排気タービン過給機実戦へ(実用機への手順、そして開戦へ)その8
皆様
おはようございます。
前回の投稿により、
ブックマーク登録 100 件
ユニーク累計 20,446人
PV最高記録 1,368
と、投稿を始めて目標にしていたものが2つ、達成しました。
ありがとうございます。
ひとえに「隙間」歴史が好きな(?)皆様のおかげです。
余りに嬉しくて、つい徹夜状態で(昼寝して…笑)一週間でできてしまいました。
では、お楽しみください。
月並みな意見かもしれないが、僕らの暮らしている世界のありようは往々にして、見方ひとつでがらりと転換してしまう。
光線の受け方ひとつで陰が陽となり、陽が陰となる。
生が負となり、負が生となる。
そういう作用が世界の成り立ちのひとつの本質なのか、あるいはただの資格的錯覚なのか、その判断は僕の手には余る。
村上春樹 『謝肉祭』
◇ ◇
十四試局地戦闘機は昭和14年9月に三菱単独指名(中島には「双発戦闘機」が指名された)の形で海軍から要求されたものである。その最高速度は
○ 高度6,000 m において325ノット(約601.9 km/h)以上
最高速度は敵機よりも優勢な速度を目指すことがもちろんであるが、着目したいのはその想定高度である。その高度は敵爆撃機を待ち構え迎撃する高度であるが、ソビエト(共産党中国)や国民党中国などが利用している爆撃機の遙か上を目指している。念頭にあったのがボーイングBー17もあったのは間違いない。そしBー17の設定していた高度は8,000m。
足らない?
すでに海軍は十四試局地戦闘機の性能向上のために排気タービン過給機を付けることを考えていた。したがって
○ 将来的には排気タービン過給機を付けることを前提にする
という一文が「計画要求書」に入れられていたのである。
「そんな2度手間なことを」
「最初からタービン付きのエンジンを使うように設計するしかないな」
設計にあたる堀越チームは困惑の中にも、受け入れる準備をしていた。
「まだどこにどう取り付けるかは検討中ですよ。十分に検証していない状態ですし…」
三菱の発動機部門の方がよっぽど困惑していた。陸軍の強引な後押しもあって、研究・開発を進める環境は整ったもののこの過給機に対して専任の技師は3人、研究員・設計士などを含めても10名程度の小集団であり、他の部門からの応援を受けて実エンジン・実機研究を続けてたのが実態である。(ちなみに戦後であるがマツダのロータリーエンジン開発専任・兼任者はさまざまなものを加えて最大時に60人余りである)
前述のように、双発機は96式陸攻によって排気タービン過給機の実機試験を始め、初期不良・不具合を克服しつつ高度8,500m付近での全開馬力を出すこととなった。次に同じエンジンを搭載できる機体として97式2号艦攻(三菱製)を選択し、単発機への搭載試験を行った。また「研2」のために排気タービン過給機付きのハ102(瑞星エンジン)開発に伴い、97式司令部偵察機に自社研究として取り付けて検証を続けた。上手い具合に97式司令部偵察機を海軍が使うよう瑞星エンジンを付ける改装が行われることとなっていた。(後の「98式陸偵」)排気タービン過給機の研究会はこれ幸いに三菱の機体に自社の過給機を取り付け、その艤装方法を検討し続けた。
96式陸攻への取り付けは最初、機械式過給機と同様にエンジンと一体化し、機械式過給機の隙間に押し込むような形で行われた。排気パイプの長さも短く、効率が良いように考えられたからである。ところが「過熱」する。排気タービン過給機が過熱するだけでなく、エンジンへの吸気パイプ・流入空気、そしてエンジン本体である。エンジン馬力が計算上よりかなり低下する、地上運転では何事もなかったエンジン不調が上空では続く。原因はノッキングによるもの、14気筒のそれぞれが点火プラグを無視してバラバラに点火する(しかも不完全燃焼)のであるから当然である。
