排気タービン過給機実戦へ(高く、より高く…)その6
皆さ~~ん
お疲れ様です。
年末をいかがお過ごしでしょうか?
僕の仕事納めは、今日、つまり
12月27日
と決まっています。
28日は本宅の「餅つき」日なので、この日だけは40年前から有給休暇を取ります。
(若い時は、この日だけが有給休暇日でしたね しみじみ)
さて、最初にいっておきます。
排気タービン過給機
にはたどり着けませんでした。
m(__)m
いろいろ資料をあさっているとダメですね。
思いっきりよく切り取らないと…
字数だけが増えてしまいます。
ということで、ついつい「与圧気密室」の続きとなります。
では
お楽しみください。
人間は自然の一部であり、
そのため自然の法則に従うべきである。
中江兆民
◇ ◇
「色の名は2000種類以上もあるんだよ」
尋常小学校時代の本好きな同級生がそんなことを言ったのをふと思い出した。2000種類?その頃の私にとっては無限に近かった。
目の前に広がる空の色は何と言うのだろうか。
与圧を逃さないよう強度向上のために以前より太くなった窓枠、やや小さくなったコックピットのガラス越しに見える空。濃紺?それを通り越して闇のように深く黒いくらいだった。その色を知っているのは日本でも未だそう多くはないだろう。もしかしたら将来、この色の名が付くかもしれない。
以前の機に比べるとこの3号機は気密性が高いこともあって、左右の窓から見えるプロペラが盛んに動いているにもかかわらずそのエンジンやプロペラが裂く空気の音がうねりを持って機内に響くだけである。さすがに寒くはあるがこの高度にもかかわらず身体が冷えることもなく、酸素マスクをしなくても「6割頭」になることもない。
「贅沢なもんだ」
つい軽口が出て苦笑する。
「機長、少し早いですが酸素瓶を開放しましょうか?」
そして副操縦員とは怒鳴り合って意思疎通しなくてすむのも利点である。
ちらりと高度計を確認する。
やっと10,000メートルを超えようかとしているところであった。
「うん。今日のお客さんは『ご新規さん』ばかりだから、ちょっと早めに開けとくか」
と、同意し同乗する機上機関士(航空研究所の機体艤装関係の研究員でもある)に合図を送った。しばらくすると身体がポカポカしてくる。機内に酸素を流すことでそれを吸う体内の酸素濃度が高まるために身体が温まるという話である。酸素マスクを使うこともないのでお客さんの自由度が増し、厚手の服さえ着ていれば飛行服を着なくてもすむから好評であった。1号機のような酷寒地獄で身体を痛めつける必要はない。あの頃に同乗していたお客さんは若い者ばかりだったが、この機になってからは多少年寄りでもその道の『大家』が乗り込むことも多くなっていた。
それから旋回しながらじわりじわりと高度を高め、今日の目標高度であった12,000メートルに達したのは20分後。
「これから40分間ほど、このままこの高度を保ちます」
後方客席から『ご新規さん』のざわめく声が聞こえる。四人の気象や気流、天文学などの『大家』はそれぞれ固定された調査機器へと取り付いているようである。熱気が伝わる。
「好きなんですねぇ~、みんな」
副操縦手がこちらににやりと笑い顔を見せた。
「『之を知る者は之を好む者に如かず』か? 君もだろ?」
こちらも笑顔を見せた。
「ええ、『之を好む者は之を楽しむ者に如かず』ですね。できればあの歳くらいまでは飛行機を飛ばしたいものです」
確かにね。
