排気タービン過給機実戦へ(ニッケルヲ確保セヨ)その9
皆さん
こんにちは。
前回の僕的「雷電」ですが、あまりデザインを出してなかったことへのおしかりがありました。
ミニキ87(中島) + 雷電
を三菱で作ったら…というデザインです。もちろんあれだけ大型機ではないですけれどね…
さて
開戦した?
さぁ…何のことでしょう?
そうなんです。
ニッケルが悪いのです。
日本でほとんど産出しないニッケルが…
ということで、一文章になってしまいました…トホホ
ではお楽しみください。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。
「檸檬」梶井基次郎
◇ ◇
「合金」とは何か?
基本的には、鉄もしくは銅・アルミなどのメインの金属に対して添加物(他の金属・金属以外)を加えたもので、その添加物の微妙な比率で新たな性質を持つ金属を称して「合金」と称している。ステンレスやジュラルミンも合金である。古来の「青銅」は軟らかい銅にスズ(Sn)を数パーセント混ぜることでその硬さを持たせ兵器(刃物)として活用できた。「青銅」の始まりはシュメール文化と言われているが、その頃、産出される銅鉱石にスズが含まれていたことから最初から
「銅」製品 = 「青銅」製品
であったらしい。更に言えば銅鉱石の産地によってスズの含有量が異なる(つまりは硬度が異なる)ことに気づいたシュメール人(後のメソポタミア人)が人工的にスズの銅の比率をその用途によって変化することで「合金」という文化が始まった。
ちなみに日本の銅鉱山から産出される銅鉱石にはスズはほぼなく(というか、日本ではスズはあまり産出していない)、対して金や銀が含まれており、室町・戦国時代の銅鉱石(あるいは精錬されていない粗銅)輸出(かなり輸出品の主力)自体が他国に安い値段で金・銀を渡すこととなる。(「灰吹法」という銅鉱石から金・銀を分離することが日本で始まったのは戦国末期)
『黄金の国ジパング』
は、マルコ・ポーロ以降も次第に欧州にも広がっていく。(ただヨーロッパはこれ以降各国が不安定となり互いに戦争をし続け(互いの王室が親戚関係ということもあって戦争というより権力争い的な内乱に近い)旧教・新教入り乱れての宗教的内乱、寒冷化(セーヌ川が凍った)による飢餓状態などもあり、極東・日本にかまけることができなくなった)ヨーロッパが日本を目指すのは「産業革命」以降になる。
その「産業革命」の柱は何か?答えは分かっている。
「鉄」
である。「鉄」を巡る歴史の変遷はそれ自体が興味深い(星野之宣氏の『宗像教授』シリーズは必見)ものがあるが、幕末期の佐賀藩や薩摩藩、そして伊豆(韮山)代官の江川英龍が反射炉を作るために四苦八苦したのは、鉄を多量に必要としたからである。ヨーロッパやアメリカの「黒船」に対抗するためには鉄製大砲が必要とされた。
ちなみに地球はその全体の30パーセントが「鉄」であり、地殻の8パーセントが「鉄」であるという。そしてそれ自体を溶かしても脆い「銑鉄」(南部鉄瓶に代表されるいわゆる鋳物)しかできない。それを使いやすい堅い「鋼鉄」にするにはさまざまな方法がとられる。現代では「高炉」で銑鉄を作り「転炉・平炉(反射炉は平炉の一種)」で鋼鉄化する方法が一般的であるが、この連続した安定した一貫製鋼による「鉄鋼」が作られるようになったのがクルップであり、「クルップ鋼」が有名になるきっかけでもある。
では「鉄」と「鋼」の違いは?答えはその組織の中でのケイ素、リン、硫黄などの不純物の除去であり、炭素の含有率の違いである。簡単に言えば鉄は既に「合金」なのである。(更に除去を続けた「純鉄(超高純度鉄では純度99.9996%とされ「ABIKO(安彦兼次氏由来)-iron」と命名されている。)」はかなり軟らかい)