研究会としてはその排気温度を下げることを考慮する必要があった。アメリカからの情報の断片からロッキードP-38の搭載方法を推定し、エンジンナセル内の後方に排気タービン過給機を付け、排気パイプ・吸気パイプをナセル内に這わせるようにしたところ、ノッキングはかなり低下し、高高度でも安定した馬力が出ることとなった。
「研2」の2号機、ハ102(瑞星21型に相当)に排気タービン過給機を取り付ける調整作業が始まったちようどその頃、キ46(「百式司偵」)は試作機1号機の初飛行を迎えた。
「要求予測よりもかなり低いじゃないか?」
「この機体をそのまま通して良いものか?」
軍需審議会ではキ46に対して、かなり厳しい目が向けられた。この会議で通らなかったら制式採用されない。ハ26(瑞星11型に相当)試作機が出した最大速度は540km、対して要求値は600km。機体の素性は十分なものであり、増加試作機などを含めて実用実験が行われていた。
「すでに改善策は練っています。半年もいただけたらものになります」
「仮採用して、量産体制の整備と共に改良させていただけたら…」
三菱としても、陸軍の航空技術研究所としても、すでに打つ手を持っていた。
「三ヶ月だ、半年も待ってくれんそうだ」
苦い薬を口いっぱいに含まされたような顔で相談役で上司の河野(97式司偵・神風号の設計者)は言う。
「とりあえずハ102を使うべきだろう。A8(金星エンジン)は陸軍が採用していないし…今から中島のエンジンを使うのも業腹だし、時間がない」
鼻を鳴らす勢いで言い放つ。
「計算上では、間違いなく600㎞は出せます。一段二速過給機の方も思った以上に順調みたいですし……しかし…」
久保は言って良いか数瞬迷った。
「しかし?」
「『ダメ』と言われたものですから、それ以上のものを出す必要があるのではないでしょうか?速度以外で…」
「久保君、何を?………………なるほど…」
「ええ、高度です。例の『研2』用のエンジンがほぼできあがってるらしいですよ」
久保はいたずらっ子のような笑顔を向けた。
かの『研2』はハ102に排気タービン過給機を取り付けて高高度対応のエンジンと化していた。全開高度は計算上ではあるが12,700m、そのエンジンを使おうとしているのである。
「陸軍に我々の力を見せつけてやれ」
発動機部門を中心として重役たちさえもやる気に溢れていた。その頃、陸軍が三菱に求めていたものはその会社の規模を考えても小さいものであり、「97式重爆」での口出し(機体胴体部の中島式形状への変更、中島製エンジン(金星エンジンを制式採用していなかったためでもある)への換装)や「97式戦闘機」採用までの流れ(三菱のキ18・キ33(どちらも「96式艦戦」の陸軍式改造型)を無視したやり方)などの中で怒りもそれなりのものがあった。
三菱の陸軍機部門の設計関係の手空きなものは全て集められた。発動機部門でも一緒である。
「人が次から次と集まってきて、何とも祭りのようでしたよ」
とは、その頃の様子を伝えた技師の言葉であるが、三菱としても自己のこれまでの研究成果を発揮できる場として考えていた。
「明日まで? 今日中にできるさ。夕方まで待ってくれよ」
ベテランと呼ばれる職工たちも奮い立った。加工の難しい耐熱鋼材も微妙な差を指先で探り当てることができるという職人芸にはかなわなかった。もちろん大量生産体勢に移るためには未だ2段階ほどの差があるが、試験的に作られる程度のものであれば彼らの手でならばどうにかなる。効率よく排気・吸気が行われるようにパイプは数十本作られ、取り付け方がさまざまに検討された。そして三菱の熱意は2ヶ月後に新しいエンジン(排気タービン過給機付き)を搭載したキ46の初飛行を生み出した。
