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排気タービン過給機実戦へ(B29発進、日本爆撃へ)その11

皆さん、こんにちは。


終戦の予定が.延びました……二部に分けさせていただきます。

これも僕自身の「文章力」のなさですね。

大学時代の恩師の言葉が胸を過ります。

「ポチ君、あなたの文章を読む人は、自分よりも頭が良い人だと思いなさい」

つい説明をしてしまう私がいけないのです、はい。


では

お楽しみください。



 あなたの意見には反対だ。

 だが、

 あなたが意見を主張する権利は命をかけて守る。

                   ヴォルテール


   ◇          ◇


 闇と言うには外の星明かりがまぶしいほどであった。

 この高度では雲は何の影響もなく、頭上には満点の星が煌めいていた。地上では春を迎える時期であったが空高い季節の移ろいはその温度ではなく気流の違いが大きい。

 「西から東へ」

何でも日本の気象学者(大石和三郎氏)が本来薄いはずの空気の動き、成層圏での高速気流の存在を発見したらしい。そして噂によると陸軍のどこかの部隊がそれを利用した兵器を開発したという。その冬の遙か上空の気流を『ジェット気流』と呼ぶ。


 機内の通信員席に設置されている索敵レーダーの反応がブラウン管に薄く表記された。伊豆諸島や伊豆半島、房総半島などに設置されているそれぞれのレーダー基地からの情報は横須賀防空指揮所に集められ、そして陸海軍の航空隊に連絡される。


「敵の進行方向は東京を含む南関東と予想される」


索敵機が飛ばされると共に、情報は精選され対空戦闘に適切な時間に基地への発進指示(命令ではないのは、陸海軍の「縦的行政」のためである)が飛ぶ。上空で数時間待機するのは(特に夜間飛行であるから)搭乗員に我慢というストレスを与えるからだ。

 「五式夜間複座戦闘機(五式夜戦)」(キ102丙)

と称される機体は排気タービンのおかげで10,000mでもその機能を十分に発揮出来る。搭載されたハ112-IIル(金星62型+排気タービン過給機)は昭和17年末に採用されて以来、初期不良を押さえ込み、改良を重ね熟成されたエンジンとなっていた。陸軍の採用こそ遅かったが、海軍にとっては熟れたエンジンでそのマニュアルも豊富にあったために我が航空隊の整備員も当たり前のように整備してくれていたのである。確かに新型機であるけれど、キ45改(二式複座戦闘機「屠龍」)の正常進化形(性能向上型)である以上、その機体を整備してきた連中にはその延長上のものに過ぎない、機付きの整備員によれば

 「マニュアルは完璧ですよ、若いもんもいつかは慣れますし」

と明るい笑顔で応じてくれていた。すでに8,000mで滞空30分、エンジンも機体も何の不調も出てこないところをみると頑張ってくれていのだろう。感謝しかない。


「少尉、あと数㎞で射撃レーダにも写ります、下2,000、あと2度右に寄せてください」


索敵レーダー手も兼ねる通信員が声をかけてくれた。大学中途の「学徒出陣」である自分にもしっかり対応してくれる得がたい部下だ、彼の言うとおりに2度傾ける。数分後に正面、射撃レーダーに幾つかの白い輝点が写った、機首を西に向けておりその風のせいか速度がなかなか出ない。あと8㎞余り…。僚機に連絡をする。


 攻撃は正面から30㎜機関砲で1機撃破した後に、同行航行して上向き砲(斜銃)の20㎜機関砲で1機撃墜、1機撃破した。120機を超えるB29にどのくらい躊躇を与えたのかは分からないが、その日、キ45改(2式複戦)・武装百式司偵と海軍の月光、武装彗星など総勢40機余りと共同防空を夜間にできたことは、これまで1年以上を費やして指揮系統を整備した価値はあるのかもしれない、


 この日を以て、米航空隊は護衛戦闘機を伴わない関東地方への夜間爆撃を中止する。




 B29の断片的な情報は昭和17年から入ってきていた。B17でさえ手こずるのであるから、日本陸海軍は恐怖した。いや、「恐怖」したのは一部であり、陸軍も海軍もその航空機攻撃能力の高さは年寄りが占める(つまりは時代に取り残されている)上部には浸透しなかった。つまりは

