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排気タービン過給機実戦へ(戦後編)その13

やあやあ

皆さん、こっちの方をさっさと書きたい欲求で、つい早めの投稿です。


やっと「戦後編」ですよ。

これで排気タービンとはお別れです(泣

あ、排気タービン過給機は何も出てない!!


前回、常連さんから

え? どう終わったの?

というお声に、ちょっとだけ終戦の様子を描きました。


いや、

排気タービン過給機

を実戦化するためにはかなり無理しましたが、やっばり変わらないなぁ~というのが筆者の気持ちです。多少、B29を多く(実際の1.5倍程度)堕として、東京大空襲やヒロシマ・ナガサキを回避出来ても、アメリカの猛攻にはなすすべもありませんでした。

「一式重爆」

の時にも感じましたが、終わらせるって難しいですね。


では

お楽しみください。



「『あなたはもう描けない』と言う心の声がきこえるときこそ、絵を描くのです。そうすれば、心の声は打ち消されます」


フィンセント・ファン・ゴッホ


   ◇      ◇


 皇居近く。

 突然の呼び出しを喰らって時間に間に合うように来たものの、汽車の遅延にギリギリの状態でドアを開けると10数名くらいの視線を一斉に浴びた。その殺気めいた目の光りはドアの開けたはいいがこれからどうしようかと一瞬たじろがせるくらいだった。室内にいる人たちを伺うと知り合いはいなかったが数人知っている顔はあった。あれは…


「皆さん揃いましたか?」


 癖のある日本語に慌てて空いている席に着く。

 目の前には数名の白人士官の姿。そして右側にどうも通訳らしい日系の下士官が立っていた。


「皆さんに集まっていただいたのは、今一度、B29を堕としていただくためです」


 驚きの余りに声が出なかった。




 既に戦争が終わり2年余りがたとうとしている。満州に乗り込んできたソビエト軍の勢いに

 「このままでは中国全てが飲み込まれてしまう」

と悲鳴を上げた蒋介石が未だ満州周辺に軍備力を残したままにしている現地日本軍との「停戦協議」に入る。そして何の拍子か、その頃にドイツでの米・ソのにらみ合いが一発の銃弾に混乱状態に陥る。(この時パットンが現地視察と称して車両でうろうろしているときに起こったから、もう止める者はいなかった)その動きに慌てたアメリカが一方的に日本への作戦行動を取りやめる、という一種のドミノ倒しのようなありさまがたった半月の間に起こった全てである。

「次はソビエト連邦」

という意見はアメリカ内部で囁かれていたものであり、日本本土上陸作戦などで自国の兵士損害そして国費浪費に次の選挙に耐えきれないと考えた大統領府は

「さっさと停戦しろ」

という以前からの国会の動きに耐えることができなかった。

そして米・英の首脳陣は対日講和を決定する。




「ここにお集まりの皆さんは、B29に対するエースです。我々にその落とし方を教授願いたいと思ってます」


なるほど、知っている顔がいるわけだ。

 海軍の

  赤松貞明中尉(雷電・烈風改)

  遠藤幸男大尉(月光・武装司偵)

  黒鳥四朗少尉(月光・武装司偵)

 陸軍の

  小林照彦大尉(3式戦・5式戦)

  佐々木(平山)勇准尉(4式戦)

  樫出 勇大尉(屠龍・5式双戦)

などなど新聞や雑誌に写真付きで載せられていた防空の戦闘機乗りがその半数を占めている。他の者も陸軍関係者が多いようだがそれぞれにB29との戦いで戦果を上げ、そして生き残った者ばかりだろう。

サムライ?