数回の試験飛行の中で高度5,800mにて速度604kmを記録し、三菱としても汚名を返上、陸軍としても初めての600㎞越の速度に歓喜した。しかし、最大速度はそこではなく高度10,000mにて速度608kmを記録。(別記録では速度610km)すぐさま制式採用された。(それまでの機体をⅠ型(増加試作機を含めて32機)とし、キ46Ⅱ型と称される)
「またあいつだ、連絡を取れ」
マレー・シンガポール方面を偵察する機体(日本機とは分かっていても国籍不明とされていた)は数日に1回、高度6000m程度でその進路を変えることがなくまっすぐに飛んできた。初期型とは言え、イギリス基地にはレーダーが備えられている。この敵機(?)を迎えようと、哨戒中の戦闘機が誘導されこの偵察機へと迎撃にかかる。
「ダメだ、速度がいくら出てんだ?ハリケーンよりも速いぞ」
基地からの誘導に従ってコースをさだめて出力をあげて上昇したはずであった。
「これ以上、追跡できん。突き放されるだけだ」
マレー方面では最新鋭と言うべきアメリカ製のB-339Eバッファロー(F2Aの輸出型名)は喘ぐように6,000m上空にたどり着いたが、その遙か上空を何のマークも付いていない灰色の機体が通り過ぎていく。バッファローで追いつくことができないのならば、他のイギリス機ではますます無理である。
「ありゃあ、ドイツ機だな。日本にそんな速度がでる機体を作れるはずはない」
「もしかしたらアメリカ機を密輸入したものかもしれん。アメリカには600㎞以上だせるのがあるらしいからな」
基地に帰投したパイロットは口々にそういう。なにせイギリスやアメリカの航空関係者の認識として「日本機はイタリア機以下」「未だに複葉機ばかり」「近眼ばかりでパイロットなんかできない」などという、いったいどこからそんな噂が広まったのか分からないもののそう信じていた。(シェーンノート(この人も大概な人だが…)率いる義勇軍(と称する米陸軍派遣部隊)フライングタイガーズからの零戦に対する情報が潰された一因でもある)極東軍総司令官であったロバート・ブルック・ポッパム英空軍中将、そしてその航空戦力を統括するプルフォード空軍少将も共に「新型機」を望んだが、その頃のイギリス本土もドイツからの空襲に備えるのに精一杯で、アメリカからの「輸入」に頼ってでも航空勢力を均衡状態においていた状況の中、スピットファイヤーの登場に伴い1.5線級に下がり始めたハリケーンを派遣することかできることの上限であった。そしていずれにしても距離的にも時間的にも遠い。ハリケーンがシンガポールに到着したのは1942 年 1 月 13 日、既に開戦後一ヶ月を過ぎていた。そしてそのハリケーンも前線の流れの中ですりつぶされていくのである。
そのような三菱の熱気の中で、十四試局地戦の概要検討は続いた。
「愛知の十四試(後の「熱田」)ではだめだ。こっちからの要望を聞いてもらえるか分からん」
「うちのA10(後の「火星」)でいいだろう? 機体と同時に改良できる」
三菱としても自社のエンジンを採用された方が良い。百式司偵の排気タービン過給機付きのハ102(「瑞星」)は順調に仕上がっていた。同じ「金星」エンジンの系列である「火星」エンジンに排気タービン過給機を付けることはできなくはないだろうし、そのチームはまだ生きている。
金星エンジン搭載の96式陸攻も同様、百式司偵の先行実証機として可能性が高くなり、海軍は興味を持っていた。「高高度偵察機」として生産途中の21型に排気タービン過給機搭載した機体を仮称96式陸上偵察機(爆装自体はできる)として三菱に要求し、2機を大陸部での偵察任務へと送り込んだ。
三菱はその後、単発機への排気タービン過給機搭載を探るべく、97式2号艦攻(三菱製・金星エンジン)とキ15(97式司令部偵察機)に瑞星エンジンに換装した機体をそれぞれに用意して実機試験を繰り返した。
