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排気タービン過給機実戦へ(前哨戦、その時中島は?)その10

皆さま

いかがお過ごしでしょうか?


こちらでは10日程前に雪が降りまして、山の麓(正確には扇状地?)の職場のため、軽い上り坂でさえ焦りまくって登りました。動いているときは大丈夫ですが、一旦止まると…やっぱりFRは雪に弱いですね。

雪国の人、お疲れ様です。


さて、やっと開戦後の話となりますが、活躍するのは前述の二種の航空機です。

どう活躍するかは、ぜひ読んでいただければ…


ではでは。





ぼくがいい先生だと思えるのは、質問されるまで黙っている先生です。そして、質問されたら、答えではなくて質問で返す。答えを与えるのではなく、最初の質問で感じた疑問をもっと大きく成長させて、さらに大きな疑問にしてくれるような先生です。

                 「答えより問いを探して」高橋源一郎


   ◇         ◇


カコンというやや軽い音と共に日の丸の中央部が丸く空く。慌てふためくような様子で整備員がその日の丸付近に梯子をかける。窮屈そうに降りてくる士官のその第二種軍服の白さがこのような最前線の航空基地に違和感を感じつつも、周囲の兵も士官も異様さよりも畏怖の方を大きく感じ入っていた。

 上空を零戦が3機、3機と飛び去る。2機目に降り立った双発の機体からも数名の白い軍服姿の人が降り立ち、海水と廃油を撒いた滑走路でも禦ぎきれない土埃と共にこちらへと向かって脚を急がせていた。


「長官…」


「うん、助かったね…うん」


大きくうなずく。

周囲の兵も士官も挙手の礼を掲げ、それに軽く応えるかのように右手を挙げる長官。


「宇垣君」


周囲を見渡すような動作を取りながら、長官はぽつりと告げた。


「はい」


鉄面皮と呼ばれるその顔に、少々焦りが見え隠れしている。


「せっかく変えた暗号だが、どうもすぐさまに変更する必要があるな…根本的に…」


その上空を9機での編隊で飛び去る機体があった。前にフライングパスした零戦とは別の塗装でエンジン音が重々しい、それでもよく似た機体が翼端を軽く振り、そして上空に消えた。



昭和17年に採用された二式局地戦は、早速Bー17に悩まされていたラバウル方面へと実戦実験がてら一個中隊が派遣された。同行したのは零戦32型に30㎜機銃を搭載した、こちらも実戦実験機3機である。エンジン自体はよく知られていた「金星」でもあり、水エタや排気タービンのために会社からの派遣技師・工員が付きっきりで整備し、熱帯地方独特の調整を行った。米軍の爆撃により破損した機体もあったが、対Bー17に対してその高度的有意差を発揮して、ラバウル司令部もかなり満足した成果を上げることができた。数は少ないものの補給された機もあって、一個中隊は縦続した戦闘を続けていた。

「妙に速いゼロが来たら、急いで逃げろ。上でも下でもなく」

とBー17の搭乗員の中では噂になっていた。


「長官機への護衛を減らせと?」


「長官自らの話だ。前線の混乱をなるべく少なくして必要最低限で頼むと…」


「無茶ですよ、そんな話…で? 何機を?」


「9機…一個中隊……、それ以上は不要という話だ」


 昭和18年、ラバウル・ニューギニア・ソロモン諸島を舞台とした日米の戦いはピークを迎えていた。小さな戦闘を含めると艦隊戦だけで十数回、ソロモンの海は日米の艦艇・船舶の墓場となっていた。海上護衛総隊第二護衛艦隊の活躍によってトラック諸島・ラバウル方面への輸送は比較的安定しており、またソロモン諸島での駆逐艦の損害も丁型駆逐艦の量産によってギリギリの数が依然確保できていた。艦隊型駆逐艦乗りからは「雑木林」と揶揄される丁型駆逐艦であったが、その沈みにくさや防空・対潜能力の高さから次第にソロモン諸島界隈では数を増やし中心とした戦力として育っていった。


