排気タービン過給機実戦へ(そして全てが終わる?)その12
皆さま
おはようございます。
久しぶりの投稿です。いかがお過ごしでしたでしょうか?
やっと
やっと終戦を迎えます。
B29の脅威には少しでも「蟷螂の斧」を振ることができたと……
しかし、敗戦は免れません。
では
お楽しみください。
「下を向いていたら、虹を見つけられないよ。」
チャールズ・チャップリン
◇ ◇
「怪鳥だ」
ふと口をつく。目の前の銀色のキラキラとした機体。なぜこれまでの大きさ、なぜこんな速度、なぜこんな高度…自分の機は時折息をつくのに、目の前の機体はゆうゆうとその姿を蒼空に浮かべていた。何度見ても、何度戦っても、怪鳥であり続けている。
高度は12,000メートル。相手にしても我々にしてもその高度自体が脅威である。高高度の冷たい空気の中、手袋にじわりと汗を感じた。
「堕とすべきだ」
そして
「とりあえず最初の指示通り目的地に着くべきだ」
という相反する気持ちが交差する。
いけない、悩んではだめだ。
僚機が困ってしまうだろう。
「あれは敵だ」
マイクをオンにして強く呟く。
「堕とすぞ」
呉の防空指揮所からは既に指示が出ている。夜明け前後に飛来した単機のB29を受けた、広島南部方面への哨戒飛行。ちょうど編制されたばかりの新型機中隊(その先遣隊である一個小隊4機)の松山飛行場への移動中、タイミングとしてはぴったりである。急いでいたためもあって増槽の燃料もほぼなくなっていた。本来、単機・数機への迎撃は偵察任務でもあり燃料の消費を抑えるためにわざわざ対抗しない。たまたま移動中であり上空を飛んでいた我が小隊であるから依頼されたものでもある。旋回しつつ高度を10,000mに上げて視界を広げようとしたところに、南からの2機のB29を発見する。サイパン・テニアン方面から考えると、コース的には間違いない。B29は高度を上げる。それに釣られる形で自機の高度も上げる。距離が離れていたための我慢比べは、我が小隊が数㎞先のB29のコース上に展開したことで終わった。逃げようとした。2機のB29は別々のコースを採ろうとした。
「円城寺、左だ」
「宜候、斉藤来い」
2番機は4番機を連れて左に逃れようとしたB29に飛びつくように機体を滑らした。高度を下げつつ旋回するB29に、速度差だけでも50㎞はある2機の僚機はすぐさま取り付いた。
小隊長機は3番機を伴って、旋回する右の機に狙いを定めた。高度を下げるB29に縋り付くように速度を上げる。主翼が振れ始める。700㎞を超えたか? 主翼表皮のジュラルミンが皺立つまでもないからまだそこまではないだろうが、零戦ならばすでにバラバラになったろうなぁ、などと頭の片隅で考える自分に苦笑する。
「小隊長?」
苦笑した声に反応したのか、3番機の豊田から心配そうな声が響く、他の僚機にも聞こえているだろうなぁ…
「後部より一撃後、反復攻撃、狙いは主翼付け根」
「宜候」
松山飛行場に着いたときは既に10時を超えていた。燃料的にもギリギリであった。4機が無事に着いたことだけで個人的には満点であった。
「1機撃墜、1機撃破。 すごいな、うちの紫電改ならば一個中隊でギリギリの戦果だ」
343空の源田實司令は褒め称えた。
「たまたまです、指示通り哨戒飛行してただけですし…」
「謙遜けんそん………、量産はまだか? うちには何機回してもらえる?」
量産は始まったばかり…というか、地震の影響で三菱にしても愛知にしてもかなり混乱している。この4機(先行量産機の24機)だけでも奇跡的なものである。そんな噂を混ぜながら述べるしかない。
「『烈風改』かぁ~、半年早かったら呉も十分に守れたかもしれんなぁ~」
昼近い時間、暑い、蝉が泣き叫ぶことさえ忘れる暑い日であった。
北九州に対するB29の空襲を受けて、日本の陸海軍はその対抗策を練り始めた。
「いかに日本を守るか?」
ということである。