ここでやはり問題となったのは過熱状況によるエンジン不調であった。三菱製の排気タービン過給機は、日立や石川島製の過給機に取り替えられ繰り返し実験したものの、過熱の問題自体が変わらなければ致し方ない。最初機体機首部(エンジン取り付け位置の直後)の右側に設置されていた排気タービン過給機は、「研2」の取り付け方を参考にやや離れた機体中央部へと設置され、エンジン部より排気・吸気のパイプが這わせられ、機体内部に余裕がない場合には機体外部へと導かれた。(このあたりは実証機であるので、機体全体に手を付けることがなかった)それでなくとも速度重視のために機体をスリムに仕上げていた97式司令部偵察機は二本のパイプが機体下部に露出したものになった。
そんな中で排気ガスを冷ますために「中間冷却器」も検討された。ただ、検討を続ける中でも
「中間冷却器というものについて確固たる方針が無かった」
「アメリカのやり方をまねして、とりあえず付けてみようとした」
とは石川島の技師の戦後の証言である。結果として、ある程度エンジンのノッキングも落ち着き、高高度での安定した出力を出すことに繋がる。パイプを理想値にするべく長く張り巡らせれない単発機では必要なものという認識が広まった。
そんな中、十四試局地戦の概要が少しずつ固まっていく。
「機体内にパイプを通して、中間冷却器を備えても大丈夫な大きさが必要だ」
「紡錘形を取り入れたから、零戦よりは間違いなく余裕があるさ」
紡錘形理論とは、三菱が取り入れた胴体形状・設計のものであり、胴体の最大直径部を40%位置(層流翼理論を胴体形状に取り入れた。本来は30%位置)に置き、空気抵抗を減らすためのものである。特に火星エンジンを搭載することと相まって十四試局地戦は日本機としてはかなり太い胴体を持つ。設計は順調に進む。1号機も部品が準備されて少しずつ組み立てが始まっていた。(ちなみに日本独特というものではなく、アメリカではいくつかの機体で採用されている)
全てが予定通りに進む中で、事件と言うべきことが2つ起きた。
1つには設計主任の堀越技師の過労による長期休暇である。仕事中に倒れたのだから三菱としても休ませるしかなかった。何せ堀越は天才肌で自分の機体の隅々まで自分で目を通し他者の手を十分には生かせない存在だった。その分、疲労は積み重なる。堀越チームは動揺こそすれども相談役に退いていた曽根技師のもと決められた手順に従って試作を進めた。
2つにはかの紡錘形理論に対する疑惑である。アメリカからの情報をまとめると、
「プロペラ後流によって胴体の紡錘形理論は破綻する」
つまり、双発機以上の多発機であれば胴体の紡錘形理論は大丈夫だが、単発機に関する限りは下手をすれば乱流を起こし、反対に空気抵抗が高まるというのである。
三菱だけでなく、この紡錘形理論を推奨していた海軍空技廠科学部は焦りを覚えた。木模型による風洞実験的には抵抗が低くなっているのは分かるものの、プロペラを回した状態などというなどという条件で行ったことはない。アメリカのような巨大な風洞(NACA のフルスケール風洞は高さ9m、幅18mと、実機さえ計測できた)は予算的にも時間的にも難しかった。
ちなみにであるが、日本の風洞装置は明治41年に田中舘愛橘教授によって製作された四角形立方体(「長持ち」が原型らしい)の形状のものが日本で最初の風洞と言われている。その後、フランスなどからの情報を元に直径2mのもの(東京大震災で消失)が、さらに戦間期にカール・ヴィーゼルスベルガー(気力学・流体力学の研究家でありドイツにおいて速度変更可能な風洞を設計・建築したルドヴィヒ・プラントルの弟子)を海軍が招き(かのカルマン教授も来日したらしい)、海軍と東京帝国大学航空研究所(直径3m・東京大学先端科学技術研究センター内で現役)に設置したのである。ただ、航空工学の進展は風洞内に発生する乱流をできる限り抑制し、乱流遷移の条件や遷移点の検知・計測のために低乱流風洞が必要とされ、東京帝国大学航空研究所に建設され、谷一郎教授の「層流翼」形成に役立った。