孔子さんも人が空を飛ぶ世界は想像してなかっただろうが…
「研2」は本来高高度飛行に欠かせない(とされた)与圧気密室の開発が急がれたが、東京帝国大学航空研究所の設計(かの東京帝国大学教授木村秀政氏が基礎設計)を立川飛行機がうまく作製できなかったことが原因で遅れた。まあ、飛行機に密閉空間を作るというこれまでの日本ではしたことがないこと(経験の差)があった事実は否めない。軽合金の密着方法、シール材の開発など、立川飛行機一社ではいくら航空研究所が絡んでいるとはいえ解決が困難なことが続いた。解決にはブレアリー研究所や住友金属等の新合金の開発や軽合金溶接などの設計上の発展と共に汎的な企業(つまりは特別な会社の独占的な技術ではなく)での技術的発展が必要であった。そのために完成が遅れがちとなる。
そのために1号機は原型となる予定の「ロ式輸送機」に三菱が開発中の高高度対応エンジン(正確には過給機)を搭載しエンジンテストベッドとして試験が続けられた。(せっかくの機体であるので大学の研究員を搭載して各種の観測を行っている)
2号機(客室のみ与圧キャビンとしている)は予定より三ヶ月遅れで完成し、亜成層圏対応の与圧気密室を未完成ながら実現させた。未完成と言ったのは、この機体は飛ばせたものの機体内外の気圧の差によって隙間が空いてしまったからであり、その後の与圧気密室設計や作製に役立つこととなったからである。
「作ってみないと分からない」
とは航空研究所の一技師の言葉であるが、計算による設計と実際の差を体験すること自体、研究が進むことに繋がる、というより失敗を生かすこと自体が大切なのである。その指導教官たる教授は静かに見守っていた。
そしてそれらの集大成である3号機は2号機の成果を活かしてその発展形の与圧気密室を装備(操縦席まで与圧気密室として再設計)した。遂に成層圏に耐えうるものを作り上げたのである………というように成功譚として述べたいのであるが、そうは問屋が卸さない。
2号機にしても、3号機にしてもエンジンナセルの側面からエンジンの余力を利用して外気を取り込みルーツ型圧縮機で圧縮し、自動調圧機によって適圧にする方式がとられていた。これはアメリカでも採用され(というか、アメリカで採用されたという情報から日本でも採用された)
世界で最初に与圧コックピットを備えたのは、アメリカ版の「DH.9A」(機体自体はイギリスのエアコ DH.9単発軽爆撃機)と言われている。更には前述の「ロッキードXC-35」によってアメリカは与圧気密室へのアプローチを終えた。そして「ボーイング 307ストラトライナー」、更には「ボーイングB-29」へと繋がるのである。
亜成層圏対応のものをちょっと強化・改装したからと成層圏にすぐに対応できるわけではない。内外の気圧差が地上から亜成層圏よりも少ないものの、その密室度の必要性が格段に違う。つまり設計上でも製作上でもその難しさが異なる。不完全なものとなった。更に操縦関係のワイヤーや継ぎ手、油圧パイプをどう通すかという問題もある。(三翼の舵をすべて電動にするべきかと検討されたこともある)つまり、亜成層圏とは格段に難しいことに挑戦したのである。
ならばどうする?
諦めてドイツ式の完全密封式を採用しようとする動きもあったが、とりあえず組み上げた3号機には間に合わない。陸軍も航空研究所もその構造やシール材など密室性を向上させるための方策を試すこととした。しかしそれは次の機体である。
現在ある「ロ号B型」3号機には?