多数のB29に対抗するためには、個々の機体性能の向上ももちろん大切であるが、その機体をいかに動かすかということも大切になる。前述のように、日本本土の防空は基本、陸軍に任せられていた。そして海軍は個々の軍港を中心とした区域の防空を任じられていたのであるが、
「この期に及んで、海軍、陸軍などと言っている場合か?」
と陸・海軍以外からの声が上がる。
「軍のことに口を挟むな」
という少数の意見もあったが、北九州の市民被害はそれぞれに衝撃を与えていた。
「明日の東京? 大阪?」
そして
「陸軍はそれを防げるのか?」
である。
陸軍は渋々、ほんとにしぶしぶと海軍との協議に入る。既に海軍は横須賀と佐世保に防空指揮所を設けており、呉・舞鶴にも同様のものを建設中であった。陸軍は防空指揮所という新規なものに対して懐疑的ではあったものの、その対抗上、柏(千葉県)・春日(福岡)に防空指揮所(らしきもの…未だ陸軍は防空指揮所の根本を十分には理解できていないが…)を設置していた。そして陸・海軍の統一した指揮のためには、「言葉のすり合わせ」から入らなければならない。(例えば距離単位である「メートル」と「海里」など)また、無線の周波数割り当てなど、それらの細々とした作業自体は現場の協議を繰り返す中で遅々としたものであるが進んでいった。
レーダー基地の増設も始まり、防空指揮所への直通回線も新たに敷設された。常備働く警戒レーダー、そして警戒レーダーが捉えた敵機を追跡して正確な位置・速度・高度などを確認する防空レーダー等、最初はその役割が分離していたわけではないが、レーダー基地の数が増す中でその性能に応じた(あるいはその性能を備えたレーダー開発)役割分担が決まってくる。(高射砲用の射撃レーダーなどの開発も進んだ)
そのレーダーの開発・整備が続く中で、「敵味方識別装置」の開発・配備も始まった。最初は海軍・陸軍別に開発が続く。海軍は11号・13号レーダーの周波数に直接反応するタイプであったが、陸軍は地上レーダーから特別な周波数を出す装置と反応する機上機器のセットとなるタイプであった。ただ単なる敵機か味方機かの判別ができるだけで「地上要撃管制(GCI)」ができず、それぞれに反応する電波帯が異なるために、これもまた陸・海軍のすり合わせが始まることとなる。
また、国内に飛行場作りが始まる。例えば日本海軍の航空基地は、戦前に国内58カ所あったとされる。(常設の航空隊がない基地、中継基地・不時着基地などを含む)戦中には50カ所を超える航空基地が設置された。もちろん新規にされたものの中には、前記の中継基地・不時着基地も含む(もちろん特攻基地も含む)が、防空用に造られた飛行場も多い。陸軍の航空基地も同様に多数(数としては多い)の新設が行われた。(例えば現在「福岡空港」と呼ばれる場所は北九州・福岡の防空のために造られた陸軍の席田飛行場であり、初期600mの滑走路を持つものであった。この空港のように戦後にも民間・自衛隊などで活用されたものもあるが、そのほとんどはもとの田畑になったり住宅地となっている)
B29に対抗出来る機体として,海軍は2式局地戦・雷電、陸軍はキ100・キ84・武装司偵を準備した。実際にはB17・B24対策であったが、B29に対抗しうる機体としても有効とされた。しかし陸軍も海軍もそれで十分とは考えていなかった。しかし、既に17試から始まる海軍と陸軍の開発の連続は各航空機製造会社に大変な負担を負わせていた。そのために開発能力に応じた試作機の整理がここで行われた。しかも対B29用の戦闘機についてはできれば陸・海軍ともに使えるものは共同採用を予定してのものである。
その結果として三菱にはとりあえず制式採用された「烈風」を原型とした迎撃機「19試甲戦(烈風改)」、キ83遠距離双発戦闘機の開発が命じられた。以下、
○川西「18試甲戦(陣風)」・「極光」
○川崎「キ102甲(昼戦)・丙(夜戦)」
○愛知「18試夜戦(電光)」
○中島「キ87」
○立川「キ94Ⅱ」
○九州「18試乙戦(局地戦・震電)」