しかしその話の真偽さえ分からないのだから、試作機はそのままに製作され、その傍らモーターを付けた模型が風洞実験を行うこととなった。
そして試作機は空を飛んだ。1号機にはまだ排気タービン過給機は付けられていなかったが、いずれにしても要求値(高度6,000 m において325ノット(約601.9 km/h)以上)をまるっきり下回り(310 ノット(574 km/h))、1号機完成以前に性能向上型が望まれた。
「紡錘形なんか、忘れてしまえ」
乱暴な意見であるが、堀越技師がいない間に十四試局地戦・零戦の改造に手を貸していた本庄技師は割り切った。その頃やっと渋々ながら紡錘形理論の単発機導入の弊害を認めた海軍空技廠科学部を前に胴体の最大直径部を30%位置に置き直して、視界不良という評価を受けたために操縦席の高さを上げ、エンジン部の延長軸を止めすっぱりとした機首(一式陸攻のカウルを参考に再設計)とし、一式陸攻に搭載されている火星エンジン(その向上型の二○型シリーズ)をそのまま搭載させるようにしたのである。もちろん、排気タービンはそのままでも搭載できる機体であった。主翼はほぼ同一のものであったが着陸時の安定性のためにフラップをやや大型化した。(この改造に対しては三菱も身銭を切ったようである)機体自体の基礎設計は間違いなく、2号機は順調に仕上がった。エンジンの変更もあり、2号機は330ノット(611km/h)の最高速度を記録する。3号機には実際に排気タービン過給機を取り付け、高度10,000mでも330ノット(611km/h)を記録した。この機体の改良・性能向上型はBー17や昭和19年以降のBー29迎撃に活躍することとなる。
「戦時中だからできたことで、後からさんざんに堀越から怒られた」
と、本庄は戦後に笑いながら言ったという。ただこの割り切りがあったこともあってか、振動問題も低下し、実用性のある機体として「雷電」は制式採用された。
「本庄さんの提案自体、間違ってはいなかったろう」
と寡黙な堀越技師の言葉もある。堀越は雷電から手を引き東条技師などの若手に任せ、「十七試艦戦」へと邁進することになったのも事実である。
さて、「雷電」の制式採用までに時間がかかると感じた海軍は、零戦に十分な実績を上げている排気タービン過給機付きの金星エンジンを搭載することを考慮する。ちょうどその頃は三菱としては「2号艦戦(零戦32型)」とその改良型である22型に没頭しており、堀越技師も不在がちのために、愛知飛行機に声をかける。愛知はその頃、零式三座水偵・99式艦爆などの量産と共に、海軍空技廠の監督の下に艦爆「彗星」、水偵「仮称二式高速水上偵察機」(後の「紫雲」)の試作・量産を始めていた。99式艦爆には金星エンジンを搭載していることもあり、また三菱の近所にその工場を持っていることもあって、海軍経由で最新鋭の22型の図面が渡され、それに金星エンジン(99式22型艦爆と同様金星54型、ただし排気タービン過給機付き)を搭載するための改装が行われた。(このことについては堀越がかなり憤慨したことが曽根の記述にある。金星への換装は以前から堀越が願っていたことであった)金星エンジンは栄エンジンに比較して200㎏程度重いために、取り付け位置を少し下げて重心位置を変更し、過給機を取り付けるために空技廠と日立、三菱などが開発に立ち会い、排気タービン過給機のパイプの取り回し、中間冷却器の取り付けなともあって機首側燃料タンクを操縦席後部に移す。(採用されたばかりの漏洩防止タンク化)彗星の生産が滞っていることがあって「余って」いた彗星用のプロペラを流用。