亜成層圏を飛ぶ一号機では間に合ったものの、成層圏を飛ぶ二号機では与圧が不足したため、与圧気密室内に液体酸素を放出して機内の酸素不足を補う対策が取られた。
ここで一旦、ドイツの与圧気密室について述べてみたい。
ドイツの与圧気密室への歩みは「ユンカース Ju 49」という高高度実験機に始まる。過給機の開発(機械式二段二速)に手間取ったものの完成された機体は与圧気密室の不具合もなく高度12,500 m を酸素マスクなどなしに飛行することができた。この実験を受けて、ドイツはJu 86P爆撃機・偵察機(ターボチャージャーを装備したユモ207A航空液冷ディーゼルエンジン搭載。この水平対向エンジンの独立独歩的な機構も興味深いものがある)を開発、スペイン動乱から実戦に投入する。高度10,000メートル以上を飛行するこの機体に対応するものは他国になく、悠々と上空を航行した。むかっとしたのは当然軍事仮想的国のイギリスである。
隣国に自分の手が届かない技術があるのは許せない
産業革命以降のヨーロッパ、その技術的発展(経済的発展)はそれぞれの国が隣国に
「追いつけ、追い越せ」
(言葉を換えれば「他国にだけ有利な条件を持つのは許せない」)
の意識を持っていたからである。(それまでは中東の方がキリスト教的規制がない分、科学的には発展していた。ルネッサンス(「ローマに戻れ」の文化的転換点)・大航海時代(中東で遮断されたインド・中国との貿易)、そして(植民地や他国(清)の犠牲があって)産業革命がヨーロッパを先進国の地位につけた。(少なくともフランスのナポレオン時代はほぼトルコ帝国の方が国力としては上だったろう。このあたりが日本人に分かりにくいのは西洋中心の世界史のためだと考えられる))
ドイツとイギリスは高高度戦闘対応の偵察機・爆撃機、そして戦闘機の開発を繰り返した。この2国の有利な点は互いの実物をエンジン・機体を手に入れる機会があることと言える。撃墜させればいいわけで、その努力を互いに競い合った。そして競い合う技術は向上する。
Ju86Pを迎撃するための高高度飛行が可能な戦闘機スピットファイヤーMk. HF VI(タイプ 350)・Mk. F/HF VII(タイプ 351)を開発。対してドイツはより高高度飛行(15,000m)できるJu86Rが生産される。更にイギリスはそれさえも撃墜可能な戦闘機を開発する。
まさに
「盾と矛」
のヨーロッパ高高度空域戦版である。もちろん高高度対応のスピットファイヤーには与圧気密室が、そしてそのライバルのMe109K4にも与圧気密室を取付けている。(加圧器に空気ボンベを組み合わせて与圧気密室の気圧を一定に保つための工夫を行った「マーシャル式与圧機」と呼ばれる)それら集大成というべき機体が
ドイツのTa152H-1
イギリスのグリフォン スピットファイア
と言えよう。
日本での与圧気密室への研究開発は戦争で始まったためにいったん積極的な姿勢がなくなる。研究のためのリソース不足もあるが早期に対抗する敵機がなかったからである。立川飛行機の技師と機体艤装関係の航空研究所の技師を中心に細々と開発が続けられることとなる。そんな中で立川飛行機は「キ74」(高高度長距離偵察爆撃機)において与圧気密室を採用した。Ju86Pと同様、生存率を高めるためである。3号機とほぼ同時期に開発されたキ74であったためか、3号機と同じ失敗があり与圧気密室でも似た評価を与えた。(それ以外はかなり高評価であるので、航空研究所がかなり協力した前作のキ77を原型にしているとはいえ機体としては完成されたものと考えられる)
そして、川崎の「キ108」が開発される。それは、これまでの対B17・B24には与圧気密室は必要不可欠というものではなかった(酸素マスクで十分と考えられていた)ものの、B29の情報を受けて必要性が高まったためである。
陸軍は二式複座戦闘機「屠龍」(キ45改)の性能向上型として双発単座のキ96を試作させる。更にキ96(不採用)を基本として複座として襲撃機の開発を指示する。(この頃の陸軍の機体への要求は思いつきの連続状態というべきものがあり、数々の試作機が作られる中で要求の変更が幾度も繰り返される。中島の司令部偵察「キ70」などはその典型である)それが「キ102乙」である。なぜ「乙」型かというとこれも要求の増加として同機体へ高高度複座戦闘機の「甲」型が、更に後には夜間戦闘機の「丙」型が陸軍から指示されたからである。(開発自体は「乙」型が先行する)