いや

野武士だ。

私と一緒で軍を離れて2年はたっている者もいるだろうが、その眼光は生きている。


しかしいったい……




 「ツポレフTu-4」という機体がある。

 戦時中、スターリンは再三にわたってアメリカに長距離爆撃機を要求した。もちろんアメリカとしては断る。まずはアメリカが必要であり、ソビエトにこれ以上の戦略的戦力を与えることに難色を見せていたのである。の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対独・日戦への重点投入という目的もあった上に、ソビエトが戦略爆撃機を持つということに難色を示していた。ソビエトに与えていた飛行機は二戦級、アメリカが持て余していた機体に過ぎなかった。

 そんな中で日本空襲後にその損傷・故障からソ連領に迷い込んだ機体があった。アメリカは返還を求めた。そして帰ってきたのは搭乗員だけであった。

 スターリンは歓喜した。そして不時着したB29(4機とされている)は解体調査され、部品レベルでコピーされた。(さすがにエンジンはコピー出来ずソビエト製のシュベツォフ ASh-73が搭載されたが、その出力自体は余り差が無かった)

「ボーイングスキー」

と後日アメリカ側からあだ名された機体は1947年5月に初飛行、そして1947年8月にモスクワで行われた航空記念日パレードで初披露され、正式名称をTu-4とした。

 アメリカは恐怖した。

  もしもアメリカ本土爆撃ができるよう航続距離の延伸がはかられたら? 

  もしも核爆弾が搭載できるようになったら?

アメリカ空軍へと独立が予定されていた陸軍航空部はパニック状態となった。(まぁ騒ぐことで予算を確保しようという思惑があったことも否めない)

 どう対抗するか?

答えの一つとして「B29に対抗する戦術の確保」である。そしてB29を実際に撃墜した日本軍のエースたちが呼ばれた。




「こいつぁ……」


轟轟という大馬力エンジン特有の腹に響くような音、聞いてはいたがこの機体か…

アメリカ軍が「日本から借り受けている」とされる厚木基地には、日本の陸海軍の機体が並んでエンジンの試運転を繰り返していた。しかも終戦間際に活躍が期待されたものばかりだ。塗装は銀色一色に機首部のつや消し黒塗装、そして胴体と主翼には米軍の星マーク。


「中尉、飛びますか?」


これまで席田飛行場以来何度も顔を合わせていた機体付き整備員が嬉しそうな、いたずらっ子のような笑顔を私に向ける。


「地上ではちゃんと回ってますし、ガソリンもオイルも満タンですよ」


集められたのは搭乗員だけではない。機体やエンジンの開発に携わった者やベテラン揃いの整備員などなど、アメリカ軍からの依頼によって会社からの出向派遣、そして1年の期限を受けた士官・下士官待遇で臨時採用された者たちであった。


「1階級特進採用でしかも『ドル払い』ですぜ。断るのはよっぽどの偏屈だけですよ」


曹長待遇で採用された機付き整備員はからからと笑った。終戦と共に下落した「円」(すでに戦中から下落していたが…)は第一次大戦後のドイツほどではなくても、その分「ドル」の価値がうなぎ登り状態である。私自身も「大尉相当」の給与に危険手当などの特別な手当が付き、現状の日本ではちょっとした会社の部長クラスの収入額である。ただ、金銭的なものより再び空に舞い上がる期待にうきうきしていた。


待機場での暖機運転を終えたエンジンは一旦止められる。未だ寒さは本格的にはなっていないが、寒さに震えるかのようなエンジンのチリチリとした音が聞こえる。


「だいぶエンジンはいじってます。アメさんがけっこう手を貸してくれて、部品なんかもあっちの機体で使っているのをくれました」


ハ43ー44は部品単位で分解され、三菱の技師とともにアメリカの部品と交換出来るものはだいぶ変えたようだ。点火プラグや電路、ピストンリング、オイルモーター、発電機、できるものはネジ1本でさえ交換したという。


「口金が違おうと、どうにかできるものですよ。そのくらいならば現場でどうにかできます。せっかく性能が良いのをくれるんですから、使えるものは使いましょう」


アメリカのガソリンとオイルを入れると、別次元の安定性と出力だったそうだ。


「機体は多少補強材も入れてるそうです。なんかアメさんはこっちの機体が弱いと怯えてるのですねぇ。この機体は大丈夫だと言っても聞かなかったらしいですよ。まあ、エンジンの過熱に備えて、空気取り入れ口を大きくはしたそうです」


梯子をかけてくれたので、久しぶりに操縦席に自分の身体を預けた。違和感を感じるのは速度計と高度計、そして目の前に鎮座する射撃照準器くらいだった。高度計と速度計はアメリカのフィート目盛りとなっていた。整備員がわざわざ手書きで付け加えているキロ・メートル目盛りがガラス面に光っている。射撃照準器もアメリカ軍のものらしい。ホントに実弾射撃はしないのだからそこまでこだわらなくてもいいのに、と苦笑いした。