ちょうどその頃に採用された零戦22型甲型と同様に99式2号機銃を搭載(後に機首付近の手狭なこともあって(整備のしやすさのため)機首の7,7㎜機銃を廃止し、主翼に13,2㎜機銃を備えた)、試作機は三菱が製作した22型を愛知が改装した形で完成。機体自身が完成しており、またエンジンも完成していること(金星エンジン換装は99式艦爆で慣れてる)もあって改装された機体は2ヶ月後には初飛行を迎える。(とりあえず機体後部に「重り」を置き、後に無線機の位置変更による重点変更を行った。このよう乱暴なやり方は堀越自身が一番嫌った方法である)数回の試験飛行後、多少過熱問題もあったが「中間冷却器」が有効に働いたこともあって、改修後は特に大きな支障もなく「仮称零戦43型」として仮採用される。
更に愛知飛行機は「彗星」の不具合が遇い続く中で、99式艦爆の速度が米軍戦闘機よりもかなり遅いこともあって、この機体をもとに艦爆を製作することを提案。仮称43型に降下制限速度を向上されるために厚板構造を取り入れ、排気タービン過給機を取り外し爆撃機としてその装備を整えた。(250㎏爆弾を機体下部に装備し、200リットル落下式増加槽(後に陸軍との協議で合同採用した250リットルに改められる))を主翼両方に配置し直す。(これは「仮称43型」にも機体腹部に排気タービン過給機を付けていたために取り入れられた)これが「2式戦闘爆撃機」として先に採用される。
2式戦爆は彗星と共に艦載爆撃機として昭和18年以降の空母戦に活躍し、急降下爆撃自体は強度的にも難しかったが、特に爆弾投下後にもその空戦能力を発揮する。(初期の搭乗員のほとんどは99式艦爆のパイロットであったが、多少の空戦にも対応できた。特にサイパン島・フィリピン戦などで「高速な零戦」「降下中に襲われた」と書かれている場合、この機体であった可能性が高い)
先の仮称43型(量産のために厚板構造はそのままに採用)は「2式局地戦」としてほぼ同時に採用された。この2式局地戦は「雷電」が戦力化にもたもたしている間に量産されラバウル・東南アジア方面にすぐさま配置され、高高度を飛ぶBー17・Bー24に対抗できる機体として重宝された。排気タービン過給機が付いているとは言えエンジンにしても機体にしても、整備兵が慣れ親しんでいるものであり、良好な状態で戦線に立ち続けていた。金星エンジン搭載に伴った航続力低下はさほど問題とならなかった。
また2式局地戦は、その後にキ46と同様に排気タービン過給機付きの金星62型エンジンを搭載し、終戦まで日本の空を守ることとなる。
いかがだったでしょうか?
雷電についてはいろいろなご意見かあるでしょうけれど、今回はこのようにまとめさせていただきました。
個人的にはあの太っちょデザインは好きなのですけれど、Bー29問題に間に合わないと…と本庄様に鉈を振るってもらいました。実際に本庄様は雷電や零戦の改良にかなり手を出していたみたいですね。(ホントかとどうか分かりませんが32型のすっぱり翼端は本庄様(曽根様かも?)の提案とか…52型の翼端が丸くなったのは堀越様が戻ってきたから…とかいう話をどっかで読んだ記憶があります)
零戦に排気タービン過給機を積ませたのは…ちょっと強引でしたかね(汗
キ100Ⅱに早く到達させるためでもありますのですみません……
戦爆は後悔してません(キッパリ)「99式棺桶」よりよっぽど生き延びやすいじゃないですか?
愛知にしたのは金星搭載の単発機って、99式艦爆が一番だと思ったのと、後に彗星に金星載せたし、三菱からすぐ近いし…ということです。日立あたり…も考えたのですが…どうでしょうかね?
やっぱり愛知しかないよなぁ~~
さて、次回は終戦まで行ければ良いかなぁ~
排気タービン過給機がイヤな中島はどうするか?などとも絡めながら、どの機体を間に合わせようか(立川のとか…)といろいろ悩んでます。(それも楽しい (*^▽^*))
ではでは。