 連合艦隊は「い号作戦」のため司令部をラバウルに移し、山本長官自ら戦意高揚のためにソロモン方面への「巡行」を行うこととした。

 その日、昭和18年4月18日、2機の一式陸攻に分乗した連合艦隊司令要員は6機(9機であったが、途中不調による帰投機)の零戦に守られてラバウルを出発、ブーゲンビル島のブイン基地を目指した。ラバウルを出発して1時間半余り、


「退避ーーーー!!!!」


と、機長が大声で告げ、急激に右に機体を滑らせた。飛行機に乗り慣れていない司令部要員は腰に巻いたベルトがきつくしまり、身体が機内に飛ばされそうとなった。と同時に先ほどまで陸攻がいた場所付近に赤いキャンデー状の機銃弾が飛ばされていた。別の窓からはモクモクと煙を吐いて足早に墜ちていく機体が見えた。独特のスタイルの機体だ、P38だ。そしてその煙はあと数本見える。陸攻は右へ左へと退避行動をとる。上部の機銃も激しく打ち鳴らされ対抗しているようだった。バラバラと薬莢袋から零れた薬莢が機内に散らばる。数発の機銃弾が機体後部を貫いた。そして戦闘は始まりと一緒で唐突に終わった。陸攻はまた直線飛行へと戻る。

その上空を零戦が左右を旋回し警戒飛行している。その数は10機を遙かに超えていた。


 6機の直衞の零戦とその2,000m上空に存在する9機の警戒機、P38は直衞機のはるか上空から襲うはずだったのだが、その頭を抑えたのが2式局地戦であった。奇襲をするはずのP38は2式局地戦から奇襲を受けたのである。

 山本長官の前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された。もちろん暗号電文である。しかし、2週間前に暗号が変更されたばかりであり、前線では前の暗号(暗号解読の恐れがあったものの)も利用され、中には平文で流されたとされる。当然、アメリカ軍に傍受されていた。

 「出発日時・出発地・現地到着時間・飛行コース・護衛体制」

などなど、アメリカ軍は狂喜した。「ヴェンジェンス作戦」と称されるヤマモト機撃墜計画が立案・承認された。

 P38戦闘機は18機、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を出撃する。(途中で2機がエンジン不調のために帰投)断片の雲に隠れた形でヤマモト機をブーゲンビリア島上空で確認、直衞機が情報通り陸攻にへばり付いていることを確認する。一撃離脱するためにその高度を利用して突撃しようとする寸前、1機のP38が爆発しそれを追う形で3機の僚機が煙を流す。どこにいる? 太陽の中から9機の零戦に似た機体、Bー17の搭乗員から聞かされていた「妙に速いゼロ」である。躊躇うこと数瞬、


「ヤマモトを殺せ!!」


残機は次々と降下を始める。ところがそれに着いてくる「妙に速いゼロ」。編隊による攻撃はもう諦めた。強襲によって退避行動をする敵機に一撃を浴びせ、そのままヘンダーソン基地を目指して逃避行動をとる。ところがいくら高速とはいえ、頭を抑えられた機体は直衞のゼロにも数機堕とされた。ヘンダーソン基地に戻ってきたのは7機となっていた。

 本来9機(離脱により6機となったが…)の護衛を確認していた連合艦隊司令部であったが、二式局地戦の指示系統(実験部隊であることから)から言えばラバウルにはなく横須賀航空隊にあったことで、横須賀は連合艦隊司令部の指示「少数による護衛」を無視した。万が一どころか億が一の可能性を恐れたのである。

 「間接護衛ならば許される」

 「たまたまそちら方面に長距離実験飛行しているだけ」

などと理由付けして2式局地戦の実験部隊に別件として指示をしていたのである。




 戦前より東南アジア方面に隠密バレバレだが…偵察を繰り返した百式司偵は、開戦後もその活躍の場をインド方面やはたまたニューギニア島やオーストラリア方面へと広げていた。その速度と高高度性能は、連合軍の頭痛の種であり