操縦桿とラダーを動かすと、これまでとさほど違和感もなく動いている。前方の昇降舵がうまく動いているのを目にする。これで飛ぶのか……多少の不安もあるが、ここに集まっている搭乗員で実際にこの機体を飛ばしたことがあるのは私だけだ。2年近いブランクがあるとしても、腹をくくるしかない。

 離陸前の陸上確認を行い、数度軽く地上を離れては着陸を繰り返す。三つの舵もフラップも車輪ブレーキもこれまでのところ問題がなさそうだ。再度駐機場に乗り入れて整備員との確認を行う。


「離陸して問題がなかったらとりあえず3000まで昇ってみる。過給機の具合も見たいし…」


梯子上でこちらの様子を見ていた機付き整備員が頷く。


「気をつけてください。間違いなく100馬力は上がってます。垂直尾翼でトルク調整は済んでますが、引っ張られないようにしてください」


「さすがに全力は出さないよ、2機しかないのだから……」


そして数分後、機体は厚木の空を舞った。




 アメリカとの戦争終結はあったものの、まだソビエト軍は満州と樺太・千島列島への攻勢を続けていた。陸軍はアメリカの了承の元に中国大陸に散らばる師団を満州方面に回し、国内の航空機を満州や朝鮮へと移動させその遅延攻撃を続けた。海軍も数少なくなった護衛艦隊を出して中国へと船団を向かわせると共に北海道方面へと航空機を回す。

 連合軍としては戦争終了と共に日本軍の武装解除を行いたかったが「自国民保護」を訴えられる中でしぶしぶと対ソに対するのみ戦闘を黙認するしかなかった。もちろんスターリンは激怒し、アメリカやイギリスなどに圧力をかけてきた。ドイツでのソビエトとアメリカ・イギリスのにらみ合いの中で、ドイツとの戦闘を終えた諸国は「自国経済の復旧」を優先すると共にソビエトの訴えを無視する形となる。

 10月過ぎに「条件降伏」し日本に乗り込んできた「GHQ」は日本の非武装を狙っていたものの、その思惑は未だ遼東半島での攻防戦を続けていることに、日本軍の軍縮までしか提案出来なかった。将来的には遼東半島と朝鮮全土をアメリカ・イギリスに任せるとしても現状では荒唐無稽のものと判断されたためである。更に言えばGHQ初期メンバーはソビエトというより共産主義に気触れた若手(彼らは日本の大正時代の民主主義国家への道筋を認めようともしないし、自分たちの理想的農耕共産国を作りたかったらしい)がこれもアメリカ国会のロビー活動に敗れ去り、次々と現実的な思想を持つメンバーへと変更された。

 かくして日本はGHQの指示の元にさまざまな変革を行い、その軍備も軍縮に伴う再編成を始めることとなった。


 ここでは「空軍」についてのみ述べたい。

 終戦時に10,000機近い実戦機(輸送機や練習機などを含めると14,000機余り)を揃えていた陸海軍であったが、戦争が終わったことによって搭乗員や整備員の半数以上がそれぞれの隊を離れた。ソビエトに対抗するための大陸派遣部隊はそれなりに人員を揃えており、他の部隊からの移動(自主的な者も含む)によって稼動率を上げていた。厚木など幾つかの航空基地(長大な滑走路を持つところや軍事的根拠地として重要なところ)は連合軍が「借り受ける」形で米英の航空隊が進出することとなり、書類一枚で日本軍機が領収されることとなる。アメリカ軍としては将来、日本航空隊にアメリカ機を採用させることを考えており、そのために日本の航空産業を潰すことも厭わなかった。

 日本陸海軍の陸上航空部隊をGHQが再編成する中で、「B29のエース」は震えた。このままでは戦犯になるのではないかという恐れである。実際に連合軍は「東京裁判」という「裁判」とは烏滸がましくて言えない珍事の中で、戦時中の「戦争犯罪」を判決している。B29を堕とした者たちにとっては恐怖しかなかった。従って、「B29のエース」は再編成中の日本軍航空隊(後の空軍)には半数以上が参加していない。