既に開発半ば、あるいは試作試験中の機体もあるが、陸海軍の航空機関連の研究員や大学の教授陣・学生なども次々と投入して、小さな九州飛行機などは20名余りの開発陣(2式練習機・東海などを開発)が一時期200名余りとなり、社屋を新たに建設するほどであった。
海軍は「2式局地戦」・「雷電」・「紫電改」を、陸軍は「キ100(5式戦)」・「キ84(4式戦)」を重要生産機体として、計画としてはそれぞれに一年間で10,000機の量産を命じた。(できるわけないけれど…)
個々の機体に関してそれぞれに話題とすることはできないが(それぞれの機体で1文章できる)ここでは関連のある機体について述べたい。
中島の「キ87」は、陸軍航空技術研究所の後押しもあって中島としては珍しく排気タービン過給機を付けた機体として計画された。そしてもう一つの特徴として将来的には与圧操縦室を予定していた。もちろん中島はそれらの経験がなかったので、排気タービン過給機については日立・石川島がその艤装を含めて開発に参加した。
中島としては、自社が開発している「二段三速機械式過給機」が本命と考えている節があり、排気タービン過給機付きの機体には余り乗り気ではなかった。それでも将来への布石として与圧操縦室は必要とも考えており、その他新機材の研究実践機としての側面もあって開発自体は順調に進んだ。
与圧操縦室については陸軍の航空技術研究所伝いに立川から情報を得ようとした。立川としてはかなり不服だったらしい。既存機体といっても機体構造からの大改造になる。何と言っても与圧キャビンの研究に数年を費やして、やっと実用化の一歩手前まで歩んだのは立川の努力の賜物であった。
「自分で造った方がマシだ」
と与圧操縦室を前提とした機体を若手の技術陣が自主的に開発を始めていた立川(のちの「キ94(Ⅰ)」)となり、立川の不満も陸軍は認めて航空技術研究所からの技術的支援がかなり入った)
しかし、「キ94(Ⅰ)」は19年の試作機整理によって実物大模型ができたばかりではあったが試作中止された。中止の主な理由は「単座戦闘機に発動機2基は効率的ではない」というものであったが、立川としても特異な機体形状による「後部エンジンへの冷却」についての問題を解決しないままであったので、既に次案として原案の中でも単発エンジンによる「キ94Ⅱ」の研究を始めており実現性の高い機体として開発の継続が決定したのである。
さてこの2機の試作機のみならず、海軍の試作機のほとんども「新型エンジン」の製作が機体開発の肝となっていた。
・「陣風」はハ45-42(「誉」四二型、二段三速機械式過給機付き)
・「震電」はハ43-42エンジン(「金星」の18気筒化・フルカン接手付き過給機)
・「烈風改」「キ83」はハ43-11ル(排気タービン過給機付き)
・「キ87」はハ44-12ル(ハ5の18気筒化・排気タービン過給機付き)
・「キ94Ⅱ」は ハ44-12ル
確かに「ハ45」と「ハ43」は量産されていたが、ハ45は馬力向上(2200hp対応)のための構造強化を行い再設計され、またハ43はまだまだ熟成のための時間が足らない状態でしかも地震のために工場混乱期にあった。そして熟練工と呼ばれる工員の召集によって特に新型エンジンの生産は滞りがちであった。
実はこの時期に日立や石川島の開発陣が力を入れていたのは排気タービン過給機ではなく、ガスタービン、つまりジェットエンジンであった。昭和13年に海軍航空技術廠で始まったカプロニ・カンピーニ方式ジェットエンジン、そして遠心式ジェットエンジンは欧米からのわずかな情報を元に試作が続けられていた。陸軍では第二陸軍航空技術研究所を中心に東大航空研究所や川崎を中心として基礎研究が始まった。海軍と陸軍が共同作業としたのは、昭和18年にドイツより軸流式ジェットエンジンの断面図が送られたことからである。(その後のことは別章を立てたい。Coming Soon 笑)