先述のように、「高炉・転炉・平炉」の出現によって人類は多量の鉄・鋼を手に入れることができた。エッフェル塔などはその成功を高らかに示したトロフィーである。そしてその鉄・鋼を人類はさまざまな用途に使うようになった。更に言えばさまざまな用途のためにその利用の応じた鉄・鋼が必要とされた。「近代的な合金(合金鋼)」そしてその生産のための「近代的な冶金」の始まりであり、ブレアリーなどはその先駆的な研究・開発者と言える。
「合金(合金鋼)」は作るための添加物によってさまざまな側面を見せる。先に述べたクルップ鋼はニッケルクロム鋼を浸炭処理(表面に炭素を処理したもの)したものであり、製造のためにニッケルとクロムが必要となる。軍艦や戦車などの装甲板に適したものと各国とも求めた。クロムは日本でも多量に産出されて、(日本軍のヘルメット(鉄帽)はクロムモブリテン鋼)一時はアメリカに輸出するくらいであった。
問題はニッケルである。
「おーい、集合だってよぉ~~」
鉱山全体にサイレンが響き、その後に鉱山事務所から係の者が数人、口々に叫びながらあちらこちらに散らばった。ちょうど交替の時間だった。露天掘りの鉱山に行くつもりの連中は首をかしげながら事務所前に集まった。ざわざわとした雰囲気の中で鉱山長がその全員に告げる。
「閉山が決まった。」
鉱山から戻ってきて、三々五々集まった鉱夫(鉱山工夫)たちは汚れた顔を見合わせた。鉱山長の言っていることは分かる、閉山だ。鉱山が終わる日を迎えたのだ。
「実に唐突ですなぁ、昨日戦が終わったばかりだというのに…」
戻ってきた一班の班長が声を上げる。鉱夫のリーダーの一人である。自分では大きな声を出したつもりはないが鉱夫たちはみな声自体が大きい。
「これまで交替で一日中掘っていたんだ」
「今日で掘るなと言われても…」
鉱夫たちも口々に愚痴を出す。
「だいたい採算が合わないのを無理して掘ってたんでしょう?」
風呂上がりなのか、手ぬぐいを肩にかけた選鉱部の副部長がぶっきらぼうに言い放つ。なにせ開山自体は、(昭和13年)重要鉱物増産法が公布される以前の10年前であるが鉱夫を増やし、鉱石を本格的に出し始めたのはほんの4年くらい前の話である。(必要とされるその含有量は0.6~0.7パーセントと言われている貧鉱の処理に適した技術として「クルップ・レン法」が導入されたこともある)
「石炭山にでも行くかぁ~」
その後、敗戦と同時に鉱山入りを止めていた中国人や連合軍捕虜などに宿舎待機が命じられる。閉山処理のための計画が事務方から出され、鉱夫は別の山へと散り散りとなり、鉱山への道を塞ぐなどの処理を経て2ヶ月後、この鉱山村には誰もいなくなった。京都の大江山鉱山の話である。この鉱山だけでなく、昭和20年に閉山した山は多い。
ニッケルは鉄鋼の冶金における
「魔法の粉」
というべきものであり、とりあえず入れておけばその割合や他の添加物とともに何かしらの効果が見られる。ニッケルは日本でも産出したが、含有量が少なく他の鉱石と一緒に出る鉱山くらいしか採算がとれなかった。戦略物資であるニッケルをどうするか? 採算のとれない鉱山を補助金がらみで掘らせる、それでもなお国内必要分としては足らない。ならば? 輸入に頼るしかない。しかし「装甲板に使うはず」という目で見られるニッケルの量を他国に知られることは正面戦力・戦力準備自体の公表となり、隠した状態で輸入し、備蓄することはできないかと頭をひねった。しかも備蓄としておける形で… 戦前の日本ではそれを「貨幣」として扱うこととした。それまでの貨幣は「黄銅貨」あるいは「白銅貨」であったが、それを特に少額貨幣(つまり大量に必要とされる)に「ニッケル貨」として量産した。言わば「都市鉱山」の走りである。1250トンと言われる輸入ニッケルは1933年より五銭・十銭硬貨として製造される。(外国にはバレバレの様子であったようだが、戦争が激化する中で予定通りニッケル貨幣は回収され軍需品生産に回され、アルミ・錫の貨幣へと置き換えられる。香港などで手に入れたイギリスなどのニッケル貨も回収された)