 「たかが飛行機だろう?」

という感覚である。せいぜいが第一次大戦時の航空機の活躍くらいしか知識が無い。全てが艦隊決戦で決まり、あるいは歩兵の数的優位(中には「敢闘精神的優位」を主張していたが…)によって決まる…「戦略」より「戦術」しか頭にない感覚である。(陸軍では「空飛ぶ砲兵」的な考えが多かった)

 しかしその恐怖はじわじわと広がりを見せる。その中心点の1つが中島知久平である。

 「そんな機体が日本に来たとして、対抗できる航空機があるのか?」

国会議員を務めていただけでなく、それでなくても「声が大きい」知久平の言に頷く人々がいる。

 「『攻撃は最大の防御』ではないか? 中島は全力を以てそれ以上の機体を作り上げよう」

国会議員になることで経営こそ譲ったものの『大社長』とも呼ばれた知久平の言葉はその影響力を発揮する。いわゆる「Z機」、「富岳」の始まりである。(富岳のゴタゴタはここには記さないが、エンジンの開発だけでもそれだけで1文章出来る面白さである)


 但し、ここでは対B29に関わる防空について述べていきたい。


 戦前より、海軍はB17対策を考えていた。「哨戒爆撃機」であるはずのB17は、中太平洋での海戦で全てを決めたい日本海軍にとって、堕とすべき敵機であった。昭和10年前後より大型機対策のために「エリコン航空機銃」をライセンス製造し、その機銃を12試艦戦(後の零戦)に搭載することを決定した航空首脳陣の先見は間違いないものであったろう。(初期のパイロットからは嫌われていたが…)

 戦史によると、飛行中のB17を撃墜したのは日本海軍機「零戦」である。(誰が? ということについては論があるが、ここでは故坂井三郎一飛曹としておく。少なくともそれ以前より航空戦を行っていたはずのドイツ空軍ではないことは、会敵の機会が無かったからかもしれない)

 しかし、B17は堕としにくい機体であったことは開戦後しばらくの戦闘でもはっきりしている。海軍は99式20㎜機銃を長身化(エリコンFFLの国産には既に手を出していた)したり発射速度を高めたり保有弾数を多くしたり、はたまた30㎜(2式30㎜機銃、99式の拡大版)化したりとその対策に多くの時間と労力を費やした。対して陸軍はそこまで緊急のこととは考えなかったのは、情報の伝わり方が遅かったのか、首脳陣が阿呆だったのかはわからない。(少なくとも中国戦線で「15~20㎜クラスの機関砲を」と提案していた搭乗員の意見は後回しになっていた)変化するのは陸軍航空隊がニューギニア・ラバウル戦線で、B17などの四発機に遭遇してからである。確かに首脳陣は阿呆であろうが日本の軍隊は下層と技術者で持っていた。マウザー(英語読み。「モーゼル」という読み方もあるがそちらは明治・大正期のフランス語絡みの日本独特の読み方。よく別の会社と考えられる方がおられるし、雑誌などでは拳銃・小銃は未だに「モーゼル」表記が多い)MG151/20の高評価を聞きつけて、潜水艦で輸入する。

 日本の「架空戦記」の中でよく「マウザー砲最強説」が流布されるが、基本的な性能を見ると99式2号20㎜や陸軍のホ五20㎜と比較して「最強」と言うべきものではない。そして重い、かなり重い。99式1号20㎜機銃よりも倍近くの重量である。日本海軍が戦争半ばより片翼20㎜機銃×2基という武装ができたのは、(主翼の構造強化もあるが)その軽さと低反発性も影響する。(ドイツ空軍がFGFF(エリコン系)を終戦まで使っていたのはMG151/20の生産量もあるが、その軽さが必要だった)ただ、3式戦闘機の搭乗員は歓喜し、絶大な声援を送った。