これらの「新型機」は、試作機のままに終わったものや、増加試作機・初期量産型の生産が始まったもの、そして少数ではあるが部隊編制が終わった機体などがそれぞれにあるが、そのほとんどは本土決戦に温存されたこともあって活躍の場は少なかった。
その替わりではないが、既存の機体は昭和19年にそれぞれの最大量産期を迎え、本土空襲に合わせた戦闘機が間に合ったこともあって、本来B29が想定していた「敵の防御を掻い潜るための高高度(精密)空襲」では(随伴する戦闘機の不在もあり)かなりの損害を出すこととなる。そしてその損害の多さにアメリカ国会では問題となり、司令官の交代にまで繋がる。新司令官のルメイは中高度(6,000m前後)無差別爆撃・夜間爆撃へと舵を取る。しかし、その高度こそ日本軍の軍用機にとっては適切な高度であり、それこそ戦争前半に日本軍機が感じていた
「堕としても堕としても敵機が沸いてくる」
状態を感じていた。
もちろん開戦時のベテラン勢はそのほとんどの姿を消し、残ったのは一部のベテランと新任者ばかりという中で、レーダーや作戦司令所などの適切な連絡・指示によって搭乗員の疲労度を低下させるように工夫された。
また、この時期に「ジャイロ利用の射撃照準器」が次第に広がったことも新人搭乗員の一助になったこともある。(このことは別章を立てたい。これまた Coming Soon って…いつになるかなぁ~)
機器ついでに「信管」の話をしたい。陸軍が採用した100式小瞬発信管(20㎜機関砲用)は動作不良による腔発事故などが相次いだのである。その信管に原因があると、信管の部品を一つずつ取り除いた調査・実験を繰り返す中で、バネも撃針がないのにも関わらず信管が発火することが繰り返しされたことに不思議を覚えた人物がいる。陸軍の渡辺三郎技術少佐である。簡単に言えば命中時に弾頭内部の空洞部が圧縮され、その断熱圧縮によって火薬が発火するという仕組みである。渡辺少佐は実験を繰り返してその結果を上司に渡した。上層部としては「そんなことよりも腔発原因を探れ」という意見が大半を占めていたが、上司の桑田小四郎技術大佐の応援を得て、細々とではあるが研究が続けられた。そんな中、
「イギリス製スピットファイヤ戦闘機の20ミリ機関砲弾薬(イスパノ 20mm 用に遅延信管を備えた焼夷徹甲弾 SAP/Iか?)を押収したところが、その信管は雷管の上部が全部空洞であった。これはなんのためかわからないが、おそらく演習用のために不発にしたものだろうかと…」
という話を耳にし、発想の間違いなさの嬉しさとイギリスに先取られた悔しさとのまぜこぜ状態の中で、再度桑田大佐に訴え出た。その有効性に注目した造兵部設備課長熊谷大佐に話は通じ、すぐさま予算化が図られ、個人の研究は組織の研究へと大規模なものとなった。
「空気信管」
とも称されるこの信管は、腔発・暴発事故が激減し、生産効率が(これまでの機械式の)8倍余りとなり、戦争後半の航空機関砲弾の量産増大に貢献することとなる。情報交換の場で手に入れた海軍も「無撃針信管」として採用し、これまでの20㎜だけでなく新鋭の30㎜機銃などでも活用することなった。
この「空気信管」の有効性はその信管発動の遅延に難しい機構を組み込むことなく、頭部の触発部の厚さを変化させることによって、「瞬発」(目標に当たったらすぐさま爆発)と「遅発」(時間差で爆発)させることが簡単であり、翼・胴体に当たって爆発するのではなくその内部の燃料タンクなどに至って爆発することにより、敵機の被害が増大することに繋がるのである。このことは未だにホ103(12.7㎜)を主力としている陸軍で顕著に表れており、マ弾の有効性が向上することとなった。
「わ、私のやり方が悪いと?」
目の前の工場付き士官は赤黒い顔をますます滾らせて食いつかんばかりの口調で睨んだ。もしもこの場に医者や看護婦がいれば「患者を興奮させないでください」と言われたことだろう。しかし、もう慣れてしまった。何度そんな顔を見せられれば良いのであろうか?