「どうにか落とせないものか?」

と、イギリスの高高度対応スピットファイヤーを取り寄せようとしたがイギリス本土も余裕があるわけではなく、通常型のスピットファイヤー(戦前からの契約)でお茶を濁そうとした。しかし対応できない。6,000mからの上昇力にはかなわない。結局は高高度戦闘能力ができるスピットファイヤーの配備がされる昭和18年の秋以降までインド・ビルマ方面は百式司偵が安全に運行できる場となっていた。また太平洋方面ではアメリカのP38での迎撃に始まった。この機体は高高度戦闘に特化していたが、それでも数を集めないと逃がすことがしばしばあった。なにせコースを決めるのは百式司偵側にあったからだ。

しかし日本陸軍としても、P38が待ち伏せした際には損害を出すことがあったことに、より高速化を狙っていた。

 実は百式司偵は海軍でも使っていた。陸軍からの貸与という形でいくつかの航空隊が所有していたのであるが、以前使っていた98式陸偵(97式司令部偵察機の海軍バージョン)もその速度が時代にそぐわなくなり(といってもホンの2,3年でのことであるが…)より速度の出る機体を望んでいた。また海軍としてはより航続力のある機体を欲っした。陸海軍の期待を背に三菱は最初、2式局地戦に搭載している「金星50シリーズ+排気タービン過給機」エンジンを流用しようとした。ちょうど60シリーズの「金星」(「金星」エンジンを陸軍がここで始めて採用した)が完成したこともあってこの機体への搭載を決定する。機首部分を「段無し風防」として機体内の燃料槽を防弾・防漏化した上で大型の落下式増槽を搭載するようにした。陸軍に制式採用されて後に、海軍も制式(それまでは準制式装備機)に採用し「3式陸偵(時期的には2式だが、「2式陸偵」は既にある(後の「月光」))」と称されるが、海軍航空隊は「新司偵」あるいは「百式」と呼んでいた。後に「段無し風防」部の曲線ガラスによる視界のゆがみを嫌い、以前の風防形式を活用した21型が主流となる。(なお機体形状の変更に伴う速度の低下は2ノット程度であり、高高度ではほとんど変化がなかったらしい。海軍側の正式記録では最大速度は346ノット(640㎞)/h/10,000m))

 これらの新型司偵は終戦まで東南アジア・中国大陸・太平洋諸島などの各地で活躍することとなる。


 陸軍としては百式司偵の成功に気を良くして、他機への排気タービン過給機搭載を考えた。しかし思った以上にそれに即する機体がない。なにせ陸軍機は基本的に地上支援を中心に考えて作られたものであり高高度性能などは偵察機くらいしか使うことが少なかったからである。



「うちでは必要ありません」


これまでの成果をもとに中島飛行機を訪ねた陸軍航空研究所の所員にきっぱりと言い放った。


「排気タービン過給機の優れた成果は分かりました。しかしうちのどのエンジンに使えますか?これまでのエンジンはだいたい三菱さんのものでしょう?うちとしては…」


かぶせるように応える研究所職員


「しかし、これまで半年間の戦闘報告を受けると、もう少し高高度の戦いになることが…」


研究課長の新山春雄もそれにかぶせる。


「すでに考えてます、というか既に連絡はしているはずです。もう実証実験を始めてますよ。お山で…」


『お山』とは、かの乗鞍岳の研究所のことである。


「良い数値は出てます。とりあえず現在はハ115(「栄」)で行ってますが、もちろんハ45(「誉」)でも…」


中島飛行機という会社は「反骨」という言葉が似合う会社である。なにせ創業者の中島知久平という人物自体、すさまじい経歴とその発言に周囲は戸惑う。(中でも川西との確執はその後に与えた影響も大きい)それこそ戦間期の日本の航空戦力を推し進めるためには周囲の声をどうということも聞かずに、必要とあれば政治家として出馬してまでも影響力を発揮するという、ある種、周囲には「頭が痛い」人物である。そしてそういう人物が率いる会社も

