい! 熱烈願望!!)
ちなみに、バイク・自動車好きな兄から「カヤバ」と聞いた小学校時代の筆者は「カバヤ」と誤解してました。(だって知らなかったもん…「ジューC」はよく遠足に持って行ったなぁ~、「塩分チャージタブレット」はお気に入りでリピ買いしてます)
カタパルトに関しては二つの「萱場案件」があります。
一つには
・水上機用の「バネ式」カタパルト
もう一つは戦前から想定されていた陸軍の「秘密兵器」(秘密のままに終わった…)
・ケ装置
です。
ちなみに「バネ式」とここでは記しますが、KYBの社史によると「油圧式」ともあります。(あれ? どっちが正しいの? 調べるとやはり「バネ式」ですね。特許で分かりました。「中川国際特許事務所」様、ありがとうございます 感謝)
またケ装置は「陸上移動空母構想」(ここで「エリア88」を思い出した方は 故 佐伯かよの様のために合掌しましょう)と一部で捉えられてますが、正確にはカタパルトと横牽制動装置を陸上基地で使い飛行機を前線基地でも短時間に使えるようにしたモノで、日本の土木関係が「人力」に頼ったことから始まっていますね。詳細についてはいつもの文章ならば載せますけれど…。(ネタとしても面白い。書くのならば海軍のRATOやベトナム戦争時の米軍も入れちゃおう!)絶対にIFしちゃいます(頷き
ここらで、艦政本部とかいろんな会社を登場させて、喧々ガクガクの会話を織り込みましょうか… (〈読者〉そんな展開、好きですねぇ~? 〈筆者〉貴方もでしょ? 笑)
で、萱場はとりあえず置いていて、「油圧」とか「コンプレッサー」とか「ワイヤー」とかの関連会社の中で戦前からある会社を確認します。そして使えそうならば公表させてもらいます。(万一、同会社に勤務されている方がいらっしゃったらすみません)これまでも伏せ字もなく会社名を出していますが、
「戦前から、頑張っていた会社がこんなにあるんだよぉ~~!」
と、現代の日本に繋がることをぜひぜひ知ってもらいたい思いがあるのです。
例えば「田邊空気機械製作所」という会社が大阪にあります。大正10年に発足してます。使えそうですね…(うんうん 昭和8年に船舶大型コンプレッサの開発・製造開始と沿革にあります。高圧コンプレッサーも戦前に手がけてますね。現在の主力製品は? なるほど、ますます使えそうです。(と言っても、専門家ではないのでいくら数値を出されても… ですけれどね)他にもコンプレッサー関連会社だけで
・明治機械製作所(大阪)創業1924年
・アネスト岩田(横浜)創業: 1926年
・三井精機工業(埼玉)創業: 1928年
・コガネイ(東京)創業: 1934年
などの会社も候補として、もちろん会社の沿革とかウィキさんとかいろいろと調べます。創業者については、なるべく調べます。(精神論ではないですけれど、その会社の意気込みとかは結構参考になったりします)現在の会社の規模は余り気にしません。つぶれた会社は、何かしらの資料にあった場合は調べ続けます。(例えば「叭号」の野沢航空機については関連の本を購入してかなり調べました)今回は海軍絡みですので、艦艇・船舶関連の仕事をしているかどうかは結構大切になります。何の手がかりもなく海軍から手を差し伸べると言うことはあまりないでしょうから…
そして狂言回しに若手の海軍の技術中尉あたりを登場させてIF話を入れちゃいましょうか?(実在した人の中で使えそうならば使います)
一昨日は東京、今日は大阪かぁ…
ふっとため息しながら駅に降り立った。官製のコートは思ったよりも厚いが、この寒さには耐性はないのかもしれない。
ここ一ヶ月近く、横須賀の下宿に戻ったのは着替えを取りに行った程度だ。
温かい飯…それだけでご馳走に思え始めている。もう握り飯と駅弁はうんざりだ。腹は膨れるけれど、気持ちが膨れない。
「うちで用意しても良いですけれど…」
という萱場の技師の声に多少の喜びも感じていたが、できるだけ「裾野」は大きい方が良い。数年後の「軍縮終了」を目指し、できるだけ…というわけで大阪に来ている。
「わざわざ東京からすんまへん」