更に「キ102甲」に与圧気密室をつけ、より高高度に対応する戦闘機として要求された機体が「キ108」である。その与圧気密室であるが、1号機は航空研究所が研究を重ねていたアメリカ式(開放加圧式)ではなくより密閉するタイプのドイツ式に近いものを採用し、繭型の与圧気密室として厚い軽合金のカプセル的な操縦席を設けた。そのために視界は原型のキ102の半分近くとなり、操縦関係のワイヤーや継ぎ手、油圧パイプをどう通すかということに苦心した。結果としてかなり密閉度が高い与圧気密室が完成した。ところがこの1号機の操縦席を隔離する繭型与圧気密室は試作ということもあって外部から閉める方法が採られておりパイロット自身が開け閉めをすることができなかった。(緊急時は操縦士が内部より解放できる。実は戦後のアメリカ速度実験機、マッハ1オーバーの「Xー1」もほぼ同一の外部閉め方法を採っている)そしてこの与圧気密室は気密室の不具合こそあったもののそれなりに成功と言える。
「10,000メートルを超えた上空でも3,000メートルくらいの感じがする」
と、その実用性が実証された。1号機はキ102乙の増加試作機を原型とし排気タービン過給機がついていなかったため、2号機には繭型与圧気密室を操縦席に近い形に変更すると共に排気タービン過給機を装備する。更に甲型を原型とした3号機はドイツからの情報を受けて操縦席自体を気密室として再設計しより実用化するために苦心した。この3号機は成層圏に完全に適応していなかったものの、10,000メートルまでであればパイロットをその低圧力の空気から守ることができ、また緊急時用に備えて「研2 3号機」と同様の酸素瓶を補助装備した形で採用された。このままキ108は採用されるかのように思われていたが、残念ながら完全な与圧気密室ができず、キ102甲・乙を量産する方が時期的に間に合うこともあってその後5機ほどの増加試作機が作製(キ102甲からの改装がほとんどだった、中には搭乗員2人のためのやや大型な与圧気密室を付けた機体もある)されただけで終了し、与圧気密室の試験や改良は川崎や立川、他の研究機関で細々と続けられた。戦前の設計を元にした華奢な機体(零式艦戦や一式戦)ではドイツの情報を元にした操縦席への与圧気密室化はかなり難しく、その後の海軍の雷電や陸軍の四式戦(キ84)・五式戦闘機(キ100)などへの試作・設計が進められたが、日本ではその機自体の量産に支障があり、付いていない機体(つまりは換装前の機体)を量産する方が理にあっているという意見が大半を占めるに当たって、試作機が数機程度作られただけであった。(ちなみに与圧気密操縦席を持った雷電試作機が10機揃ったところで、実戦試験と称され厚木基地に配備されB29への防空任務に就きそれなりに活躍したが、制式機(「雷電改2」の記述もある)とはならなかった)
ちなみに日本海軍は与圧気密室の実戦化の遅れを目の当たりにし、高高度飛行のために戦闘機の搭乗員用に与圧機能を持たせた飛行服の研究が行われた。初期の宇宙服のような外観であり(というか初期の宇宙服は航空機用与圧服の模倣から始まっている)、零式艦戦や雷電などに三菱製のものがB29迎撃時に実戦投入されたというが、詳細は不明である。現在、数は少ないが与圧面が存在している。(『横浜旧軍無線通信資料館』に展示中。また松本零士様の「メカゾーン」にも入手した記述あり)なお、「秋水」用に開発されたという話もあるが、それ以前より開発は着手されていた。これもちなみにではあるが、これを以て
「与圧気密室を作製できなかったために諦めて与圧服を製作した日本は遅れていた」論
を否定する。アメリカやソビエトでも同様のものは開発、もしくは実戦投入(F4Uに記述あり)されている。それでなくては宇宙服は0からの開発となり、ガガーリンは宇宙に出るのが数年遅れただろう。いずれの国も試行錯誤していたのだ。
こういう戦前・戦時中の与圧気密室に関するアプローチは戦後に再開され、アメリカからの技術的支援もあって、その後の航空機開発に役立ったこともあり、無意味な努力であったわけではないことをここに明言しておきたい。
いかがだったでしょうか?
もっと上手く整理しなよ
という声が…
でもでも
ジェット以前の航空機発達史って面白いのですよねぇ~
アレも言いたい、コレも言いたい
の連続です。
今度こそ
今度こそ
「排気タービン過給機」
の話になると…(なるとは言ってない にならないように)
ところで、
ブックマーク 90
ありがとうございます。
「どこまでが現世で、どこからが夢想なのか?」
をこれからもお楽しみください。
たぶん
これで今年の投稿を終わらせると思います。
皆様
良いお年をお過ごしください。
ではでは。