それでも足りない。少なくとも一桁、できれば二桁上げる必要があった。戦前(1892年が始まり)にニューカレドニアへと移民する集団があった。ニッケル鉱山の開発を中心とした一団である。ある者は帰国し、ある者はそのままニューカレドニアに住み着き家庭を築いた。そして小さな日本人街が出来上がり、安定したニッケルのため合弁により日系鉱業会社が設立する。しかし、開戦がすべてを終わらせ日本人は少数を除き一斉に逮捕され、オーストラリアへと強制送致された。(このあたりの「日系人排除運動」は反吐が出る、現在であっても欧米が「人権」という言葉を出すたびに…)
昭和17年2月の蘭印作戦と同時に、日本は石油掘削・精油の面々をパレンバンなどに派遣すると共に、ビンタン・マラッカなどボーキサイトの生産地、セレベス島(現在ではスラウェシ島と呼ばれる)のポマラニッケル鉱山に住友金属の技術者を中心としたグループを船で運んだ。海務院(逓信省の下部組織)は油田や鉱山からの輸送のために『戦時標準船(戦標船)』を昭和15年より計画を立て、既に建造を始めていたのである。のちの二次戦標船と比較すると緩やかな標準化であり、モデルとなった優良船から船型(線形)も曲線と直線とが混じっているものであるが、搭載する機関は標準化による量産が進んでおり、搭載する艤装関連の共通(量産)化、最大限のブロック化・溶接工程(この点は各造船所のクレーン能力や溶接技能に伴っており、少しずつブロック化や溶接工程の増大が高まっていった)によって、ある造船所は海上トラック程度の標準船を最初の船の進水こそ1か月程度早まっただけであったが、2隻目、3隻目と進むにつれて進水どころか艤装が終了するまでに4か月(途中で二次標準船となったが…)という早期建造ができることとなった。
「兵器と人員をよこせだと?」
「船はこちらが用意するから、動かせる者を用意してほしいということです」
海軍省は大混乱であった。
「船体自体はすでに10隻余り建造途中だそうで…既に数隻は進水しているようです」
「逓信省は何を考えてんだ……」
課長は頭を抱えた。
「もしも…協力できないならば…」
「ん?」
「物資の割り当てを考えるそうです」
「石油も?」
「はい。石油だけでなく鉄鉱石、ボーキサイト、ニッケル……」
「我々海軍に戦争するなということか?」
課長は怒ることよりあきれ返った。
「例の件ですね…原因は……。これまで強く出るとなると逓信省だけではなく、他の省庁も了承済みかと…」
ここまで逓信省が海軍に要求しているのは、欄印作戦時に数隻の輸送船が沈められたことにある。戦時であるから仕方ないこととはいえ、その中の一隻に油田関連の船が入っていたことだ。なけなしの掘削等の機械をかき集めて運んでいたのだから、仕方がないでは済まない。しかもその時の海軍艦艇の動きは褒められるものではない。逓信省としても海軍を十分には信用できなくなった。日本郵船や三井船舶・川崎汽船などの輸送船を出す側は予想以上の損害(損害予想自体は示されていたが、自社の損害となるのは許せなかった)に真っ青な顔になっていた。
『果たして海軍は輸送船を守ってくれるだろうか?』
では、逓信省が「軍艦」を海軍とは別系統で作れているのはなぜか?