「少なくとも、この工場での効率が悪くなっているのは事実です」
淡々とした私の言葉に、ますます顔を赤くする。あぁ、たおれないよな?
「あなたがやっていることは理解しました。他の工場でもあったことです。で、修正してもらいました」
「むむ………」
工場付き士官(中には下士官)はある程度以上の軍需品を生産される工場・会社に軍との連絡や軍事訓練、工場の管理・運営のために派遣される者である。本来、経理学校出身の数字に明るい者が派遣されるのであるが、たまに歩兵などの出身者が出されることがある。そして中にはかなり「精神論」での管理・運営を強要することがあった。
「学徒動員の生徒たち…高等女学校の女子が工場で働いてますね?」
「その通り、彼女らはよく働いてくれている」
大きくかぶりを振りながら答える。
召集のために工場の担い手が少なくなり、周辺の婦人たちが働き始めていたが、それでも数が足りない。ならば…と、政府は「学徒動員令」を強化して学徒労働動員を進めた。学徒動員は最初、大学・師範学校・旧制高等学校など20代・10代後半に対するものであったが、次第に戦況が怪しくなる中で10代中盤・10代前半の旧制中学校・高等女学校、各種学校、高等国民学校などの生徒にも目を付けた。
会社としても受け入れたことで損はしたくない。民間の工場では、それでも就業前の研修を繰り返してマニュアルを充実させ、細かな分業体制を組むことで対応していた。重要な工作は数少ないベテラン職人を集め、素人には「できること」をさせようとした。
この数少ないベテラン陣をあちらこちらで引き抜きを行っていた時期であり、多くは「日給制」であった職人はその日給の多い工事へと渡り歩いていたのも事実である。つまり、日によってベテラン職人が少ないこともあった。工場管理陣は頭を抱えた。もちろん日当を上げた者の単に競争になるだけだ。(このあたりが戦後の終身雇用にも繋がる遠因の一つである)仕方が無いので婦人・学徒の中でも使えそうな人物を当てはめることで過ごしていたが、やはり歩留まりが悪い。素人が四苦八苦しても「できることとできないこと」ははっきりしている。
「ならば工業学校の生徒たちは? 何をしているのですか?」
「こ、工場の周辺整備だ」
問題なのは女学生には工場で働かせ慣れない旋盤・バーナーなどを使って部品を作っているにもかかわらず、専門的な生産現場に興味のある工業学校(現在の工業高校にあたる)の生徒には清掃・草むしりをさせている現場にあった。なぜそのようなことをするのか? といえば、「工場で勤労に勤しむ女性との姿」という絵的な美しさを優先させていたに過ぎない。これこそが国全体をあげて戦時に勤しんでいることを示すはずだと考える御仁はそれなりに多かった。
「こちらとしては検査に耐えうる部品が多く必要なのですから、それ以上のことは会社に任せます。宜しくお願いします」
とペコリと頭を下げて軍需省の役人は工場を後にした。残されたのは工場の上層陣と工場付き士官である。
「あそこには定期的に人を出せ。これまでそれなりの品質のものを出していたのだから、ちゃんとすれば大丈夫だ。ただ、しっかりと監視しないとな」
「はっ」
戦争末期にもかかわらず大型乗用車の後部席に乗り込んだ役人は部下に伝える。
「負けるか…」
それまでの人好きな仮面を脱ぎ捨てた彼はそっと呟いた。
それでも、することはあるはず……
そして、その日を迎える
「アメリカ爆撃航空団報告書」
出撃機数 のべ25915
投下爆弾トン数 155000
投下爆弾数(発) 689000
未帰還機数 551
(うち、被撃墜確実数 358)
帰還後廃棄機 98
未帰還率 (%) 2.4
搭乗員犠牲者総数 2150(推計)人
空爆による犠牲者 110000人
『ドイツ本土戦略爆撃』より
いかがだったでしょうか?
え?
これで終わるの?
と言われることも覚悟の上で、とりあえず終わらせてもらいます。
これ以上は、「排気タービン過給機」に関係ないことが多すぎるかな?
という僕なりの終わらせ方です。
あれは?
あの機体は?
については、次の「終戦編」で……
ではでは。