 「これならばB17に十分に対抗出来る」

で、陸軍としてもマウザー砲を国産化出来るか確認した。できなかった。といっても日本だけのことではない。アメリカでさえできなかった。(まあそのころのアメリカはドイツのMG42とかFG42とかいろいろ国産化の道をたどろうとしていたが失敗している、だいたいメートル法からフィート法に直すところ(とされているが、ホントはよく分からない)で失敗している。イスパノ・スイザ HS.404 20㎜機関砲などは改良に改良を重ねても「使えねぇ~」と外された。よくもまあ生産出来たなぁ、海軍のエリコンSS(FFS)対空機関砲。まあきちんとしたライセンス生産のためだろうけれど…)しかし陸軍はすでにホ五2式20㎜機関砲の生産を始めていたのだから、わざわざ試作・量産までに時間がかかる(最低1年)マウザー砲にはそれほど固執する必要も無かったろう。(海軍などは最初から「フーン」状態である。これを生産するくらいならばライセンス不要なより高性能の18試20㎜機銃を生産していただろう(戦時中だったので99式に全力を振った))

 その後、海軍はよりB29に対抗出来る5式30㎜機銃の生産を行い、19年後期からの機体には搭載を続ける。陸軍はやっと生産の軌道に乗ったホ五2式20㎜機関砲を多用することとなるが、もちろん30㎜化する努力を続けていた、ホ155 30㎜機関砲がそれであるが、軽量なホ5を拡大しただけに過ぎなかったためか(だいたいホ5にしてもその先行的なホ103にしても原型はAN/M2(MG.53-2)の小型版であるMG.53-A)強度的には不足した。改善よりも海軍の5式30㎜機銃(初期不良は多発していたが…)を陸軍も採用すると共に、37㎜砲ホ204などの大口径機関砲開発に勤しむこととなる。


ところで、B29の情報が確実なものとして日本に入ってきたのは昭和18年の春である。一つの新聞記事であったとされる。


 「B-29の開発を急ぐアメリカは、1942(昭和17)年9月21日に試作1号機XB-29-BOを初飛行させます。しかしこの試作1号機も1943(昭和18)年2月18日、エンジン火災を起こして墜落します。搭乗していたボーイング社のテストパイロットや技術者、墜落した先である食品工場の従業員や消防士など31名が死亡する惨事でした。試作1号機がいきなりB-29墜落事故第1号になったのです。

 アメリカ議会に調査委員会が設置されるスキャンダルでしたので、事故自体は公表されなかったものの情報はメディアに漏洩し、日本にも知られることになります。」

                     「乗り物ニュース」より


よくB29は「排気タービン付きエンジン」とされているが、Wright R-3350 Duplex-Cycloneエンジンは排気タービン付きというより(排気タービンも付いている)「ターボコンパウンド(排気ガス利用でも駆動を行う)エンジン」と呼ぶべきものである。このシステムはディーゼル搭載の船舶では珍しくない(知られているというレベルで、複雑さを嫌う場合はわざわざ搭載しないシステム)が、排気ガスを再利用してタービンを回しそれを出力の一つとして利用するものである。この小さいエンジン(まあ日本のエンジンよりはかなり大きいが…)にこれまでの機構を盛ったのだから、なるほど発火しやすいエンジンになる。(改善に改善を重ねて再設計までして1960年代まで生き残るが…)

 いずれにしても、この報道が本格的に日本にB29を知らしめた。(以前より噂程度の話は入っていたが…)

 「この機体が配置されたら…」

という恐怖は、日本の航空界にじわじわと広がった。



「排気タービン過給機を載せられる機体はないか?」


そのころの日本本土の防空に対しては、基本的には陸軍がその責任を持っていた。(軍港などは海軍区分)しかし、その主力は(新鋭機の一式戦・二式戦が外地に行っているために)97式戦というありさまで、ひいき目に見ても防空の任には適していなかった。それはかのドリットルB25本土来襲での陸軍の防空体制、その動きにも現れている。

 そして陸海軍の軍的な壁を軍需省がぶち壊す。


「次から次へと『武器を作れ』、『増産しろ』と言われても、アメリカが無差別爆撃を行ったら、そんなことを言っていられませんよ」


 海軍の海上護衛総隊の活躍もあって(もちろん、現地での民間企業の鉱山・油田開発部門の必死な行動の方が「正史」の中に埋もれているために知られていないが…)東南アジアからの資源輸入量は逓信省・軍需省の予想よりも多くはなっている。そして本土での量産は軍需費と同様の右肩上がり状態が続いていた。(その反面、軍需・民需品の生産こそ多くなっていたが、東南アジアに関する資源輸入に対して民需品輸出が少なくインフレ状態も続いていた)陸海軍共に、戦線拡大の片手間のことと意識の端にも思い浮かべていなかった本土防空を本格的に考える時期となったのである。