これには海軍とは別に国境付近(日本の場合、ほぼ海の上にあるが…)の警戒にあたる必要を考えていたからである。また島々の灯台・観測所への補給任務などもある。戦争が始まった場合にそのあたりが疎かになることを考えた上で独自のものを建造したのである。(武装は独自で用意できないので海軍から流してもらうことを考えていた)船は二次標準船の計画に先立ち、実験的に量産効果をより上げることを考えていた。(但し『軍艦』であるので、強度的には『軍艦』よりに高めている)計画された。
艦艇は3種類。海軍艦艇を建造するための大規模な造船所を除き、これまで1,000トン、2,000~3,000トンレベルの民間輸送船を建造していた造船所に声をかけた。
A 500トンまでの高・中速の近・中距離用艦艇
B 1,000トンまでの中速の中・長距離用艦艇
C 1,500トンまでの高速の中・長距離用艦艇
二次標準船建造開始を昭和17年後半と考えていたために、これらの艦艇(試験的建造)は16年中期より始まり、17年初頭には進水が始まった。
海軍が関係していないのになぜ?という疑問もあるだろうが、逓信省は「船」の検査を行い、運用を開始する許可を行う場所でもある。それは海軍の艦艇も同様である。従って逓信省には各種艦艇の設計図なども各造船所より提出されそして保管されていた。それら膨大な艦艇の中でも未経験な造船所で建造できうる物が選ばれ、そして民間の造船所の協力を得た上で標準船と同様に量産性を高めた再設計が行われた。ちなみにA型は駆潜艇、B型は海防艦、C型は海軍が計画したまま放置していた小型の「駆逐艦」(情報のみ)をそれぞれ基本モデルとしている。(なお、その頃新規に近いために未だ設計途中だったC型は艦政本部が参入し、後に海軍型は魚雷を搭載して「丁型駆逐艦」と称されることとなる)そしてその主機はすでに昭和15年より民間の造機会社での量産・改良が続く
「海務院型統制エンジン(ディーゼル・ボイラー・タービン)」
であり、それを流用する形で艦艇の量産に寄与していた。
建造まで海軍には秘密裏に行われたこの計画は、人員と兵器の導入時にバレた。海軍は慌てた。艦政本部は真っ青となった。突っぱねることは得策ではないのは事実であるが、顔を潰されたと考える(「今」しか見えない)者がいたのも事実である。混乱はさほど続かなかった。海軍大臣がこぼした愚痴に他の大臣・官僚からの総突っ込みがあったからである。特に陸軍からの攻勢は激しかった。
「海軍が協力的でないのが原因だろう。少なくとも周囲からはそう思われている。以前言ってた『海上護衛はお任せください』というセリフが無理だと判断しただけだ。ならば……すべてうちでしても良いんだが?」
これから建造されるはずの小型の護衛用艦艇が陸軍に流れることは阻止しなければならない。海軍側はメンツよりも実利を優先する、それは「顔を潰された」とされる高官さえも黙り込ませることに繋がる。少なくとも現在建造された、建造途中の艦艇は海軍で使えることになる。「捕らぬ狸の…」であるが……………。
上層の思惑はどうあれ、特設護衛船団司令部(1年後には海上護衛総司令部(GEB)麾下の常設司令部となる)が急遽立ち上がり、まずは第一護衛隊(東南アジア方面)が編制され司令部は動き出した。自分の直接の指令系統の根本は海軍ではなく逓信省・軍需省(昭和17年に成立)にあるらしいが、ある程度の自由度は任された。ずいぶん司令部はでかくなる。なにせ海軍だけでなく他の省庁からの出向者が集い、組織として組み込まれていった。最初こそ「猿山のボス争い」があったが、その後の組織整理のスムースさはさすがに手慣れた官僚である。
第一護衛隊は旧式駆逐艦などを中心に第101戦隊を中心としてとりあえずできあがったのが4月。兵員も同様に増え続け、他部署・沈められた艦艇から、あるいは新規採用(海軍は基本、徴兵ではなく召集(一旦退役した兵)と採用新兵で構成されていた。一部には商船からの海軍予備員なども含む。戦中後半は別)されて送り込まれた。5月になると逓信省から引き渡されたA型・B型の護衛艦艇での訓練、そして早速の実戦化が図られるようになった。それとともに海軍内でも片手間で行われていた対潜行動・戦闘について、既に設立していた「機雷学校」が拡大・充実される。(後に「対潜学校」に集約される)