「(戦闘中の)殺人行為」

といういったい何を考えているのか分からないことで起訴されてはたまらない。そんな理由もあって特に上位のエース陣はベテラン・若手を問わずに航空隊への参加を渋った。なにせ墜とされたB29の搭乗員で生き残った者は大半が捕虜として確保されたものの、私刑で殺された者、裁判にかかり死刑とされた者など、搭乗員とは直接関係なくても「東京裁判」の被告として上げられる可能性があった。のこのこと「軍」に残ることは危険であると判断した者が多かったのも事実である。実際に被告として拘留された者もいた。


 そしてその搭乗員に対する全ては「ツポレフTu-4」の登場によって変化した。

 アメリカ軍の中にB29を堕としたことがある者は当然いない。日本ではせいぜいが飛行艇であり、ドイツで四発機を運営していたが少数である。大型重爆を堕とす術を持ち合わせていなかった。


 「ならば… B29を多数堕とした日本軍に聞くことが手っ取り早い」


 そう判断したアメリカの動きは素早かった。既に日本軍機の調査のためにさまざまな機体を飛ばしていた(陸軍は立川飛行場、海軍は厚木飛行場に集められた)が、破壊を免れていた対B29用の日本軍戦闘機をかき集め日米合同の「厚木教導飛行隊」を編制する。今回の流れはそういう一端である。

 終戦によって極端に生産数を減らした航空会社(戦時動員や学徒勤労の人々は工場を離れ、復員によって帰ってきた工員はあったものの19年より10分の1程度の勤務者となる)は会社の整理・合併を繰り返す中ではあったが、要求された機体生産の傍ら、日本軍航空隊(後の空軍)の中でも戦争末期に期待されていた機体(試作機・増加試作機を含む)はそれぞれに戦時中に提案されていた改良・改善策によってほそぼそながら研究・製作が続けられていた。

 三菱や中島・川崎などは

「次世代の飛行機はジェットで」

と、鼻息盛んに開発を進めていたが、まだジェットエンジンの安定性には問題があり、アメリカ軍としても暫くはレシプロエンジンの時代が続くものと考えていた。そのために「厚木教導飛行隊」に集められたのは、B29に直接対応出来るものとして

 ・6式戦(キ82Ⅱ)

 ・6式双戦(キ83)

 ・烈風改

そして増加試作機であるものの「震電」であった。

 震電は特異な飛行機である。エンテ型の推進式エンジン。海軍の鶴見技術少佐が

「750㎞を狙うには、この形がふさわしい」

と提唱した機体である。機体を作った九州飛行機は新進気鋭の会社ではあったが、2式中練や東海などを手がけた程度の技術者が少ないところであったので、その開発能力は低いと言わざるを得ず、海軍としても会社の開発能力を伸ばすためにもと(若手を中心に)助力を惜しまなかった。試作2号機が初飛行した時点で戦争は終わったが、他の試作指示が次々と取り消される中でも海軍としても特異な形状のこの機体の将来性に賭けて(ジェットエンジンへの変換も考えていたと言われている)細々ながら鶴見少佐を中心として開発を続けた。(九州飛行機自体は東海の生産を止め(機体の助長力がなかったので対潜哨戒機は三菱の大洋が採用された)テキサン練習機のコピー機の生産で細々と会社の延命を続けていた。後に川西の子会社となる)エンジンの過熱、トルクコンバーター付き過給機などの不具合、エンジントルクによる機体の右への加重的流れ、主翼の取り付け角度の変更・翼端の変更など実戦機とするための改善は次々と図られる。エンジン自体も戦争後のニッケル系耐熱鋼の使用制限解禁などによるエンジン自体の変更に伴い、トルクコンバーターを止めて1段3速の機械式過給機に替えられた。