工場が隣接しているために、機械の音が小さくても響く応接室で応対する社長と工場長。出されたお茶はぬるくても有り難かった。身体ではない、心が温かさを欲している。
「要求の数値は…ちょっとややこしいですけれど、たぶんかめしまへん。時間もいただけるやったらやけど。けど…」
耐圧力値・ボンベ量値・最低圧力までの圧縮時間など、既に知らせていたものである。最終的な「要求値」は、この話し合いでなされる。
「1分以内に空の状態からボンベ満タン…って、コンプレッサーがめっちゃおっきくなりまっけど?」
分かってる、分かってる。艦政本部と工学・物理系の大学関係者、そして萱場製作所が協議した時にはもう少し現実的であったが、そこに航空本部が口を挟んだ結果の数値なのだ。打ち出す「航空機の重量」が推定値の倍になってしまい、そして間隔がかなり短くなったためなのだ。
「理想値、というと語弊がありますが、できるだけ値に近づけていただけたら…と判断してください。なにせこの装置自身が初めてのことですから、私としてもとりあえず試験できれば良いと考えてます」
多少「特別感」を出すために言葉を選んだ。
「うちことではディーゼルエンジンを動力として考えてまっけど、宜しいでっか?」
しっかりと考察されたのだろう。技師を兼ねるらしい工場長が尋ねる。関西には小型・中型のディーゼルエンジン関連の会社も多いことを思い出す。
「ええ、ディーゼルで構いません。他の動力が必要ならばこちらでまた検討します。とりあえずコンプレッサーに全力を注いでください」
話し合いは終わった。細部の煮詰めも申し分なかった。互いに技術が分かっている者同士、立場は違っても有意義な話し合いになった。正式な契約はまた上の方が出向くだろうが、とりあえず終わった。
会社の門を出ると、まだ汽車には時間があることに気づく。
「温かいものを腹に詰めたいなぁ~」
飯テロです(笑 たぶん中尉は「けつねうろん」を食べたことでしょう(うん
筆者の大学は関西でしたけど、大阪弁変換って…何か変ですね。。ネーティプな人には「アホ」と言われそうです。なので、これまでの文章では方言をなるべく出さないようにしてます。
そう言えばよく「標準語」ということばを聞きますが、実は日本には標準語はありません。(法律で決まっていないので…)「共通語」なのです。明治初期に「学制」に併せて定まったとされる「日本語(共通語)」は、東京の「山の手(武家言葉)言葉」と「下町(町民)言葉」の混交体とされてます。基本的にその頃の「話し言葉」ですから、変化するのが当然なのが日本語です。(文化庁(国語の改善・普及が設置理由の一つです)がちょくちょくと提言とか報告とかを出しています)井上ひさし様の「國語元年」はなかなかのものだと思ってます。(まぁ、一人で全てを組むなどという天才はいなかったでしょうけれど…)尋常小学校のカリキュラムに「音楽」を入れたのは誰だ? 国語的(アクセント?)にも余りにも素晴らしい成果だと思ってます。(「文部省唱歌」はもっと残すべきだったというのが筆者の意見です)
まぁ、NHK的な言葉が現在の「共通日本語」かもしれません。(たまに間違えるアナウンサーもいるが 笑)民放のアナウンサー(特に若い女性アナウンサー)はタレント化してうんざりすることが多いですね。
ちなみにこのような「教育的共通語」だけでなく、北海道や台湾でも別の「共通語」ができているのは余り知られてません。(「ピジン(2つ以上の言語・言葉の混合体)言語」ですね)
などと、やっぱり横にずれるのが筆者です(謝る
さて、ここである程度工業的基礎ができました。(できたとは言ってない)あとは関連技術を向上させましょう。(無理矢理 パッキン・シール材など、関連の会社や海外の会社との関係も考えますし、調べます。(だいたい執筆が遅くなる原因の三分の一はそんなことです)
この後に
実験
が始まりますが、そのあたりは次回に……
comingSoon
いかがだったでしょうか?
ポチの「頭の中」をさらけ出しているみたいで恥ずかしいのですが…
まぁ良いかぁ~~
としぶしぶと納得しながら書き進めてみました。
もうしばらく
独り言
のような文章にお付き合いください。
ではでは。