艦艇の拡充に伴い、第102戦隊・第103戦隊が編制され、指揮系統・編制の整理のために第一護衛隊は第一護衛艦隊と名称を変え、本土から東南アジア(主に集束地であるシンガポール)方面への船団(いわゆる「ヒ号船団」)護衛任務に就くこととなる。船舶だけでなく、高雄(台湾)警備府・海南警備府などに所属している航空隊より摘出された航空機を再編成し、昭和17年後半より第901海軍航空隊が第一護衛艦隊の指揮下に納められ、単なる寄せ集めではなく、組織的な即戦力の拡充を図ることとなった。
船会社は船団化(船団を待つ時間が必要となり効率が悪くなる。その中でも「一杯 (いっぱい)船主」)と呼ばれる所有船舶が1隻で、時には家族が船員として自ら乗り組む船主たちは効率の低下を嫌った)を嫌がることもあったが、単独船への被害が数字として表れていたこともあり、また逓信省・軍需省が粘り強く交渉を続けたことで、東南アジア方面の船団は定期的に運行することとなる。どちらかと言えば湾港能力が低い日本での積み下ろしに時間がかかるという弊害があった。
もちろん護衛の艦艇が付いたからといって船の損害自体がなくなるということはなくアメリカの潜水艦は南シナ海へのルートを取り、単独船や船団への夜間(さすがに昼は抑えられた)襲撃を続けた。
対抗する日本は、船の損害の状況、その時の護衛艦艇の動きなどを集約し「機雷学校」での研究会に計った。ヨーロッパ方面の対潜情報を集めると共に、これまでの被害・戦闘経過、そして潜水艦の目撃情報をまとめ上げて数値化し、より効率的な護衛・対潜作戦を作り上げることに繋がる。研究会はその後、第二・第三護衛艦隊などが編制されるに伴い海上護衛総司令部の下部組織として編制され、船団編制・護衛の指揮所として機能する。
これらの活躍によって、東南アジア方面の船舶被害は急激に減少し、戦時標準船の量産が損害に追いつくことで、昭和19年春には戦前を含めて日本の商船保有船のピークに達する。ところが、その後にフィリピンの一部の占領から日本船団へのアメリカ軍航空攻撃や潜水艦襲撃が相次ぐこととなる。この頃になると、第二次標準船の簡易量産化を推し進めることに邁進したために船舶としての能力・信頼性に欠ける船が船会社からも陸・海軍からも不評で、能力と信頼性を高めた第三次標準船の量産・運用が始まっており、船団も以前より2ノット以上の高速で危険地帯を駆け抜けようとした。(たかが2ノットではあるが、潜水艦から逃れるためにはその程度でも十分に武器となる。別に敵艦を沈める必要はない)問題は航空機である。船団は大陸近くを通るようになり、また仏印・海南島・高雄からの航空カバーを対潜水艦用に以前より受けていたが、対攻撃・爆撃機のために戦闘機での哨戒を行うことも多くなった。しかし陸攻や飛行艇・水偵などと比べ航続能力が低い戦闘機をいつまでも船団に張り付けておくことはできず、アメリカ軍もその間隙をついて船団への攻撃を行う。すでに18年初頭よりタンカー改造の小型空母を船団に編入していたが、空母自体が攻撃されることが多く、ある程度の抑止力こそ持っていたものの十分な対航空機戦力として活躍できる場は少なかった。それらのことによって昭和19年後半より損害は急激に伸び、日本へのさまざまな物資輸入が細々とした細い線となっていく。逓信省・軍需省にしても民間会社にしても、それぞれに石油やボーキサイト・ニッケルを備蓄し続けたが、その継戦のための物資は代替材料を含めても最大1年半とされ、昭和20年を迎えるのだった。
いかがだったでしょうか?
大江山鉱山の話はどこかで載せたいなぁ~(連合軍捕虜の話ももう少し書きたかった気もしますし)
そういえばニッケル貨のことも…
とかいろいろ組み合わせてみました。
実際よりは、東南アジアからの輸送が上手くいっている話を書かないとニッケルが…という話をでっち上げた次第です。(林先生の「興国の盾」って面白かったなぁ。あれくらい歴史変更できない自分の頭の硬さが…)
ニューカレドニアの話は大分以前に聞いたことがありましたが、結構日本人街ができていたことまでは知ってませんでした。
さて
今度こそ、実戦です。プロットはできてます。(できているとは言ってない 笑)
一話で終わるつもりでしたが、前後編になりそうな雰囲気です(焦り
ではでは。