 「約70機、東シナ海より来襲」


 佐世保より連絡が来る。海軍は大村基地から索敵機を出したらしい。

狙いは佐世保? 長崎? 福岡? はたまた八幡?

海軍は大村より迎撃機を上げた。佐世保や長崎が狙いならば主の攻撃は海軍となる。しかし福岡や八幡ならば… 陸軍が主となるはずである。芦屋基地にいる我が陸軍の航空隊はそれに備える。大刀洗からは百式司偵が索敵に飛んだらしい。かの基地に配備されているのはうわさによると機関砲を備えた機体だという話で、単に偵察・哨戒だけでなくキバを持っている。


 「敵機、佐世保地域の北、福岡方面に向かう。我、これより攻撃す」


基地の戦闘指揮所ピスト前に待機していた搭乗員たちがざわめく。イライラした雰囲気が周囲にじわじわと広がる。その興奮状態はもう爆発寸前だ。出撃命令はすぐさま出た。愛機はその軽さを生かして急激に上昇する、と言っても何度かエンジンの調子を確かめるために同一高度で大きく旋回しその高度にエンジンと自分自身の身体を合わせる。キ100は陸軍としては初めての排気タービン過給機を搭載した戦闘機である。


 「新司偵のエンジンを載せみては?」


陸軍の航空技術研究所より排気タービン過給機をキ61(三式戦)にと提案されたのを受け、川崎は難色を示した。キ61に搭載されているハ40エンジンは初期の不良状態をブレアリー研究所などからの援助もあって、合金、そしてその製造技術が向上し少しずつ克服してきた。(これにはハ40に対するニッケル合金代替品の緩和も有効に働いた。また愛知との情報交換によって焼き入れ工程の徹底管理により部品製造の歩留まり向上もあった)このエンジンに排気タービン過給機を付けることはエンジン重量が増し、また新しいハ140エンジン開発に向かっている川崎のエンジン開発陣はその人員が少なく大改造することに繋がる排気タービン過給機搭載に負担が大きすぎるということである。

 ならば… と声をかけたのは高山の研究所から三菱に出張したついでに話し合いに参加した研究員がそう提案したことから話は進んだ。川崎としても他機(99双軽・二式複戦)で他社空冷エンジンを搭載しており、機体の改造で新しいエンジンを組み込むというのも一つの手だと提案に乗った。陸軍もせっかくの排気タービン過給機に期待して新しい機体番号として「キ100」を割り当てるほどの盛り上がりを見せた。結果として速度こそ三式戦よりも遅いものの空戦能力も高く、高高度性能も申し分ない機体として仕上がった。とても「間に合わせ」的な機体とは思えないほどであった。Ⅰ型から排気タービン過給機付きの金星62型エンジンであったものの、特にⅡ型にはインタークーラーを付け対B29に特化した機体として量産が成されたばかりの二式20㎜機関砲を4基搭載していた。(Ⅰ型は20㎜と12.7㎜の混載)


 芦屋や大刀洗の基地には一式戦・二式戦の飛行隊が駐屯していたが、大陸のB29基地建設の話から日本空襲も間近いと、採用されたばかりのキ100と4式戦の編制中の部隊より一部出向させる形で、実戦投入することとなった。


「前方に敵機、こりゃ多いぞ」


 できたばかりの福岡の春日戦闘指揮所からの未だ不安定ながらの連絡に導かれるままにキ100Ⅱの小隊で玄界灘を西に向かう。目の前に広がるのは日の光を浴びてキラキラと光る雲霞の群れ、いやB29の群れだ。海軍の戦闘機や武装司偵が数機堕としたとは聞いているがそれ以外はびくともしていない。