「できない」

と言われることをしてしまうことに喜びを持つ、そんな社風に溢れていた。

当時のことを中川良一氏(「誉」設計主任)は


「まず全体に流れる自由な社風である。もちろん組織はあるのだが、組織の中でも別の組織の人でも自由に話し議論することである。こと技術の議論だと先輩も後輩もない、部長も課長も無く自由に議論する空気である。」


と述べている。三菱の官僚的縦型組織とは別で横の付き合いがかなりスムーズであった。

そして三菱をいつもライバル視していたのも間違いが無い。


 中島が狙っていたのは「二段三速機械式過給機」であった。中島にとっては未知の排気タービン過給機に比較して、現在の技術の延長上にあると判断していたのである。そしてその開発は三菱が排気タービン過給機を実用化する中で加速する。「三菱に負けるな」その一言である。


「さつはだぶつく お米はあがる 何でもあがる あがらないぞい 中島飛行機」


立ち上がったばかりの中島飛行機の失敗続き飛行機の飛ばないことを絡ませた歌を現地太田の人々が揶揄ったのがうそのような時期である。エンジン部門は団結しこの過給機に賭けた。

 前述のように日本の機械式過給機の歴史は欧米の流行を受けた「寿2型」エンジン(陸軍は採用していないので名称なし。「ハ1」は「寿3型」に相当する)から始まっている。その後のエンジンには一段一速の機械式過給機は当たり前のようにつくこととなるが、その後「一段二速機械式過給機」になるには、周囲(欧米)の動きが必要となった。簡単に言えばそのモデルができない状態で新たな機材を作れる能力がその頃の日本にはなかったからだ。結局、アメリカの航空機の中で「一段二速機械式過給機」が採用されて後に日本でも「栄」・「瑞星」・「金星」・「火星」エンジンへの搭載開発・採用が始まった。

 ちょうど一段二速過給機を採用する直前に、中島飛行機にアメリカのカーチスライト社の技師・工員がエンジン生産工場の指導のために訪れているが、同社から情報が流れていただろう。戦前のある時期はアメリカと日本はかなり企業の交流が盛んであった。

(ちなみにアメリカは技師たちの帰国後の報告を受けて中島工場のエンジン生産最大数を判断したという)

 では「二段三速機械式過給機」は? 三菱も特にイギリスの実用化を受けてそれなりに研究を続けていたが、より積極的だったのは中島である。その第1段階は「誉」にあった。「誉」エンジンの開発過程を見てみると、最初から「二段三速機械式過給機」を搭載することを想定していることが分かる。というよりその過給機有りで開発が最初から進んでいる。それは誉11型の中島内名称がNK9Bであり、二段三速機械式過給機付きの誉41型がNK9Aであることからもこれを念頭にしていることが理解できるだろう。(さすがに社内でも止められたのか)途中でとりあえず一段一速の機械式過給機を搭載したエンジンが試作され、その高性能に海軍が大喜びして早速採用した(このあたりが誉の出力低下という悲劇に繋がる)のであるが、中島としては「18気筒版栄」という中途経過実証実験エンジンに過ぎなかったろう。誉エンジンは初期の不具合や量産に向けた改良・改善が続けられると共に、初期の目標である「二段三速機械式過給機」の搭載研究が併せて始められた。

 この過給機自体は過給された空気が過熱する(なにせ一旦圧縮された空気を再度圧縮するために空気はより高温になる。圧縮・膨張による空気の温度変化は冷蔵庫・エアコンでもお馴染みのことだ)ことをインタークーラーで冷やすことにする。このあたりには陸軍航空研究所や日立・石川島の技師が改良に参加し、排気タービン過給機の経験から吸気のパイプ等も効率よく整理されたことである程度は抑えることができ、インタークーラーを含めて地上試験では問題が無いくらいになった。過給機に併せてエンジン自体も強化された。低圧燃料噴射装置などの補機類も実用化に移っていく。

 しかし、問題となったのは

 「フルカン接手」

流体物質オイルなどを介して回転運動の伝達を行うクラッチの一種である。現在自動車に搭載されているATオートマチックトランスミッションのほとんどに利用されているトルクコンバーターを考えると良い。(軽や小型車はCVTが主流となりつつあるが、未だにトルクコンバーターを介するものある)中島は過給機にフルカン接手をつけることを考えていた。