 厚木に到着した機体は外見上はプロペラが幅広四枚のものとなった増加試作機(先行量産型)であり、様々に改修が行われた上に、アメリカ式の改善が加えられた機体であった。

そして他の機体も全力試験が終わったのは2週間後である。



「あのP51、機銃を替えてるのか?」


明日からの模擬戦のために揃い始めたアメリカ軍の機体を見て違和感を感じた。兵装担当の整備員に疑問を呈する。


「あぁ、やっぱり気づきますよね? でかいですもんね? 30㎜ですよ」


「30㎜? どうりでな」


翼の上下にも瘤ができている。


「少々無理したみたいですね。見せてもらいましたけど、最初から30㎜を載せるように作られてるのならば別ですけれど、もともと12.7㎜ですから、とりあえず載せたってとこですね」


「アメさんらしいな、次の機体の試しってところか」


苦笑してしまった。


「あれ、うちの30㎜ですよ」


「は? 俺の機と一緒?」



5式30㎜機銃は戦末期に採用された対B29用の兵器である。海軍は99式1号20㎜機銃を戦前から採用したものの、実戦を経て弾道の挺進(?低伸)性のなさや搭載弾薬数に不満を持ち次々と改良を重ねると共に、

「20㎜ではB17には不足している」

(これは機体の大きさに惑わされて遠くから射撃をしたことと20㎜では一撃ではなかなか堕とせないこともある)と、25㎜(威力不足とされ途中で計画破棄)と30㎜機銃(2式30㎜機銃として採用されるものの生産数は少ない)をエリコン式の拡大発展形として試作した。これらは実戦試験に移され、それなりに成果を上げる。しかし海軍は十分には納得出来ずに

「17試30㎜機銃」

として新たに開発することを決定する。そして日本特殊鋼(合併により解散)の河村正彌(正弥)博士と加瀬技師が設計を行った。この河村博士は99式2号4型20㎜機銃によってエリコン系のAPI方式では絶対に無理とされていたベルト給弾を現実化したことでもよく知られている。開発は順調に進み18年には試作品ができたが、小さな改修が続き、戦闘に間に合ったのは20年当初であった。その頃「陸海軍の武装共通化」の流れの中で、陸軍も30㎜機関砲を開発していたが、陸軍はそれ以上の37㎜などを今後の主流と考えていることもあって生産が先行していた(試作が終了した途端に量産を命じたためにやや大変なこととなる)5式30㎜機銃を共通武装として考えていた。戦争終了とともに改良点を元に再設計された5式2型30㎜機銃は戦後の「防空隊」航空機の主要武装となり、アメリカとの共通武装となる「M61バルカン砲」が採用されるまで日本空軍の武装とされていた。(日本特殊鋼のドイツのリボルバーキャノンの情報を元にした「22試30㎜機銃」と競り合いになり、「政治的判断」のもとに「M61」が採用された。まぁその頃の「ミサイル万能説」によって航空機搭載機関銃が軽視されたこともあるが…ちなみに「22試30㎜機銃」は拡大・改良を加えボフォース40㎜対空機関砲などの代替武装として「25式35㎜機関砲」として陸・海・空軍に採用されており、現在でもレーダーサイト防護武器の予備として稼働状態を保っているらしい)




「30㎜機関砲をこちらにも譲ってほしい」


アメリカ陸軍航空部の係が言い出したのは昭和24年の「朝鮮戦争」時であった。

昭和20年以来、満州で睨み合いになったソビエト・中共軍と米・日軍(指揮権は極東アジア司令部のマッカーサー元帥にある)であったが、朝鮮半島ではソ連が後押しする「共産朝鮮(北朝鮮)」とアメリカが後押しする「大韓民国(南朝鮮)」とに分かれて、米・ソの代理戦争を続けていた。途中でソビエトと中共の仲が悪くなる(国境設定の話し合いとも「共産主義」に対する思想の違いとも言われている)というアクシデントもあったものの、「共産朝鮮(北朝鮮)」に対する支援はソビエト・中共ともに続けており、アメリカに対する「代理戦争」の最前線となっていた。小競り合いが続く中で