 光像照準器に光を入れる。これまでの100式と比べ3式射撃照準器には小型機・大型機に併せてそのレティクルの目盛幅を変えることができる構造があり、開戦以来のB17・B24対策とされていたがこのB29にも十分に発揮出来るものと考えられていた。


「でかいな… こりゃ」


B29攻撃方法についての研究の一環として、南方で捕獲されたB17を飛ばしてその姿を見たが、それより大きい、間違いなく大きい。目の前にするとその巨大さに距離感が狂ってしまう。


「B17の1.5倍と考えれば良いのかな?」


これ以上、レティクルの目盛幅は大きくできないことに戸惑う。ただ、敵機の高度は7,000m前後であり、2、3度は攻撃を加えることができるだろう。10,000mまで上がったら? その時こそ、この機体の出番だ、じっくりと攻めていこう。

 自分の小隊が攻撃に移る前に、既に一式戦や二式複戦がB29に取り付いていた。しかしせいぜいが12.7㎜機関砲である、その弾数を浴びせ続けないと損害を与えることができない。しかもやはり距離感を正確に捉えることができておらずに距離を取り過ぎた攻撃になっているようだ。それでも数は暴力なのか、集中して狙われた数機のB29が煙を出しながら離脱していく。その離脱して高度を下げるB29を一式戦が複数で追っていく。他のB29は高度を上げるようだ。それらの機体に4式戦が攻撃を続けていた。

 そのような状況を見つつ、狙いを定める。B29に同行しつつ、4基の20㎜機関砲を撃ち出す、未だ遠い、スロットルを開ける、この高度でもエンジンは馬力を上げてくれた。数回20㎜を狙いの機体に撃ち込むと、やがて右内側のエンジンから出火、火はすぐに消えたものの燻っているのか白い煙を細くたなびかせて、やがて下へと逃れるかのように機首を下げた。下空には他の基地からも出撃したのか97式戦や一式戦が群がりつつある。


「次だ、あいつは下の連中に任せよう」


1機でも離脱させた方が良い、高度を取りつつあるB29に十分に対抗出来るのは、我々だけだろう、一式戦や二式戦がこの高度にたどり着くまでにはB29は逃げてしまう、対処できるのは我々とせいぜいが4式戦だけだ。

 そう我が機ならばB29を追うことができる。


「あと2、3機は撃破出来るぞ」


仲間に鼓舞したあと、自分の小隊を次の敵機に向かわせた。



 この日、日本本土への初爆撃、八幡製鐵所を第一目標として出撃した75機のB29のうち、目標を捉えた機体は1(つまり八幡製鐵所の被害はほぼ無し)、目標付近(市街地を含む)に爆撃を行えた機体は44機、事故・故障による損失は5機、撃墜9機、撃破15機(内、基地にたどり着いた機体は6機)、帰り着いた49機で次の出撃に応じられたのは42機であった。

 結果として日本側の市民に156名の犠牲が出た。


 米陸軍は中国奥部からのB29攻撃はその努力(航空機を使った輸送体制など)に応じた戦果を出すのは怪しいものと考えた。事実、同規模の空襲を行うために三ヶ月の時間を費やすこととなった。

 そして日本陸海軍はB29に対抗するのは、まだまだ問題が山積みされているということを改めて知った。


 日米はともにその日を境にして、それぞれに新たな方向へと舵を取った。



いかがだったでしょうか?


最初の空戦は「東京大空襲」を設定してます。次回に説明しますが、B29は

 高高度精密爆撃 → 中高度無差別爆撃 + 夜間爆撃 + 機雷敷設

などのように推移します。常に高高度爆撃を行ってたわけではありません。


現在悩んでいるのは「硫黄島」をどうするか?」 です。

終わり方はとりあえず作成しました、というか、この文章には載せてませんけれど最初に作ってこれにどう結びつけようかと悩んでいたら、長くなりました(泣



次こそ終戦を迎えたい!


ではでは。

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― 新着の感想 ―
[良い点] キ102とは渋いw 個人的にはキ83が好きです。 あのつるっとした感じが良いですw [一言] ≫拳銃・小銃は未だに「モーゼル」 拳銃だけは「モーゼル」読みじゃなきゃイヤw しかしマウザー…
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