 実は過給機の問題でもあるが、その設定している高度前後はエンジンの馬力が高くなるもののそれ以外はどうしても馬力は落ちる、しかも極端に。グラフを描くと峰高い山である。もしも二速式であれば馬力の山は2つになり、その間は劇的な谷となる得る。その高度に特化したのであるから当然なのだが。しかし、ダイムラー・ベンツ DB 601には「フルカン接手」が過給機に備わっていた。過給機こそ機械式一段二速式であるが、フルカン接手によって1速から二速へと無段階に変速できる。(そのためカタログ上では「一段一速」となっている)つまり出力傾向はなだらかな1つの山のような状態であり、この存在によってドイツ機はその高度に適切な過給ができることとなった。(もちろん一段二速であるので高高度には対応でないために、二段三速機械式過給機を開発する)日本では川崎と愛知がDB601を生産していた(ハ40・アツタ二一型)ので現物は手に入った。

 中島はそのスムーズな出力曲線に憧れた。1,000~12,000mの間、エンジン出力を気にせずに飛行できる。エンジン設計者としては夢である。ところが「二段過給機(つまりは2つの過給機)」にはなかなか適応できなかった。実用化までには時間がかかる。このままでは間に合わない。中島はその現実を渋々受け止めた。ならばどうする?

 1つには「排気タービン過給機」を誉エンジンに搭載すること。すでに日立がその搭載についての実用化を進めていたために早期にできた。海軍の「彩雲」・「紫電改」、そして開発が続く「連山」に採用される。陸軍はといえば(情報は届いていた)Bー29対策のための高高度戦闘機キ87(中島)、そして立川のキ94Ⅱ用にハ-44(「寿」の18気筒版)への排気タービン過給機搭載を決定した。しかし中島はまだ「二段三速機械式過給機」にこだわる。なにせ主力というべきキ84(四式戦)にである。(Ⅲ型という排気タービン過給機搭載の試験機はあったが結局採用されていない)他機も改良が続いているが、二段式の過給機を搭載するためには搭載するエンジンの能力が低い。少なくとも1,500hpが必要であるが、該当する二式戦にはそれだけの空間(隙間)がなく、だいたい二式戦に「誉」を搭載するよりも新型機を開発した方がマシだと四式戦の開発が始まったのだから本末転倒である。

 2つには「とりあえずできた」二段三速機械式過給機をフルカン接手抜きで搭載することを決定する。エンジン特性としては出力の山が3つできるが、二段三速機械式過給機の実用化への道を通すことをまず考える。ハ45(誉)4○シリーズがそれである。そのエンジンを搭載して、機関銃を20㎜4基にしたキ84Ⅳ型甲・乙(フルカン接手搭載)・丙(中間冷却器を省いた簡易型)の3種類がほほ同時に開発(正確には増加試作機の改装)され、最初に甲型が生産される。そしてその初期の機体で編制された部隊は九州に配備された。




そしてB29は九州を襲う。




いかがだったでしょうか?


二式局地戦がどう歴史に関わるかと考えると、この時期しかないと「やっちまったなぁ~」状態です。この後だと雷電にかぶりまくりですしね。

百式司偵は排気タービン関連でちょっと前倒した形での採用状況ですが、まぁこれはこれでいいかな?


問題は、中島飛行機ですね。

どう絡ませようといろいろと考えて、今回のように「二段三速機械式過給機」を先行させました。一年くらい早いかなぁ~ まぁ「フルカン接手」にこだわらなかったらとりあえずできるかも? と考えました。三菱の排気タービンに対抗する意志の強さを感じてください(笑

しかし、B29に対抗する機には排気タービンを付けてますし…三菱も二段三速機械式過給機にはフルカン接手を開発してますし…どう隙間を埋めようかと悩みは多いですね。


さて、B29が本土を狙います。

次回はたぶんその対策や戦いが主になると…(筆者の思い

どの機に排気タービンを載せようかとワクワクしてます。


ではでは。




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