「M2はソビエト機に十分には対抗出来ていないのではないか?」

という話が出てきた。そこで主力の陸軍P51などと海軍F4UなどはAN-M2・3 20㎜機関砲(イスバノHS.404系・海軍(共通)呼称はM24)を搭載するようになったが、以前から述べてるように信頼性が低かった。一時は日本海軍の99式20㎜機銃(戦後主力となっていたのは九九式二〇粍二号機銃五型)の流用も検討されたのであるが、ここでもかの「ツポレフTu-4」対抗のためには20㎜でも不足ではないか? という意見が出された。ツポレフTu-4に対するアメリカのショックが窺える。「厚木教導飛行隊」に参加しているP51・P47やP61に仮搭載(翼内の補強などは行っている)して実射実験を行っていたこともあって、「朝鮮戦争」開戦に伴いアメリカ軍はより強力な機関銃を欲した。



「今すぐ、とりあえず5,000。できれば10,000を半年以内で」


「はぁ……」


日本特殊鋼の生産現場の係はため息をつきそうになった。正式な取り決めの前の予備的な会合だった…… 係が訊ねたのは「いつまでに?」と「どのくらい?」という最低限の質問だったはずである。


「できないのか?」


米陸軍の戦備部の中佐と紹介された人物は青い瞳で静かに、しかし口調はNOとは言わせない雰囲気を醸し出していた。


「インチ基準に準じなくてよろしいですね?」


「できればそうしてもらいたいが…」


「半年はかかります、試作までに。それで良かったら…」


「……いや、今すぐだ」


ことばが詰まったようだ。アメリカは急いでいる。ならば、こちらからも要求して良いだろう。反撃開始だ。


「5,000ですね、現在、我が社で生産している30㎜は月に300程度です」


「話にならない」


中佐は、大げさに身体を使って否定を見せた。

かかったな?


「こちらが要求する機材・原材料は用意出来ますか?」


「今すぐとは言えないが、最大限考慮しよう」


この中佐はそれなりの権限を持っているようだ。ただ、交渉の実践が足りない。現地アメリカでは良いとこでの『坊ちゃん』だったのだろうな。もしかして実戦に参加しないままに終戦を迎えたか?

ほくそ笑む。


「ならばその成果を見て判断出来ます。半年後に5,000、約束しましょう」



日本人舐めんなよ


そう心の中で呟いた。




いかがだったでしょうか?


今回はネタとしては三つです。

九州在住の筆者としては「震電」をちょっとでも出したい(ゴジ○は関係なく)と以前から考えてましたので、多少は鬱憤を果たしました。しかし「太刀川平和記念館」の震電(何か北海道のとある場所で公開されたらしい話を聞いて、北海道旅行をつい計画してしまった僕を相方は未だ許してくれません)を見に行ったときにはゴ○ラのゴの字もなかったので、「あれ? 素人が作った(情報では「好き者が趣味で作った」という話になっていた)にしてはしっかりしている…操縦席のアレ何?」状態でしたが、パシャパシャ写真を撮って満足してました。(けっこうちゃんとできているので、見に来てください 笑)

二つには「ツボレフ」ですね。アレの登場時にはアメリカがバタバタしていたらしいので、その騒動を早めて日本軍に絡めました。

三つには「5式30㎜機銃」てす。実際に朝鮮戦争時にアメリカから生産の打診があったらしいです。もう数年たってますので実際にはできなかったのですが、けっこうアメリカって機関銃開発が「下手」みたいですね。


さて、

ホントに長いこと排気タービン過給機の話を出しました。

耐熱鋼や工作関係でいろんな回り道をしましたが、それなりに満足してます。


次は何しようか?

ということですが…

ネタはいろいろとありますが、一つに絞れないのが現実です。


でも

なるべく早めにお目にかかろうと思いますので、これからも宜しくお願いします。


しかし、だいぶ「なろう」の画面が変わったことに戸惑いを感じてます…


ではでは。

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― 新着の感想 ―
[良い点] そうか、赤松さんは烈風改に乗るのかw 当方神奈川住みなので、厚木基地はまぁまぁご近所です。 (一番近いのは相模原補給廠ですけどw) 「厚木基地掘り起こしたら戦後にスクラップにした  海軍…
[気になる点] 終戦から朝鮮戦争までの経緯が知りたくなりましたねえ。 [一言] この世界国鉄車輌へのベアリング配給はかなり遅くなりそうだなあ。 あと川西航空機も更に拡大するのでは。武庫川団地が無くなり…
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